迦毛の大御神と下照比賣考

(1)阿遅鋤高日子根命 (2)麦作についての補足 (3)世にあるカモ族 (4)下照比売 (5)天若日子 (6)押し照る難波の八十島巡り (7)大神氏、鴨氏、土蜘蛛
(1)阿遅鋤高日子根命
 古事記の大国主の神の系譜の所

 胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売の命に娶ひて生みませる子、阿遅高日子根命の神。次には妹高比売の命、またの名は下照比売の命。この阿遅高日子根命の神は、今迦毛の大御神と謂う神なり。

 古事記で大御神と呼ばれている神としては、皇祖とされる天照大御神とこの迦毛大御神との二柱のみである。一体、この迦毛の大御神とはどのような神であろうか。

『古事記』葦原中国の平定
 葦原中国には、ちはやぶる荒ぶる国つ神等が多くいる。この国を言むけるべく、天津国玉神の子、天若日子を遣わすべき。それで天のまかこ弓、天のはは矢を天若日子に与えて遣わしました。天若日子、その国に降りて到り、大国主神の女、下照比売を娶り、八年に至るまで高天原にお返事をしませんでした。
 それで、鳴女の雉を天より遣わして、問いただすこととしました。 天若日子は天つ神から頂いた天のはじ弓、天のかく矢で、その鳴女を射殺してしまいました。その矢雉の胸を通過して射上げられて、天の安河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所に届きました。
 高木神は、「もし天若日子、命令を誤たず、悪しき神を射た矢がここに至ったのであれば、天若日子に当たらない、もし邪心がれば、天若日子に当たれ」と云って、その矢を取って、穴より衝き返し下しました。そうしますと、天若日子が朝床に寝ていた所、その高胸坂に当たり死にました。
 天若日子の妻、下照比売の哭く声、風にのって響いて天に到りました。天にいた天若日子の父、天津国玉神とその妻子聞きて、降り来て哭き悲しんで、そこに喪屋を作りて、天若日子を弔いました。 この時、阿遅志貴高日子根神はやって来ました。天若日子の父、またその妻、皆哭いて云いました、「我が子は死なず。我が君は死なず。」と云って、手足に取り懸かりて哭いて喜びました。その過ったのは、この二柱の神の容姿、いとよく相似ていたのです。ここに阿遅志貴高日子根神いたく怒り、曰しました。「我は愛しき友なればこそ弔いにひ来た。何ごとか、吾を穢き死人に比べるのか」と云いて、佩いていた十掬剣を抜いて、その喪屋を切り伏せ、足で蹶ゑ離ちました。これは美濃国の藍見河の河上の喪山になったとさ。

 阿遅鋤高日子根命については、下照比売の兄神であること、天若日子に似ていること、喪屋をけっ飛ばした程度のことしか出てこない。『古事記』は何を書き漏らしているのだろうか。大御神と敬称する神、天照大御神に匹敵する神。

 所で、天照大御神は一体何をした神なのだろう。国生みの神の後継者、日の神、素盞嗚尊との誓約で五男神を得てこの中から皇祖が出る、天岩戸に隠れて騙されて出てきてしまった、−−余談:だから日本は変な国になったとか−−、どうもあまりたいしたことはしていない。属性が重要な神のようだ。即ち皇祖神であることがポイント。即ち統治権にかかわる神だから大御神なのだろう。

 迦毛の大御神、阿遅志貴高日子根神は何故に大御神と讃えられたのだろう。統治権とどのようにかかわったのだろう。出雲国造の服属の祝詞『出雲国造神賀詞』の「己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」と天都神の守護神にされている。矛盾はないのだろうか。どう変遷したのだろう。何でだろう。

迦毛の大御神の名前、阿遅志貴高日子根神、の分析からはいろう。
阿遅はアヂ、ともえ鴨のこと。(大三元さんのご教示:古語辞典で確認)
 巴鴨は鴨の中でも美しい鴨。下記HP参照。
鳥類図鑑【巴鴨】 身近な鳥さんトモエガモ 大三元さん 
 ともえ鴨は渡り鳥で、秋に東部シベリア地方から飛んでくる。

 鋤(耜、志貴、式、杉)農機具の鋤、志貴を地名とすれば三輪山の麓など、また式には村の意。

 高日子はタカヒコで男子。高日売に対応、これは下照比売のことで、兄妹。

 根はネ。『出雲国風土記』では阿遅須伎高日子命とあり、根はない。根は敬称か巫かまたは成人の意か。

 友人であり、妹の夫でもある天若彦の葬儀に参列、天若彦に似ていると言うことを言われて腹をたてて喪屋をけっ飛ばす。これは気が荒いと言うか、何を示しているんだろう。
 一種の岩戸開きのお話と理解出来るのかも知れない。天若彦の葬儀での「モヤ」の風景は多くの鳥が現れる所から見ると鳥葬のように見えるが、藤と竹で編んだ籠に遺体を収めて、山の常緑樹に吊るす風葬だったのかも知れない。これは後に洗骨して山に埋めるのだが、モヤを跳ばしてしまう話は、洗骨を山へ運び埋めることが物語りになったのかも知れない。「モヤ」は後世殯宮として残った。
 「モヤ」の次は岩屋に埋めることだった。出雲国の神社名にある伊布夜、揖夜で、岩屋である。天照大神の岩戸開きは復活・再生の物語であるが、天若彦に実によく似た阿遅須伎高日子根の登場は、復活再生の物語とも考えられなくはない。しかし片や天津神、片や国津神、そこで山城の賀茂建角身命(八咫烏神)は阿遅須伎高日子根と同神とされているようだが実は違う。山城は天津神、再生するならこちらへ再生したのかも知れない。

