物部氏、長髄彦または鴨氏や大神氏にしても、難波や大和の先住の民をある程度束ねていた氏族であり、最終的には天孫族の支配下に入る訳で、天孫族から見れば、その素性に大いなる関心を払う必要はないのであって、軍事氏族には天孫族と同族の格式を与えておき、祭祀氏族には出雲族などと同族として、国譲りの名誉を与え、彼らの神々が祟ることを止めさせ、さらには皇孫を守らせた。
賀茂朝臣(かものあそみ)、大神朝臣と同じき祖。大国主神の後なり。大田田禰古命(おほたたねこみこと)の孫、大賀茂都美命(おほかもつみのみこと)、賀茂神社を斎き祭りき。と『新撰姓氏録』にある。
大神朝臣と賀茂朝臣は共に大田田禰古命を祖としている大和平野の東西を分ける古い氏族である。尤も、葛城の鴨に神社には祭神としての大田田禰古命の名は見えないし、大田田禰古命の孫の大賀茂都美命の名も見えない。
河内国渋川郡の鴨高田神社の祭神に大田田禰古命孫大賀茂都美の名が出てくる。大田田禰古命は河内国美濃にいた所を発見され、三輪の祭祀を行っている。
実は大田田禰古命まで鴨族の祖神とするのはどうか、また大賀茂都美命の名も後から作ったような名で、この辺りの伝承はあまり信用できないのでは、と思っていた。所がこの前、高鴨神社社務所で、某家伝来の画文帯神獣鏡を拝見、説明によると、ホケノ山古墳(三世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳とされる。)の出土鏡と部分同型であり、銘文の字形は全く同じ。おそらく同じ工房で、同じ時期に、同じ作者で作成されたものと見ることが出来るとのこと。要は三輪山信仰圏と鴨神信仰圏とに同じような祭祀用具が伝わっていると言うことは、『新撰姓氏録』の大神朝臣と賀茂朝臣とは同じ祖とするのは、従来は否定的に見ることが多いような印象でしたが、どうやら同じ祖である物的証拠が存在していることになった。そうしますと、所謂葛城の下鴨神社の祭神である鴨都味波八重事代主神とは、鴨都(鴨に坐す)味波(三輪の)八重事代主神と分解できそうで、葛城駐在の大物主神のご託宣の神のことかも知れない。
大神神社の見解としては、ホケノ山古墳を豊鋤入姫の墓に比定しているそうだ。男爵@中央大学氏は大田田根子尊の墓とされる。これは同じ画文帯神獣鏡の所有からの推測であり、物証があるのが強み。
この物証の画文帯神獣鏡を拝見したことが小生をしてこの小論を書く一つの動機付けとなった。
ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡
『日本書紀』神武紀で、大和の国に入って来てから、先住民と出会う。●:抵抗勢力、○:従順。
菟田県の魁帥 ●兄猾 ○弟猾
吉野 ○井光 ○磐押別の子:吉野の国樔部の始祖
吉野 ○磐押別の子:吉野の国樔部の始祖
吉野の西 ○苞苴担の子:阿太の養鵜部の始祖
国見丘 ●八十梟帥
磯城邑 ●兄磯城と八十梟帥 ○弟磯城
高尾張邑(葛城邑) ●赤銅八十梟帥
鳥見 ●長髄彦 ○饒速日
層富県波タ丘岬 ●新城戸畔
和珥の坂本 ●居勢祝
臍見の長柄丘岬 ●猪祝
高尾張邑 ●土蜘蛛 侏儒(ヒキヒト)と相似たり。
王権から見た大和の国樔と土蜘蛛の一覧である。土蜘蛛には長髄彦のイメージと侏儒(ヒキヒト)のイメージを持たしている。侵入者と比較すると体は小さいが、その割のは手足が長い形容であろう。また朝鮮語のヒキーミが土と蜘蛛とのなることを知っていた者がいて、葛城の日置をそうなぞらえたのかも知れない。
物部にしても鴨族にしても、当初は抵抗も行ったのであろうが、早々に進入軍に従ったとする物語と思われる。鴨氏の祖の大田田根子の親に和迩君等祖居勢祝の名が見えること、葛城の本拠地である長柄に猪祝がいること、葛城である高尾張邑には赤銅八十梟帥やずばり土蜘蛛がいて侏儒(ヒキヒト)のようであったこと、葛城の地は磯城の地と共に土蜘蛛の一大拠点であったようだ。天孫族の進入以前に大神氏や鴨氏が彼らを束ねていたのであろう。三輪と鴨は国津神の双璧であったのだ。
鴨族のいた葛城には後々大王の居城が置かれる事は少なく、長く土蜘蛛の巣窟であり続けた。
『平家物語』剣の巻(下)が書かれた時代にでもそのように信じられていたようで、「謡曲土蜘蛛」が残っている。参照 謡曲土蜘蛛
