鴨公神社跡
橿原市醍醐町鴨公 大極殿跡 mapion

大極殿跡の碑と神社跡(右後)

交通案内
近鉄橿原線畝傍御陵駅 北東1000m


由緒
 中西進著『万葉集』の鴨君足人の注に、「藤原宮大極殿の地を鴨公と言う。ここに居住か。かつ祭祀族。」とある。 聞くところによると、奈良時代以降、平安、鎌倉と鴨氏はこの辺りで暮らしていたと言う。

 万葉集の歌 巻三 二五七
 鴨君足人(かものきみたりひと)が香具山の歌一首、また短歌
 天降(あも)りつく 天(あめ)の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木晩(このくれ)茂み 沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺(へ)つ方に あぢ群(むら)騒き ももしきの 大宮人の 退(まか)り出て 遊ぶ船には 楫棹(かぢさを)も なくて寂(さぶ)しも 榜ぐ人なしに


 天から降ってきたと言う聖なる香具山に霞こめる春になると、松吹く風に池の波が立って、桜の花は木の下も暗く茂り、埴安の池の沖の方では鴨が妻を呼んで鳴き、岸の方では味鴨が騒ぐ。壮麗なはずの船には梶も棹もなく、漕ぐ人々も立ち去ってしまって、寂しいことよ。

 この歌は鴨公が鴨氏を偲んで歌っているように思える。
 桜の花は木の下も暗く茂り → ここにこぼれ日があれば、まさに下照比売の命の登場の姿
 沖の方では鴨が妻 → 母神の多紀理毘売の命
 岸の方では味鴨 → 阿遅鋤高日子根命
 
船には梶も棹もなく → 妃の天御梶日女命を祀る出雲の多久社は大船大明神と呼ばれた。

 往古、大和は葛城の地をベースにした鴨氏の繁栄は、今は見る影もない、寂しい。

 鴨君は新撰姓氏録では、摂津国皇別で、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也。とある。丸邇の臣の系列で鴨族とつながる。

神社跡

 『大和志』に、高市御縣坐鴨事代主神社として、「高殿村に在り、今、大宮と称する。又の名を鴨公の森」とある。享保年間の書。


新益京の藤原宮
 『日本書紀:持統天皇紀六年5月』692年
 遣使者 奉幣于四所 伊勢 大倭 住吉 紀伊 大神 告以新宮
 新宮殿を造営するにあたり、藤原京の四方の大神に完工を祈願したのであろう。

 神奈備の関心は紀伊大神とは、日前神か伊太祁曽神であるかに向かう。
 『日本書紀 天武天皇紀朱鳥元年七月』686年
 奉幣於居 紀伊国國懸神 飛鳥四神 住吉大神
 とあることから、紀伊国では紀國造紀直が祭る國懸神がすでに天武朝から認められていようで、伊太祁曽神はいささか分が悪そうだ。但し、朱鳥元年は天武帝の病気回復が目的の奉幣であり、新宮殿の造営とは祭祀の目的が違う。目的が違うなら詣でる神も違うこともありうる。現に飛鳥四神の名が見える。

 朱鳥元年には國懸神が登場している。日前神はどうなったか。実はなかった。日前は地名であって、日前坐国懸神が鎮座しており、ここへ文武・持統行幸があった際、中央で活躍していた紀朝臣家が関与し天照大神を祀り込んで日前神と称し、国懸神であった伊太祁曽三神を外へ遷座させてしまい、紀直(国造家)の祖神として国懸神を祀ったのである。ということにならないのかな。

参考 『新益京と四大神』竹澤勉著

大和の神々
神奈備にようこそ