 天若彦を稲作の神とする文献があった。若とは宇賀の意とのことのようだ。このように読み替えなくとも、高天原から葦原中国の平定に差し向けられた神であれば、武神の性格もさることながら、稲作神の性質は会わせ持っていたと考えていい。そうすると、稲の収穫を行う秋になると稲作の神は山へ帰る、まさに天若彦が死ぬと形容されるのである。
 天若日子の周辺はヒチコックの世界の如き鳥鳥鳥である。さぐめは雉、葬儀屋として、鷺(サギ)、翠鳥(ソニドリ)、雀(ススメ)、雉(キギシ)である。天若日子を稲作の神と見なしたが、鳥ならば燕(ツバメ)であろうか。春の渡り鳥で、鴨と入れ替わる。

 米の収穫が終われば、収穫祭も重要であるが、更に行うべき事は麦を植えて育てる事、丁度北から鴨が渡ってくる頃であり、鴨は麦作の守り神とされたのかも知れない。穀神の交替で天若日子の去った後に阿遅須伎高日子根命が登場すると考えてもいい。現在でも大和平野の西部は麦作が盛んである。

 天照大御神が稲作の神、迦毛の大御神が麦作の神、これならば二柱の大御神の説明がつく。 麦は所謂古代世界の四大文明は麦作文化の生産力を基礎に成立している。列島に入るとすれば北方的な、まさに鴨がしょってくる文化だったと言えよう。より縄文的な文化だった。
  


(2)麦作についての補足
   空海がが中国に留学中に初めて麦という作物を見、穂をつまんで懐に入れたと云う。勿論このお話も弘法大師空海にまつわる伝説であり、とっくに国内では栽培されていた。
 『古事記』では、高天原を追われた速須佐之男命が大気都比売神を殺す物語がある。麦が生るとある。

すなはちその大宜津比売神(オホゲツヒメノカミ)を殺しき。故(カレ)、殺さえし神の身に生(ナ)りし物は、頭(カシラ)に蚕(コ)生(ナ)り、二つの目に稲種(イナダネ)生(ナ)り、二つの耳に粟(アハ)生(ナ)り、鼻に小豆(アヅキ)生(ナ)り、陰(ホト)に麦(ムギ)生(ナ)リ、尻に大豆(マメ)生(ナ)りき。

 麦作は焼き畑農耕にも組み込まれており、『稲作以前』佐々木高明著では「オオムギは満州シベリアに連なり、きわめて古いもの」とあり、また『畑作の民族』白石昭臣著には「瀬戸内地方では冬の麦作」について述べられているようで、これは積雪が少ないと云うことからの推測と思われる。

 中国で古代帝国が築きあげられて来たのは麦作であり、これが日本列島に伝来しないはずがなく、支配構造としての不平等が生じてきたのであろう。大国主の誕生の基礎は麦作だったかも知れない。
  


(3)世にあるカモ族
  『新撰姓氏録』から、カモを醸し出そう。

山城国神別 天神

賀茂県主(かものあがたぬし)。
神魂命の孫、武津之身命(たけつのみのみこと)の後なり。

鴨県主(かもあがたぬし)。
賀茂県主と同じ祖。神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)[諡は神武]中洲(うちつくに)に向(いでま)さんとする時に、山の中、嶮絶(さが)しくして、跋(ふ)みゆかむに路を失ふ。ここに、神魂命の孫、鴨建津之身命、大きなる烏(からす)となりて、翔(と)び飛(かけ)り導き奉りて、遂に中洲に達(とほりいた)る。天皇その功あるを嘉したまひて、特に厚く褒め賞(たま)ふ。天八咫烏(あまのやたからす)の号(な)は、これより始りき。
『新撰姓氏録逸文』に、若帯彦天皇(成務)御世。鴨縣主を賜る。とある。

大和国神別 地祇

大神朝臣(おほみわのあそみ)。
素佐能雄命(すさのをのみこと)の六世孫、大国主の後なり。初め大国主神、三島溝杭耳(みしまのみぞくひみみ)の女、玉櫛姫(たまくしひめ)に娶(みあ)ひたまひき。夜の曙(あけ)ぬほどに去りまして、来すにさらに昼到まさざりき。ここに、玉櫛姫、苧(を)を績(う)み、衣に係けて、明くるに至りて、苧のまにまに、まぎゆきければ、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すゑのむら)を経て、直に大和国の真穂(まほ)の御諸山(みもろやま)にいたれり。還りて、苧の遺(のこり)をみれば、ただ、三ワ(みわ)のみありき。これによりて、姓(うぢ)を大三ワと号けり。

賀茂朝臣(かものあそみ)。
大神朝臣と同じき祖。大国主神の後なり。大田田禰古命(おほたたねこみこと)の孫、大賀茂都美命(おほかもつみのみこと)[一名は大賀茂足尼]賀茂神社を斎き祭りき。

 『先代旧事本紀』記載の系譜から大賀茂都美命に至る神々を並べると、下記のようになる。隣は妃で下段の母神、主な神社など
大国主命
都味歯八重事代主神
天日方奇日方命・日向賀牟度美良姫、近江、播磨、但馬の石部神社など。
健飯勝命・出雲臣女子沙麻奈姫 宗像大社摂社勝浦神社。
健甕尻命・伊勢幡主女 賀貝呂姫
豊御気主命・紀伊名草姫 豊と櫛を対とすれば、櫛御気主は熊野本宮の家津御子神。
大御気主命・大倭国民磯姫 
阿田賀田須命・鴨部美良姫 和爾坐赤阪比古神社 和爾部の祖神。
大田々禰古命・出雲神門臣女美気姫 和泉国陶荒田神社、尾張国大直禰子神社
大御気持命・出雲鞍山祇姫 御気持命は紀氏の祖神の名にあり、紀の国の土蜘蛛の名草戸畔の祖にあたる。
大鴨積命

左京皇別
鴨縣主(かもあがたぬし)。
開化天皇の皇子の彦坐命の後。

摂津国皇別

鴨君(かものきみ)。
日下部宿禰同祖。開化天皇の皇子の彦坐命の後。

 『古事記』では彦坐命の御子に沙本毘古の王がいて、妹が垂仁天皇の妃となるが叛乱を企てる。これは失敗に終わるのだが、皇子の本牟智和気命は火中に生まれ、助け出される。後に触れることになるが、この皇子と阿遅志貴高日子根神とには唖と云う共通点を持つ。