土蜘蛛は源頼光に襲いかかって、四天王渡辺綱などに退治された平安京に現れた葛城の土蜘蛛の亡霊の説話を下に作られた。 その供養の意味で葛城坐一言主神社に塚が設けられている。
また葛城山麓の古社である高天彦神社の参道手前の山中に土蜘蛛の墓が建っている。この二社は葛城の有力な古社であるが、鴨神とは一線を画しているようだ。土蜘蛛の殺戮者の祀った神社だったのかも知れない。
葛城の土蜘蛛(クズ)は王権へ与えた印象は根深く残っていたようで、おそらく、鴨氏は全国に散らばっている土蜘蛛の総大将的な役割を期待されていたのではなかろうか。
これは王権からは土蜘蛛を大人しくさせる意味で(大人しい土蜘蛛を国栖と言う)、また土蜘蛛からは自由に往来し商売をする保証などを期待されていたと言うこと。
サンカを土蜘蛛の後裔と考えると、火明命の後裔とする尾張氏のルーツが高尾張邑であることは素直にうなずける所。また、物部氏の遠祖である饒速日尊と火明命とが習合して天照国照彦火明櫛玉饒速日尊が構想されたのも、まつろわぬ民をどう束ねるかが長く大きい課題であったことを示しているようだ。
風土記やその逸文から土蜘蛛(土雲)の登場する場所をリストアップしたページがある。土蜘蛛リスト 。このリストを眺めていて、やはり鴨族との関わりが深いように思える。
肥前国 海松橿姫 松浦郡賀周郷(唐津市見借)
肥前国 松浦郡 御嶽神社「味須岐高彦根命」佐賀県唐津市竹木場4956 ほか3社
常陸国 茨城(ウバラキ)郡 茨で土蜘蛛を捕らえた
常陸国 茨城郡 鴨大神御子神主玉神社
陸奥国 八槻(福島県東白川郡棚倉町)欅(けやき)の伝説
陸奥(磐城)国 白川(東白川)郡 都々古別神社「味耜高彦根命」福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224
陸奥(磐城)国 白川(東白川)郡 都々古別神社「味耜高彦根命」福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39 <
大和国内は省略。上記リストから土蜘蛛と味耜高彦根命の組み合わせ、この重複が偶然なのか、さもありなんか。物部とか五十猛命は味耜高彦根命ほどピッタリではないようだ。
葛城の地に葛城氏と鴨氏、この二氏族の関係は如何。
元々、鴨氏の一部が河内や紀の国から葛城山の東側に入植していた。
近鉄やJRの御所駅の南に鴨都波八重事代主命神社が鎮座、その付近からは鴨都波神社遺跡とでも称する縄文時代からの遺物が出土している。そうとう早い時期からこの谷沿いの入り口で川の合流点にもあたるこの地は開拓されていた。金剛葛城の山々からなだらかな斜面が東に続き、ついには葛城川に流れおちる地形となっている。この斜面は朝の日光がよく当たる場所で、焼き畑でも水耕でも、五穀を耕し、実りを収穫するのにはうってつけの地。平群、矢田、生駒等の東斜面もそのような地形。西向きでも出来るのは葡萄。
所謂欠史八代の天皇の宮は葛城から徐々に東へ北へと平野の中央へ出ていっている。史実とは断言出来ないが、この様な物語ができあがってくる背景には、根強い伝承としては葛城方面に相当な王権が誕生していた事が残っていたのかもしれない。これは鴨氏の王権が磯城の妃を得て大和国中から徐々に勢力を拡大していったように『古事記』が記すような事もある程度は受け入れられていたようだ。
鴨族は出雲、播磨(この国の風土記に味耜高彦根命が多く登場する)、難波、大和西部に展開していたのでしょう。鴨族の地に多くの渡来人を受け入れ、国土開拓、治水などを行って来、葛城の地にも武内宿禰から出た氏族の葛城氏、巨勢氏などに虫食い状態にされていったようで、葛上郡(御所市南部)のみが鴨氏の支配地となってしまった。
鴨氏はこの国の古来からの神々をも祀り、土蜘蛛を和をもって王権の民である国栖にし、また占い、蝋燭、更にはトリカブトの毒をあやつるなど、古代のこの国の支配者の後裔氏族としての祭祀だけではないものを持っていた。鴨族は権力に寄生するインテリ氏族、占いの名族などとして鄙では受け入れられた。この際に、葛城の鴨系の神を祀る社が形成されていった。味耜高彦根神を祀る神社一覧 参照
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