葛城坐一言主神社
御所市森脇432 mapfan


立派な拝殿



祭神 
葛城之一言主大神
幼武尊

 雄略天皇が葛城山で狩りを行った時、この神が「神降:かみたち」されたのがこの社地である。一言主大神は自ら「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と神力を示したと古事記に伝えられている。

 言離(ことさか)の神を名乗っているが、和歌山県の阿須賀神社、熊野本宮大社の祭神である事解之男神と同義であろうか。一言主神社側ではもちろん異なった神格であるとの説明であったが、和歌山市の射矢止神社
の社伝にあるように、一言主神と紀の国とのつながりの深さから推定しても、無関係とは思われないのである。
 一言主と事代主を同一神とする見方があるが、一言と「よくしゃべる」意味を示しそうな「八重」が頭に付く事代主とは違う神ではないかと思われる。

 この神社の参道は馬場と呼ばれる。京都の下鴨神社と似ている。走馬が行われたと見える。北方系に出身を持つ神であろう。



銀杏



 たたずまい 大きい木が多く、特に乳銀杏は樹齢1200年の老木である。
 拝殿も大きく、本殿も木々に埋もれて見えない。西450mに奥宮の磐座があり、神聖視されている。北200mの神宮山は高丘宮がある。

本殿




蜘蛛塚
謡曲土蜘蛛は源頼光に襲いかかって、四天王渡辺綱などに退治された平安京に現れた葛城の土蜘蛛の亡霊の説話を下に作られた。 その供養の意味で当社にこの塚が作られた。 葛城の土蜘蛛は天孫族以前に当地に住んでいた国栖の民で、鬘によって一網打尽にされたのである。 高天彦神社参道脇の山中にも土蜘蛛の墓が建てられている。 そうとうな恨みが残ったのであろう。


拝殿右脇の土蜘蛛塚

例祭 4月5日、9月15日

交通 近鉄御所線御所 西南へ40分


神社庁平成祭りデータCDから採取した、全国の一言主神を祀る神社一覧

葛城一言主神社
由緒
本社は雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、はじめて顕現された神を奉斎するもの であります。その次第が『日本書記』に次のように記されています。
天皇、葛城山にかりしたもう。たちまちにタケタカサヒトを見る。来りてタニカイに 望めり。かおすがた天皇にあいにれり。天皇これ神なりと知しめせども、なおコトサ ラに問いてのたまわく、いずこのキミぞ。タケタカサヒトこたえてもうさく、アラヒ トの神ぞ、まずキミのミナをなのれ、しかるのちに言わん。天皇答えてのたまわく、 あれはこれ幼武尊なり。タケタカサヒトつぎになのりてもうさく、ヤツガレはこれ一 事主神なりと。ついにともにかりたのしむ。一鹿をはしりおいて、あいゆずりてやを はなち、クツワをならべて馳はす。コトバいやいやしくつつしみ、ヒジリのごとくあ り。ここに日くれてかりやみぬ。神、天皇をおくりたまいて、クメのカワに至る。
このように、天皇と同じお姿で顕現され、鹿狩りをともに楽しまれた神であります。 『古事記』も内容は同じでありますが、「あはマガゴトも一言、ヨゴトも一言にいい はなつ神、葛城の一言主の大神なり」と答えておられる。そのためか里びとは俗に「 いちごんさん」とお呼び申し、一言の願いであれば何ことでもお聞きとどけ下される 神として古くから親しまれ、「無言まいり」の神として広く信仰されています。
御鎮座のこの高宮丘は、第二代綏靖天皇の宮址のあったところで、本社から少し北の 丘辺に宮址の碑が立っています。そして大臣を歴任した巨勢・平群・蘇我各氏の祖に あたる葛城氏の本宗の邸宅もこの地にあり、仁徳天皇の后で履中・反正・允恭三代の 天皇の母后となられた磐の媛の生育された地でもあります。
その高宮丘の一角にある御鎮座の地を、古くカミタチといいましたが、それは神が降 り立ったことからの地名であります。『延喜式』では名神大社に列し、月次・相嘗・ 新嘗には官幣に預かってきましたが、伝教大師も入唐にあたって本社を祈られたほど の霊験高き御祭神が顕現されたところであり各地の「一言主神社」の総本社でもあり ます。宮司謹白


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