 『日本書紀』懿徳天皇の母は事代主神の孫、鴨王の女なり。とある。『岩波文庫』版はカモノキミと訓している。

 藤原京の大極殿跡を鴨公(カモキミ)と言い、鴨公小学校がある。神奈備掲示板[3928] [3931] で、男爵@中央大学氏が次の様に書かれている。
 藤原京太極殿遺跡は、公園整備と発掘がおこなわれていますが、基壇の上に御神木があり、その囲いの石柱に《奉納・鴨公神社》とあります。つまり遺跡そのものが鴨公神社だったのです。ここで平安・鎌倉時代をのんびり過ごしていたようです。

 下記HPは鴨公小学校の発信になるもの。「藤原京の様子」が説明されている。
http://www2.mahoroba.ne.jp/~kamokimi/

 中西進著『万葉集』の鴨君足人の注に、「藤原宮大極殿の地を鴨公と言う。ここに居住か。かつ神君(みわのきみ)と同様に祭祀族。」と出ている。

 その万葉集の歌 巻三 二五七

 鴨君足人(かものきみたりひと)が香具山の歌一首、また短歌
天降(あも)りつく 天(あめ)の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木晩(このくれ)茂み 沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺(へ)つ方に あぢ群(むら)騒き ももしきの 大宮人の 退(まか)り出て 遊ぶ船には 楫棹(かぢさを)も なくて寂(さぶ)しも 榜ぐ人なしに


 天から降ってきたと言う聖なる香具山に霞こめる春になると、松吹く風に池の波が立って、桜の花は木の下も暗く茂り、埴安の池の沖の方では鴨が妻を呼んで鳴き、岸の方では味鴨が騒ぐ。壮麗なはずの船には梶も棹もなく、漕ぐ人々も立ち去ってしまって、寂しいことよ。

 この歌は鴨公が往年の鴨氏を偲んで歌っているように思る。
桜の花は木の下も暗く茂り → こぼれ日があれば、まさに下照比売の登場
沖の方では鴨が妻 → 阿遅鋤高日子根命の母神の多紀理毘売の命
岸の方では味鴨 → 阿遅鋤高日子根命
船には梶も棹もなく → 妃の天御梶日女命を祀る出雲の多久社は大船大明神と呼ばれた。
 往古、大和は葛城の地をベースにした鴨氏の反映は、今は見る影もない、寂しい。

(4)下照比売
  下照比売の歌

古事記には、阿治志貴高日子根神は、(天若日子と間違われて)忿(イカ)りて飛び去りし時、そのいろ妹(モ)高比売命(タカヒメノミコト)、その御名を顕(アラハ)さむと思ひき。故(カレ)、歌ひて曰はく、

天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル) 御統に 穴玉(アナダマ)はや み谷 二(フタ)渡らす阿治志貴(アヂシキ) 高日子根(タカヒコネ)の神そ

とうたひき。この歌は夷振(ヒナブリ)なり。


 澄んだ空を渡り鳥が北へ帰っていく。夕日に輝きながら、谷を越え、山を越え、また谷を越えて、の情景が浮かび上がってっくる。

『日本書紀』一書に曰く、には上記の歌に続いて、石川片淵と言う言葉が入った歌が記載されています。
天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵

 石川は通常の解釈は「石が多い川」のこととしているが、石の少ない川があればお目にかかりたい。固有名詞であろう。上記の歌の中の石川は河内の石川であり、丁度葛城の山の西側を流れている。鴨の群は河内平野から金剛・葛城の山を越えて東へ帰っていった。男爵@中央大学氏によれば、石川片淵は大阪府南町大字神山の鴨習太神社付近と見ておられる。

 天若日子が先兵として降りてきた土地、下照比売がいた土地、それは難波(摂河泉)。
 それらしい伝承は数多くある。

『摂津国風土記逸文』高津(『風土記』吉野裕訳p334)

 津の国の風土記にいう、難波の高津は、天稚彦が天くだったとき、天稚彦についてくだった神、天の探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ、と。云々。

 『万葉集』巻三 二九二 
  久方の 天(あま)の探女(さぐめ)が 岩船の 泊てし高津は 浅(あ)せにけるかも。

『出雲神話』松前健著p169
 私はこの話し(ワカヒコ、アヂスキ、シタテルヒメの登場)は、まったく意外な地方、摂津・難波地方だと考えている。
 シタテルヒメの本拠地は、じつは難波であった。難波のヒメコソ社がこれである。『延喜式』に、摂津の東生郡比売許曽神社とある社であるが、同書の臨時祭式には、下照比売と号すと記され、祭神はシタテルヒメであることは明らかである。

 摂津国東生郡の式内社の比売許曽神社は(鶴橋駅近くの大阪市東成区東小橋3)の西500mほどにお旅所である産湯稲荷神社が鎮座、ここの井戸は日高の真名井の清水とも呼ばれており、この地域の地名は、もともと「味原」といい、比売許曽神社の社伝には、味鋤山という丘があって、味鋤高日子根命を祀っていた祠があったとある。井戸も味鋤高日子根命が開いたとされる。
 この井戸の近くに下照比売の降臨の磐船とか、天探女の磐船が埋まっているとの伝承の地もある。

