平群神社

奈良県生駒郡平群町西宮617 mapfan

鳥居


交通案内
近鉄生駒線竜田川駅西側を北に8分



祭神
大山祇神



由緒
 「延喜式」神名帳記載社。五座の祭神とある。武内宿禰が神功皇后とともに朝鮮出兵前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。

 平群氏の祖神を祀っていたと考えるのが自然である。平群の地域は興福寺の影響下に入り、春日神が持ち込まれているようで、 当社も春日大明神とも呼ばれていた。
 当社の近くの三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式であること、 また椿井宮山古墳や烏土塚古墳との関連も考えられよう。平群氏と同族とされる紀氏の居住地であったようで、共に武内宿禰の末裔とされる。

 『日本書紀』仁徳元年紀に、仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入り、また同日武内宿禰にも男子が生まれ、鷦鷯(ミソサザイ)が飛び込んできた。 この吉兆を交換して皇子を大鷦鷯尊、武内の子を木菟と名付けたとの説話が載っている。木菟宿禰は平群氏の祖である。
 名前の取り替えの話は、応神天皇と笥飯(気比)大神との場合も応神天皇紀に出ている。 記紀に流れている万世一系の支配思想の構造は漫画であるが、それは書けないので、名前の交換などの表現をしたと考えるのが常識的だと思う。 鷦鷯(ミソサザイ)の名を持つ仁徳天皇の王朝と平群谷の平群木菟宿禰のコンビは、 やはり『日本書紀』で「小泊瀬稚鷦鷯天皇」即ち武烈天皇の即位前に武烈天皇は大伴金村と共に、平群真鳥・鮪を討つのである。 これ以降平群氏は衰亡していくのであるが、何故、鷦鷯が絡むのであろうか。

 この平群の地を支配した平群氏の祖の木菟宿禰が大王の地位を外されたということだろう。それでか平群氏は平群はヘグリ、平郡、辺郡、大和の西北隅みの谷間の地に封じ込められたのであろうか。 この地には仁徳天皇の時代となる5世紀前半にまで遡る古墳がなかった地域であった。

本殿


 後に紀氏が水運支配権の確保の為にこの地に拠点を設けるようになった。しかし紀氏の姿もいつの間にか消えてしまっているようだ。 古い古墳では墓標が出ることは希なようで、それよりは神社名や地名が多くの歴史を物語るようだ。 紀氏が居住した地域、紀の国の国魂である五十猛命三兄妹神が祀られていないだろうかと探してみるのであるが、平群神社の五座の祭神、現在が大山祇神一座である、神社もまた黙して語らない事がある。

お姿
 龍田川駅から西側を北へ10分程、小丘が見えてくる。 大きくはないが、背後の小山を神体山としていたのであろうが、現在頂上付近は公園になっている。 神社からは森しか見えない。

 平群谷は西側は生駒信貴山系、東側は矢田の山系に挟まれた地域で、その山系は山が山に重なり、美しい風景を醸し出している。
 日本武尊の国偲び歌にも有名な「国のまほろば たたなづく」の次の歌として,
命(イノチ)の 全(マタ)けむ人は たたみこも 平群(ヘグリ)の山の くま白梼(カシ)が葉を うずに刺せ その子
また、万葉集 巻十六に
三八四三 
いづくにそ 真朱掘る丘 薦畳(こもたたみ) 平群の朝臣が 鼻の上を掘れ
などと歌われている。


お祭り
 
 例祭 10月15日 1日間 例祭 [通称]秋季例大祭

大和の神々
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