畝尾坐健土安神社

橿原市下八釣町136 ゼンリン



交通案内
近鉄耳成山駅 南へ20分 畝尾都多本神社の東側


祭神
健土安比賣命 合 天兒屋根命、天照大神


拝殿


由緒
 祭神の健土安比賣命は伊邪那美神が火の神を生んで苦しむ際、屎から生成した神である。神の屎から聖なる粘土をイメージしている。実にストレートな発想である。
 日本書記に神武天皇の夢の中へのお告げとして「宣べ天香山の社の中の埴土を取り、以て天平瓮八十枚を造り、また厳瓮を造りて天神地祇を敬ひ祭り、また厳咒[いつにかしり]を為よ。如此せば、即ち虜[あだ]自らに平伏なる。」 とある。同時に、弟猾へのお告げとして「宣べ今当に天香山の埴を取り、以て天平瓮を造りて、天社国社の神を祭ひて、然る後に虜を撃ちたまはば、除ひ易けむとまをす。」 とあり、椎根津彦と弟猾を翁媼に化けさせ、天香山に遣わし、その頂の土を入手したとある。 その土の祭器で丹生川上の地で天神地祇を祀った。その後、大和を次々に平定していったのである。
 埴土を取ったする頂上には、国常立神社が鎮座し、山腹には、天香山神社が鎮座しているが、式内社の畝尾坐健土安神社の旧社地とみる見方もできる。 しかし、現に畝尾坐健土安神社が鎮座する直ぐ南西側に畝尾都多本神社が鎮座しており、この辺りを畝尾と称したとしていいのではないか。

 さて、崇神紀10年に武埴安彦の反乱に際しその妻吾田媛が香山の土をとり、「是れ大和の物実」として、勝利を祈念しているが、香山の土は古来より、呪力霊力があるものとして畏れ敬われていたのであろう。 反乱を起こした武埴安彦とは当神社名を男神にした名、もしくは祭神が武埴安彦の母の名そのものである。 葛城系の孝元天皇が磯城系の穂積臣の内色許売命を娶って生んだのが開化天皇、河内の青玉の女波邇夜須毘売を娶って生んだのが健波邇夜須毘古(武埴安彦)である。皇位奪回の企てであるが、失敗に終わっている。 神の名と反乱の首魁の名がなぜ同じなのか。鎮魂なのか。鎮魂は山城の湧出宮や祝園神社の居籠祭がある。 記紀を記す頃の大和王権に取っては、崇神・垂仁天皇は確かに遠い昔の大和の大王である伝承が根強く残っており、無視はできなかったが、実は、よそ者なんだ、古来からの大和人ではない王権だと言っているのであろう。 逆に、武埴安彦の妃の名は、瓊瓊杵尊の妃の神吾田津姫、また神武天皇の妃も日向吾田邑の吾平津媛で、その子が手研耳命で反乱失敗第一号である。好意的に創作された反乱者と思える。

お姿
  天香山の西北麓、畝尾都多本神社の東側に鎮座。地蔵尊の西側である。

本殿


天香山神社境内の赤埴聖地石碑


香久山西山麓の白埴聖地石碑


お祭り
秋祭り 10月12日

大和の神々
神奈備にようこそ