 井戸は日高の真名井の清水、この日高とは何を指し示しているのだろうか。

産湯稲荷の井戸


 難波の日下は日の本でヒノモトであり、これが日高見に通じているようで、谷川士清の『倭訓栞』にその旨のことが記されているそうだ。(谷川健一『白鳥伝説』上p71)。

 下照比売(または高姫、稚国玉)は名前の通り日の神のようであり、難波の地が迎日、祀日の信仰に関するようで、そこの神でもあったようだ。

谷川健一『白鳥伝説』上 p47から


 『三国遺事』 新羅の東の海の浜に延烏郎・細烏女と言う夫婦がいた。延烏郎が海辺で藻を取っていると大岩が彼を日本に運んだ。日本の人々は彼を王にたてた。妻の細烏女をも大岩が彼女を背負って日本に運んだ。細烏女は王女となった。所がこの夫婦は太陽と月の精であったので、新羅は日月の光を失うことになった。新羅王は使者を遣わして二人を呼び戻そうとすた。しかし延烏郎は肯首しなかったので、使者は細烏女の織った絹を日本から持ち帰って天を祀った所、日月は旧に復した。祭天の所を迎日県または都祁野と称した。
 都祁は漢音でトキ、呉音でツゲ。『延喜式』の臨時祭の条に、坐摩巫は都下の国造氏の童女で云々とあり、この都下は菟餓野のことであり、難波の天満北野から南京橋、平野町の総称。引用は以上

 難波は日と月との祭りの庭とするイメージの歌がある。
『万葉集』巻六 九七七
直超の この徑にして 押し照るや  難波の海と 名づけけらしも
 生駒山を直線的に越えて難波の海が見える所に来ると、日の光が海を照らしている様子が見えて、これこそ押し照る難波の海と詠んだことがわかるよ。
 大三元さんによれば「オシテル難波」の「オス」には「月、日の光がさす」という意味があるとのことで、 まさに難波の海の情景と日月の光を示す菟餓野の地名の存在とが見事にマッチしている。 オシテルのテルは難波の女神である下照比売の照にリンクしている。 更に大三元さんによれば「「下」は「シナ」と訛ることがあり、「シナ」には「太陽」の意味がある」とのことで、下照比売は国津神の太陽の女神そのもの。

 下照比売と阿遲高日子根神系譜上の位置づけは、大国主神と宗像の奥津宮の多紀理毘売との間の御子、下照比売の亦の名を高姫、下光姫などの他に稚国玉と呼ばれていることは前述した。難波の開発の従事した土着の民人の開拓者精神を感じる名前。

 摂津国河邊郡の式内社の高賣布神社賣布神社の祭神は高姫とされており、この地域に縁を持つ地域神であったのだろう。現在は別雷神を祭神とする鴨神社も鎮座しており、古くからの鴨氏の拠点であったようだ。またこの地域は物部氏の気配もあり、物部氏の一族の若湯坐連の住む地で意富売布連の拠点でもあった。賣布神社を祀ったのは物部氏かも知れない。難波では、鴨氏などの国津神系の支配の後に物部氏が支配氏族となったようで、祭祀などに重複が見られる。

 『摂津国風土記逸文』稲倉山
 昔、トヨウカノメ神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。またいう、昔、トヨウカノメ神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。

 このトヨウカノメ神に下照比売を比定する向きもある。それほど慕われていた女神であると云うこと。
 一方、男爵@中央大学氏の見解によれば、歴史的には日の神を天照大神に切り替えていく段階で、下照比売や天照御魂神(神奈備挿入)の聖蹟は塗りつぶされていったのである。これは倭比売の巡幸の物語として残っているとの事。

 下照比売の伝承の地は他にもあるが、『出雲国風土記』には記載されていないようだ。出雲には元々からなかったのだろう。

 伯耆國川村郡の式内社の倭文神社(鳥取県東伯郡東郷町)の祭神に下照姫命の名が見える。 シトリとシタテルの近似からの神社名か祭神かは今となっては不明だが、下照比売は出雲から海路移り住んだとされ、当地でなくなるまで安産の指導、農業開発、医薬の普及に尽くされたという。倭文神社の経塚は、下照姫の墓ともいう。当社周辺には下照姫にまつわる伝承が多いとのことで、伯耆國は国津神の拠点、鴨族の拠点であったものと思われる。

 美濃国武儀郡の上神神社(岐阜県美濃市笠神)の神奈備山は平野のなかに独立した聖なる岩山で、これを里の人たちは下照山と慕っている。社由緒書きによれば、下照比売と天稚彦命は力を合わせて中津国の平定に大きな功績を残し、この里にお住居になつた神と伝えられている。
 矢田川に添って、神代の神話の遺蹟雉射田があり、又藍見川を遡れば約一キロメートルの所に古事記・日本書紀記載の神話の遺蹟喪山がある。

 美濃はやはり物部氏の伝承や神社が多い地域で、鴨族、物部と重複分布する。

 下照比売の下照とは赤く照らすとの事(角川古語辞典)で、赤留比売に通じる。神社本庁発行の『平成祭礼CD』では下照比売と赤留比売を同一神としている。
『古事記』では、天の日矛から祖の国へ逃げた阿加流比売を「難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売神」と記載している。阿加流比売は難波の女神となったと言える。

 日の女神として阿加流比売は難波では下照比売に習合してしまったと言えるだろう。


(5)天若日子
   近江国愛智郡の勝鳥神社(滋賀県彦根市三津町)の由緒に「天稚彦命が出雲の国から東方へ征伐に出陣された時、事代主命らとともに三津に立ち寄られた。美濃の国での戦いで亡くなられた天稚彦命のなきがらを下照姫命の兄が三津にほおむり勝鳥石をたてたと語り伝えられている。」とある。 この近くに鴨族の祖である天日方奇日方命を祀る石部神社、味耜高彦根神を祀る阿自岐神社天稚彦神社が鎮座している。

 『古事記』のシーン「味鋤高日子根命は佩いていた十掬剣を抜いて、その喪屋を切り伏せ、足で蹶ゑ離ちました。これは美濃国の藍見河の河上の喪山になったとさ。」とある物語は、美濃国での天稚彦命の戦死ととらえている社伝となっている。降臨に際して天の麻迦古弓と天波波矢を授けられているのは、戦闘も辞せずの覚悟の筈。
 波波矢を持って降臨したのは、天若日子の他には饒速日命と神倭伊波礼毘古の命(神武天皇)であり、共に武神であり、武力を行使している降臨となっている。

