長谷山口神社(はせやまぐち)

桜井市初瀬4593

初瀬川にかかる橋と鳥居
蛍のシーズンにはこの橋の上がいい。


交通案内
近鉄大阪線長谷駅長谷寺方面へ10分 初瀬川左岸 mapfan


祭神
大山祇神、天手力男命、豊受大神



磐座とされる水神とその前の丸石



由緒
 古くは大山祇神を祀っていた。天照大神が倭姫命を御杖として磯城巌橿の地に八年滞在された時、天力男命がお供をし、この地に留まったとされる。鎌倉初期の『長谷寺縁起』に手力男命が鎮まるとされている。平安末期の伊勢信仰と長谷信仰とが結びついたと言う。(『式内社調査報告』松本俊吉)
 同書では、関係するかも知れない氏族として長谷山直 石上朝臣同祖神饒速日命六世孫伊香我色男命の後也と『新撰姓氏録』大和国神別にあると指摘している。物部氏の一族が当地にいたのかどうかであるが、疋田物部が祀った可能性のある秉田神社が西北2km程度に鎮座、無関係ではなさそうだ。
 豊受大神を祀る神社を合祀している。

 葛城の一言主神が雄略天皇の帰路を送った所が長谷山口とされているが、この当たりと伝えられている。
 日本書記に「天武天皇2年大来皇女を天照大神宮に遺侍さむとして、伯瀬斎宮に居らしむ。是は先づ身を潔めて、稍に神に近づく所なり。」とあり、古くから伊勢信仰がこの付近にあり、伊勢に赴く前の俗気を落とし、身を潔める場所であった。



中腹の社殿



 この地は大和と東国を結ぶ伊勢街道の要衝である。古代史街道と呼ぶにふさわしい街道である。

お姿
  初瀬川に掛かっている赤い橋を渡ると、鳥居があり、そこから石段が長い。予喜山(天神山)の西南尾根端の小山の中腹に鎮座、小山の頂上には磐境があるとの事であるが未確認。



与喜山の暖帯林(天然記念物)



お祭り

風鎮祭 8月31日
例祭  12月8、9日

長谷山口神社 平成祭礼データ
長谷山口神社由緒略記
長谷山口神社は、桜井市大字初瀬小字手力雄に鎮座し手力雄明神ともいう。 古代は、隠口の泊瀬小国と称せられし大泊瀬山、小泊瀬山の長谷渓谷に位置し、風光 明媚な所として知られ、和名抄には「長谷」といい「はつせ」とも呼んでいる。
長谷小国地方を一郷として長谷郷と呼ばれていた。 初瀬の語源は、古事記によると「初瀬川猶遠ければ此の地ぞ上瀬なれは初瀬か」とあ る。
当社は、手力雄命を主神として大山祗命を併せ祀り、延喜式神名帳に「長谷山口神社 」と見え、神社明細帳に「祭神大山祗神、天手力雄神、豊受姫命、貞観元年正月授正 五位下」とある。
豊山玉石集には、手力雄明神、大泊瀬山の西南の尾崎にあり、延喜式神名帳に「泊瀬 山口神社という是なり」と、中世手力雄命を主神となし、大山祗命を配祀せり。 然れども、当社は六処山口社の其の一にして、即ち長谷の山霊を祭れる所なれば、も と大山祗命を以て主神となすべきなり、其の手力雄を祭り、且つ地名をも手力雄とす る由来は詳ならず、云云と記されている。
或は仁平二年七月の裏書ある長谷勘奏記に依り、中世神座を転じたるものにあらざる かとも書かれている。
いわゆる、延喜式内社は醍醐天皇の延長五年(西暦927年)に作られた延喜式神名 帳に記載されている神社をいう。
大古より長谷山の鎮として大山祗神を祀り、聖武天皇の天平二年(西暦730年)の 大和大税帳には長谷山口神社の名が見え、当神社の古いことを物語っている。
長谷寺縁起文や古文書には、此の地は古くは三神の里といい、河を神河という。表参 道朱塗の橋には神河橋と書かれている。
垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地に倭国伊豆加志本宮、また磯城厳橿の本 ともいわれ、八年間天照皇大神を斎い祀り給いし旧跡であり、当時、随神とこの地に 天手力雄神、北の山両部山中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座せられた。
長谷寺験記の冒頭には、長谷寺開山の時の天手力雄神の霊現と功徳が述べられている 。
近世になり、明治四十一年初瀬平田の両部山南端の山麓の老松(「ようがの松」とよ ばれている)の附近にあったといわれる豊受神社に豊受姫命を祀っていたが、長谷山 口神社に合祀され保食神で五穀豊饒の神として崇拝されている。

参考 平成祭礼データ、寺院神社大事典


大和の神々

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