平群坐紀氏神社
(へぐりにますきのうじ)

奈良県生駒郡平群町上庄字辻の宮 mapfan

鳥居と社叢


交通案内
近鉄生駒線平群駅北700m



祭神
天照大神、天児屋根命、都久宿祢、八幡大菩薩
紀氏神とも云う。



由緒
 社頭掲示概略
辻の宮、椿の宮と呼ばれていた。祭神は平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)で、紀船守(紀氏もしくは平群氏の末裔)がその祖、平群木菟を祀っている。 中世には春日神社にもなっていた。本殿は春日造りで朱塗り、銅板葺き。延宝七年(1679年)の石灯籠が最も古い。社頭掲示は以上

 名神大社。紀伊に本拠を置く紀氏は中央豪族として水運に長け、瀬戸内航路四国北岸を掌握していた。 王権の朝鮮進出の際の紀氏一門の活躍が『日本書紀』などに記載されている。

 ここの平群の地から龍田川を南下すれば斑鳩であり、富雄川、葛城川とも合流する。 大和川にも近く、水運の紀氏の大和平野での拠点となったのであろう。 紀氏は大和と瀬戸内をつなぐ紀の川と大和川の両方を押さえようとしたと思える。
 近くの三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式である。6世紀半ばの古墳とのこと。 この神社の存在と古墳の存在は紀氏の一派が平群を拠点としていた証であるし、 『紀氏家牒』には「武内宿禰が紀伊国造宇豆彦の女宇乃媛を娶り角宿禰を産む。大和国平群県紀里に家す。」 と出ていることを千田稔氏は『鬼神への鎮魂歌』で指摘されている。
 紀氏は紀の河流域で勢力を持っていた豪族であるが、紀直と紀臣とに分裂していった。紀臣が平群谷に移住してきたのであろう。

 当神社の旧鎮座地は現社地より2kmほど南の椿井にあったとこが考証されている。
『地域王権の古代学』辰己和弘著から
 貞観四年(870年)の「平群郡某郷長解写」と言う文書に、平群谷での条理にあった家屋の売買に関するもので、 売人は石川朝臣貞子、買人は紀朝臣春世となっている。 売買の対象となった家屋の横に石川朝臣真主の家地と紀氏神の地が接していたとある。この地は椿井の光照寺の南約100m付近の小字垣内から小字大角上にまたがった矢田丘陵西麓の地で、貴殿と言う小字名もあったようである。

拝殿




お姿
  龍田川東側の丘尾にある。遠くからでもこんもりとした大きい鎮守の杜と背丈の低い鳥居が見える。 参道は鬱蒼として、昼なお暗きであるが、拝殿前に来ると光が美しく感じる佇まいである。
 

春日造の本殿



お祭り
 
 例祭 10月15日

日前国懸神宮
大和の神々
神奈備にようこそ