 天若日子を祭神とする神社はそれほど多くはない。その中に若狭国遠敷郡の岩上神社二座(福井県遠敷郡上中町兼田ほか)、三河国設楽郡の岩倉神社(愛知県新城市有海字コロミチ)などが見いだされる。磐座信仰と天若日子とがつながっている。これは古い神格のように思える。

 難波の地で、磐座信仰で古い土地と云えば、大阪城のある石山はその代表的な場所である。この場所は石山本願寺が建立されていたように、石がゴロゴロとしており、その後の大阪城の建設で多くの石は城壁などの使用されたのであろう。主要神社も各地へ遷座している。磐船神社、難波坐生國咲國魂神社、坐摩神社などが鎮座していたようだ。       
 天若日子の葬儀に際し、父神の天津国玉神やその妻子が降りてくる。男爵@中央大学氏は、これは天津国玉神の一族が難波に侵攻・移住したと言うことを語っているとの指摘をされておられる。摂津国東生郡の式内大社である難波坐生國咲國魂神社二座は天津国玉神と天若日子命を祭った神社だったのかもしれない。下照比賣命は同じ郡の式内大社の比賣許曾神社に祀られているのも自然なこと。下照比賣命の別名に稚国玉があることになっているが、これは天若日子命との混乱があると思われる。
 伯耆国汗入郡に壹宮神社(鳥取県西伯郡大山町上万)が鎮座、神奈備山に孝霊山を持つ。ここの祭神に稚國玉下照比賣命が登場する。稚國玉を祭神名としている唯一の神社。しかし二柱の神名とも見える。

 磐座信仰の天若日子、大阪城には磐船神社も鎮座していた。これは高津の比賣許曾神社にもなり、また物部の遠祖の饒速日命を祀る石切神社にもなっている。これはどういうことだろうか。

  『日本書紀』の宇気比の所に宗像三神は胸肩君等が祭る神、一書第二では「此築紫の水沼君等が祭る神、是なり。」とある。
 この水沼君とは『旧事本紀:天孫本紀』十四世孫物部大市御狩連公尾輿大連公の條に物部目連公の子として物部阿遅古連公の説明に水間君等祖とある。
 物部の氏族が宗像の神を祀っているのは、宗像郡と物部氏の多い鞍手郡、遠賀郡が近いだけではなく、饒速日降臨に供奉した阿刀氏など船長・舵取りの氏族がおり、宗像三神を奉じていたからだろう。

 『肥前国風土記』の基肄郡に物部珂遅古が登場する。

吉野裕訳『風土記』姫社の郷。
 昔、山道川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねるとその卜占の示すところでは、「筑前の国宗像の郡の人珂是古にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられたら凶暴な心はおこすまい」とあった。

 珂是古が祭ったのは肥前国基肄郡の姫古曽神社(佐賀県鳥栖市姫方)であり、珂是古が占った幡が落ちた所には筑後国御原郡の媛社神社(福岡県小郡市大崎)が鎮座、ここは媛社神と織女神を祭るが、別に磐船神社と棚機神社と併せて呼ばれていた。『白鳥伝説』谷川健一著は「媛社神とは饒速日尊のこと」と宮司の見解を紹介している。
 三輪の大神の祟りを鎮めるべく後裔の大田田根子が祭祀にあたるが、ここでは物部珂是古がご指名であり、同じように荒ぶる神は物部氏の祖神であり、かつヒメコソの神であったということが考えられる。
 ヒメコソー磐船ー物部、大阪城石山に出現したパターンは築後川流域にもあった。

 饒速日と天若日子、共に武の神でもあり、さらに日の神でもあったようだ。天若日子の女性神名は天稚日女、天照大神のことか。

 大三元さんの天の羽羽矢についての考察は秀逸で、饒速日と天若日子、さらには、三炊屋姫と下照比売、長髄彦と味耜高彦根命との類似に言及しておられる。
 天の羽羽矢についての考察

 これによると、天若日子と饒速日の類似は

1.天の羽羽矢(あまのははや)」の持ち主
2.両者の死亡記事があり、速飄(ツムジ風)が登場。
3.葬儀日程は天稚彦の方が8日8夜、饒速日の方が7日7夜。

 難波は物部氏が拠点とした土地であり、降臨してきた神々の伝承が語られ、時を経て二つの物語のようになったのかも知れない。または片方がアイデアを頂いて失われた神話を再構築したのかも知れない。

 余談だが、実は、物部氏の遠祖の饒速日命に十種神宝を授けた御祖の神とは一体誰のことかと言う疑問はずーっとあった。上記の共通論からは天津国玉神ではなかろうかとの推測が成り立つ。尤も『先代旧事本紀』では天照大御神と言う事になっている。
 難波坐生國咲國魂神社と物部氏、この神社の神々は生島神、足島神とされているが、十種神宝の内の生玉(いくたま)、足玉(たるたま)を祀っているのではとの説もある。

 饒速日の十種神宝に対して新羅の王子を名乗る天日槍の神宝は七、八種、妃神の名は我が御祖の国へ帰って来た赤留比売でヒメコソの神でもある。このあたりは神話の混乱があるのだろうが、いみじくも、天若日子、饒速日、天日槍、天孫系は渡来系の神々で、三炊屋姫、長髄彦、下照比売、味耜高彦根、大山祇はこの国の古い神々と語っているのかも知れない。

 長髄彦と味耜高彦根命、喪屋をけっ飛ばす味耜高彦根命、あまり品のいい神格としては現れていないが、迦毛の大御神と讃えらている。これは長髄彦とは大違いのように思えるが、『古事記』では登美の那賀須泥毘古と記し、登美は地名であろうが、日下に出現する登美毘古、難波と大和の支配者への敬称とも思える。トミと言う語感は悪くない。但し『日本書紀』では長髄彦の性格がねじけているとしているし味耜高彦根命も大御神とは記されていない。


