呉津孫神社・栗原の宮

奈良県高市郡明日香村栗原714 mapfan


鳥居

扁額

交通案内
近鉄飛鳥駅から南東へ25分


祭神
呉津孫神、木花咲耶姫命 配祀 天兒屋根命

摂社 鎮守神社「呉津孫神」、八王子神社「五男三女神」


由緒
   高市郡の式内社。

 呉の人の渡来については、『古事記』にも幾つか出てくる。
 雄略記 この時、呉人(クレヒト)参(マヰ)渡(ワタ)り来ぬ。その呉人を呉原(クレハラ)に安置(オ)きたまひき。かれ、その地(トコロ)を号(ナヅ)けて呉原(クレハラ)と謂(イ)ふ。
 当社の鎮座地は栗原、これは呉原(クレハラ)からの転訛と思われる。

 『日本書紀』雄略天皇十四年
 十四年春正月丙寅朔戊寅。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。
 十四年正月 是月。爲呉客道通磯齒津路。名呉坂。
 十四年三月 命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。
 紀でも呉原に呉人を置いたとある。

 『式内社調査報告』は、この呉は大陸南部の呉ではなく、半島南部のこととしているが、もっと昔にも呉の鏡が入っており、どこかわからない半島南部とする理由は判らない。『姓氏録』には、「牟佐村主 出自 呉孫男也」とあり、三国志の英雄の孫権を思い出す。尤も4世紀末の頃の大陸南部は宋から斉に替わったころで、呉と云う国はないのだが、漢字の発音は呉音が多く、漢音が少ないので、読みは漢音にしなさいとの令が出ているくらいに呉からの影響が長く続いた。

社殿



お姿
  扁額と石段は新しいような気がする。本殿は壇の上に祠が二つ並んでおり、『式内社調査報告』は一つは春日神社としており、天兒屋根命を祀るのであろう。別の祠の祭神は木花咲耶姫命であって、本来の祭神であるべき呉津孫神は、向かって右側の社壇に近い摂社が鎮守社でここに祀られており、遠い方は八王子神社。
 摂社の更に右に金比羅大権現の石碑、社壇の左側には石佛が安置されている。

摂社

お祭り
 10月 8日 例祭

大和の神々
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H18.12.4