(6)押し照る難波の八十島巡り
   『出雲国風土記』仁多郡の条に「父神の大穴持が御子の阿遅須伎高日子命が、言葉をしゃべれず、泣いてばかりだったので、船に乗せて八十島を連れて巡った。」とある。 鴨族の大遠祖にあたる須佐の男の命と鴨族の血を引く本牟智和気命にも同様の話がある。


『古事記』建速須佐の男の命は八拳須心前の至るまで啼きいさちき云々。

『古事記』本牟智和気、この御子、八拳鬚心前に至るまでに真事とはず。

『出雲風土記』阿遅須伎高日子は、御須髭八握に生ふるまで、晝夜哭いき坐して、云々。
 

 これは一体何事だろうか。

 祭礼によくある神々の遷る時の声、警蹕(けいひつ)を古語でオシと表現する。聾唖の唖をオシと云う。声を殺す、声を押し殺す、押し黙る、などオシはよく使われる言葉である。日が照るオシ照るのオシと奥底でつながっているのだろう。
 日神の登場の祭礼に警蹕は不可欠であった。

 上記の三柱の神々は、皆日の女神を姉妹に持つ。本牟智和気命と倭比売とは共に垂仁天皇の御子、倭比売は天照大神を祀ったので日神と見なし得る。須佐の男の命は云うまでもなく天照大神の弟とされ、味耜高彦根命は下照比売の兄、彼らには日神を祭る際、警蹕を発するとか、忌み籠もりを行うとか、祭礼上の役割があったのだろう。

 この三柱の神々は出雲国の斐の川に関連する。
 素盞嗚尊は肥の河上の鳥髪に降臨、八俣の大蛇退治を行っている。
 本牟智和気命は出雲に到り、大神を拝み、肥の河の中に黒樔の橋を作り仮宮に坐している。更によりにもよって肥長比売と一夜婚いをし、比売の正体を見て逃げ出している。
 本牟智和気命の物語が何故にこのように印象深く語られているのか、八拳鬚三神のもう一つの特長に、本来はこの国の支配者となるべき神々であったが、素盞嗚尊の場合には親神の裁定、阿遅須伎高日子根命の場合には所謂国譲りで、本牟智和気命の場合、景行朝の皇位簒奪(イリ系からタラシ系へ)で、それぞれ無念の思いでは共通した所があるのかも知れない。
 『古事記』では、尾張の二俣杉で二俣小舟を作り、大和の市師の池軽の池に浮かべて、皇子を遊ばしている。何故、尾張の舟なのだろうか。

 本牟智和気命の物語は、『尾張国風土記逸文』に記載されている。

 丹羽の郡。吾縵(あづら)の郷。垂仁天皇の御世、品津別の皇子は、生まれて七歳になっても口をきいて語ることができなかった。ひろく群臣に問われたけれども、誰一人よい意見を申し上げるものがなかった。その後、皇后の夢に神があってお告げをくだし給い、「私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加津比女(あまのみかつひめ)と云う。私のために祭る人を宛ってくれるならば、皇子はよくものを云い、ご寿命も長くなる。」と云った。日置部の祖の建岡君が美濃国の花鹿の山で榊木で縵を作り、落ちた所にこの神がおられと知って縵の社を建てた。ここを阿豆良の里という。
尾張国丹羽郡に式内社である阿豆良神社「天甕津媛命」(愛知県一宮市あずら)が鎮座。また、美濃国大野郡(岐阜県揖斐郡谷汲村)の花長上神社の祭神として天甕津日女命の名が見える。阿麻乃弥加津比女のことである。同じ村の花長下神社の祭神は赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命であり、『出雲国風土記』秋鹿郡の条にはこの神の后を天津日女命としている。

 多具の国の神の天甕津日女命、天御梶日女命、ミカツとミカジ、ツとジとの違いだけ、この女神は 阿遅須伎高日子根の妃神であることは以下の『出雲国風土記』が語っている。

 『出雲国風土記』楯縫郡の神名樋山 頂の西に石神あり。古老伝えて言う。阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多久の村に来て、多伎都比古命をお産みになったとさ。

 本牟智和気命に出雲の大神が祟ったとは『古事記』の記す所であるが、『尾張国風土記』では阿遅須伎高日子根の妃神が祟っている。本牟智和気命は阿遅須伎高日子根の分身のようなものだから、これは嫉妬心とか何があったのだろうか。

 いずれにしても、出雲から尾張・美濃へと伝承を持った人々が移動しているようだ。日置部の祖の建岡君が美濃国の花鹿の山に至っている。この日置部は『出雲国風土記』出雲郡、飯石郡、大原郡の記述者の名として出てくる。語り部的な人々であったのかも知れない。 日置は葛城にも、和泉にもその地名が残っている。
 出雲から難波大和を経由して尾張美濃へ伝承した物語がある。
 八俣の大蛇の剣
 出雲 素盞嗚尊の大蛇退治
 摂津 阿遲速雄神社に合祀
 尾張 熱田神宮 御神体としている。

 天若日子の喪屋は難波から美濃へ飛んでいった。

 葛城を高尾張と称しており、葛城を尾張氏のルーツの地とする説も有力。 鴨族の流れとして、出雲、播磨(風土記に逸話が多い)、難波・大和、近江、美濃・尾張との流れがあったようだ。鴨族はそれから東へ、北へと行く。

 『出雲国風土記』仁多郡三沢の郷の条

 大神大穴持命の御子の阿遅須伎高日子命は、あごの髯が八握(握り拳八つ分)になってもまだ夜昼となく(赤ん坊のように)哭いておいでになり、お言葉もしゃべれなかった。その時御祖の命は御子を船に乗せて八十島を連れてめぐってお心を慰めてあげようとされたが、それでもまだ哭きやまなかった。そこで大神は、夢知らせをお願いして、御子が哭くわけをお知らせ下さるよう夢見を祈ると、ただちにその夜の夢に御子が口をきくようになったと見なされた。そこで夢から覚めて「御子がしゃべれるかどうか」お尋ねすると、その時、御子は「御沢」と申された。その時「いったい何処をそういうのだ」とお問いなされると、すぐさま御祖の前を立ち去って行かれて石川を渡り、坂の上まで行ってとどまり、「ここをそう申します。」といった。その時そこの津の水が治り出たので、御身にあびてみそぎをなさった。
 だから国造が神吉事を奏上するため朝廷に参向するとき、その水を治り出して使い初めをするのである。(吉野裕訳『風土記』平凡社から)。

 これは一見仁多郡の事として記載されているようだが、仁多郡は奥出雲であり、深い山間部で構成されており、川には鬼の舌震と呼ばれるような岩があったり、どうも船遊びにはなかなか不向きの土地のようだ。八十島巡りのような形容を受ける島巡りは出来ない印象を受ける。
 八十島と言えば、文句無しに難波、阿遅須伎高日子命は難波で育てられていると見ていいのでは。
 石川も出てくる。これも難波の石川、下照比売の石川片淵の石川であろう。

 阿治志貴高日子根神は大和葛城を本拠としている神。河内とは背中合わせの地。葛城には高鴨神社が鎮座、『延喜式神名帳』では、高鴨阿治須岐託彦根命神社と記載され四座の名神大社である。
 この神社については、『出雲国造神賀詞』の文中に「己命(大穴持命)の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」と出てくる神社である。
 出雲国造は現在の出雲大社の社家の祖先である。出雲国造神賀詞を奏上するために一年間の潔斎を行ったと言う。神賀詞奏上はは霊亀二年(716年)が文献上の初見で、二十四代国造の出雲臣果安の時で、その子の広嶋は『出雲国風土記』を撰進している。

 阿遅須伎高日子命を奉じる出雲の人々が難波に移住して来たことがあったはず。

 果たして伝承は如何であるが、『大阪府の歴史散歩』(山川出版社)によると、美具久留御魂神社の鎮座する旧河内国石川郡大国郷(富田林市)が上陸地の一つとされている。まさに石川沿い。
 美具久留御魂神社の境内から東の鳥居を見ると、その向こうに二上山がくっきりと浮かび上がる。サヌカイトの取得も移住の目的だったのだろう。

 阿遅鋤高日子根命の御子神である阿遅速雄命の名を持つ式内社が大阪市鶴見区放出に鎮座、摂津河内の国造神とされている。


(7)大神氏、鴨氏、土蜘蛛
 物部氏、長髄彦または鴨氏や大神氏にしても、難波や大和の先住の民をある程度束ねていた氏族であり、最終的には天孫族の支配下に入る訳で、天孫族から見れば、その素性に大いなる関心を払う必要はないのであって、軍事氏族には天孫族と同族の格式を与えておき、祭祀氏族には出雲族などと同族として、国譲りの名誉を与え、彼らの神々が祟ることを止めさせ、さらには皇孫を守らせた。

 賀茂朝臣(かものあそみ)、大神朝臣と同じき祖。大国主神の後なり。大田田禰古命(おほたたねこみこと)の孫、大賀茂都美命(おほかもつみのみこと)、賀茂神社を斎き祭りき。と『新撰姓氏録』にある。

 大神朝臣と賀茂朝臣は共に大田田禰古命を祖としている大和平野の東西を分ける古い氏族である。尤も、葛城の鴨に神社には祭神としての大田田禰古命の名は見えないし、大田田禰古命の孫の大賀茂都美命の名も見えない。
 河内国渋川郡の鴨高田神社の祭神に大田田禰古命孫大賀茂都美の名が出てくる。大田田禰古命は河内国美濃にいた所を発見され、三輪の祭祀を行っている。

 実は大田田禰古命まで鴨族の祖神とするのはどうか、また大賀茂都美命の名も後から作ったような名で、この辺りの伝承はあまり信用できないのでは、と思っていた。所がこの前、高鴨神社社務所で、某家伝来の画文帯神獣鏡を拝見、説明によると、ホケノ山古墳(三世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳とされる。)の出土鏡と部分同型であり、銘文の字形は全く同じ。おそらく同じ工房で、同じ時期に、同じ作者で作成されたものと見ることが出来るとのこと。要は三輪山信仰圏と鴨神信仰圏とに同じような祭祀用具が伝わっていると言うことは、『新撰姓氏録』の大神朝臣と賀茂朝臣とは同じ祖とするのは、従来は否定的に見ることが多いような印象でしたが、どうやら同じ祖である物的証拠が存在していることになった。そうしますと、所謂葛城の下鴨神社の祭神である鴨都味波八重事代主神とは、鴨都(鴨に坐す)味波(三輪の)八重事代主神と分解できそうで、葛城駐在の大物主神のご託宣の神のことかも知れない。

 大神神社の見解としては、ホケノ山古墳を豊鋤入姫の墓に比定しているそうだ。男爵@中央大学氏は大田田根子尊の墓とされる。これは同じ画文帯神獣鏡の所有からの推測であり、物証があるのが強み。
 この物証の画文帯神獣鏡を拝見したことが小生をしてこの小論を書く一つの動機付けとなった。

ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡


 『日本書紀』神武紀で、大和の国に入って来てから、先住民と出会う。●:抵抗勢力、○:従順。
 菟田県の魁帥 ●兄猾  ○弟猾 
 吉野   ○井光 ○磐押別の子:吉野の国樔部の始祖
 吉野   ○磐押別の子:吉野の国樔部の始祖
 吉野の西 ○苞苴担の子:阿太の養鵜部の始祖
 国見丘  ●八十梟帥
 磯城邑  ●兄磯城と八十梟帥  ○弟磯城
 高尾張邑(葛城邑) ●赤銅八十梟帥
 鳥見   ●長髄彦  ○饒速日
 層富県波タ丘岬 ●新城戸畔
 和珥の坂本 ●居勢祝
 臍見の長柄丘岬 ●猪祝
 高尾張邑 ●土蜘蛛 侏儒(ヒキヒト)と相似たり。

 王権から見た大和の国樔と土蜘蛛の一覧である。土蜘蛛には長髄彦のイメージと侏儒(ヒキヒト)のイメージを持たしている。侵入者と比較すると体は小さいが、その割のは手足が長い形容であろう。また朝鮮語のヒキーミが土と蜘蛛とのなることを知っていた者がいて、葛城の日置をそうなぞらえたのかも知れない。
 物部にしても鴨族にしても、当初は抵抗も行ったのであろうが、早々に進入軍に従ったとする物語と思われる。鴨氏の祖の大田田根子の親に和迩君等祖居勢祝の名が見えること、葛城の本拠地である長柄に猪祝がいること、葛城である高尾張邑には赤銅八十梟帥やずばり土蜘蛛がいて侏儒(ヒキヒト)のようであったこと、葛城の地は磯城の地と共に土蜘蛛の一大拠点であったようだ。天孫族の進入以前に大神氏や鴨氏が彼らを束ねていたのであろう。三輪と鴨は国津神の双璧であったのだ。

 鴨族のいた葛城には後々大王の居城が置かれる事は少なく、長く土蜘蛛の巣窟であり続けた。
 『平家物語』剣の巻(下)が書かれた時代にでもそのように信じられていたようで、「謡曲土蜘蛛」が残っている。参照 謡曲土蜘蛛
 土蜘蛛は源頼光に襲いかかって、四天王渡辺綱などに退治された平安京に現れた葛城の土蜘蛛の亡霊の説話を下に作られた。 その供養の意味で葛城坐一言主神社に塚が設けられている。 また葛城山麓の古社である高天彦神社の参道手前の山中に土蜘蛛の墓が建っている。この二社は葛城の有力な古社であるが、鴨神とは一線を画しているようだ。土蜘蛛の殺戮者の祀った神社だったのかも知れない。

 葛城の土蜘蛛(クズ)は王権へ与えた印象は根深く残っていたようで、おそらく、鴨氏は全国に散らばっている土蜘蛛の総大将的な役割を期待されていたのではなかろうか。
 これは王権からは土蜘蛛を大人しくさせる意味で(大人しい土蜘蛛を国栖と言う)、また土蜘蛛からは自由に往来し商売をする保証などを期待されていたと言うこと。
 サンカを土蜘蛛の後裔と考えると、火明命の後裔とする尾張氏のルーツが高尾張邑であることは素直にうなずける所。また、物部氏の遠祖である饒速日尊と火明命とが習合して天照国照彦火明櫛玉饒速日尊が構想されたのも、まつろわぬ民をどう束ねるかが長く大きい課題であったことを示しているようだ。

 風土記やその逸文から土蜘蛛(土雲)の登場する場所をリストアップしたページがある。土蜘蛛リスト 。このリストを眺めていて、やはり鴨族との関わりが深いように思える。

肥前国 海松橿姫 松浦郡賀周郷(唐津市見借)
肥前国 松浦郡 御嶽神社「味須岐高彦根命」佐賀県唐津市竹木場4956 ほか3社

常陸国  茨城(ウバラキ)郡 茨で土蜘蛛を捕らえた
常陸国 茨城郡 鴨大神御子神主玉神社

陸奥国 八槻(福島県東白川郡棚倉町)欅(けやき)の伝説
陸奥(磐城)国 白川(東白川)郡 都々古別神社「味耜高彦根命」福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224
陸奥(磐城)国 白川(東白川)郡 都々古別神社「味耜高彦根命」福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39 <

 大和国内は省略。上記リストから土蜘蛛と味耜高彦根命の組み合わせ、この重複が偶然なのか、さもありなんか。物部とか五十猛命は味耜高彦根命ほどピッタリではないようだ。

 葛城の地に葛城氏と鴨氏、この二氏族の関係は如何。

 元々、鴨氏の一部が河内や紀の国から葛城山の東側に入植していた。
 近鉄やJRの御所駅の南に鴨都波八重事代主命神社が鎮座、その付近からは鴨都波神社遺跡とでも称する縄文時代からの遺物が出土している。そうとう早い時期からこの谷沿いの入り口で川の合流点にもあたるこの地は開拓されていた。金剛葛城の山々からなだらかな斜面が東に続き、ついには葛城川に流れおちる地形となっている。この斜面は朝の日光がよく当たる場所で、焼き畑でも水耕でも、五穀を耕し、実りを収穫するのにはうってつけの地。平群、矢田、生駒等の東斜面もそのような地形。西向きでも出来るのは葡萄。

 所謂欠史八代の天皇の宮は葛城から徐々に東へ北へと平野の中央へ出ていっている。史実とは断言出来ないが、この様な物語ができあがってくる背景には、根強い伝承としては葛城方面に相当な王権が誕生していた事が残っていたのかもしれない。これは鴨氏の王権が磯城の妃を得て大和国中から徐々に勢力を拡大していったように『古事記』が記すような事もある程度は受け入れられていたようだ。

 鴨族は出雲、播磨(この国の風土記に味耜高彦根命が多く登場する)、難波、大和西部に展開していたのでしょう。鴨族の地に多くの渡来人を受け入れ、国土開拓、治水などを行って来、葛城の地にも武内宿禰から出た氏族の葛城氏、巨勢氏などに虫食い状態にされていったようで、葛上郡(御所市南部)のみが鴨氏の支配地となってしまった。

 鴨氏はこの国の古来からの神々をも祀り、土蜘蛛を和をもって王権の民である国栖にし、また占い、蝋燭、更にはトリカブトの毒をあやつるなど、古代のこの国の支配者の後裔氏族としての祭祀だけではないものを持っていた。鴨族は権力に寄生するインテリ氏族、占いの名族などとして鄙では受け入れられた。この際に、葛城の鴨系の神を祀る社が形成されていった。味耜高彦根神を祀る神社一覧 参照

迦毛の大御神と下照比賣考 終わり

神奈備にようこそ