鴨都波神社(かもつわ)

御所市宮前町 mapfan

交通案内
近鉄御所線御所駅 南10分

祭神
鴨都八重事代主命、下照姫命

配祀 大己貴神、少彦名神

主な境内摂社
 稲荷神社「宇迦之御魂神」
 神農神社「少名毘古那神」
 恵比須神社「事代主神」
 春日神社「天兒屋根命」

拝殿

由緒
 祭神の内、事代主神については異論はないようであるが、下照姫については疑問がついている。
 古い社名は鴨都弥波・・、鴨弥都波・・等であり、『延喜式金剛本』には貞観改號の旨がある。『旧事紀』には都味歯とある。 この解釈については諸説があるようだ。神社名はほかに葛木鴨神社、鴨神社、葛木神社、下津賀茂社など多い。
 鴨都弥波(鴨ミツハ)は「鴨の水ギワノ神」と解され、まさに葛城川と柳田川の合流する水籬の地と言える事、本殿の西の傍らに井戸が祀られている事等から、祭神が水の神であった事を暗示している。鴨の三輪、カモツミハ説が興味深い。

 祭神一座は葛城の鴨の土地神で、一時は「罔象女神」であり、女神であることから「下照姫神」に置き換わった可能性もあるとされる。*1

 金剛、葛城の山麓は古代の大豪族、鴨族の発祥地で、その末流は全国にひろがり、鴨(加茂)の郡名だけでも、安芸、播磨、美濃、三河、佐渡の国々にみられ、郷名に至ってはさらに多く、また京都の加茂大社をはじめ、全国に分布している多数の鴨社も、すべて源をこの地に発すると神社の栞の説明である。
 この葛城の地に鎮まる鴨社としては、本社のほかに、高鴨神社(上鴨)、御歳神社(中鴨)との三社がある。 本社付近一帯は鴨都波遺跡と呼称され、神社はその遺跡の上に鎮座し、社地を中心に弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住居跡も発掘されているが、弥生時代の中期始め、鴨の一族が水稲農耕を営み神社付近に住みついた事を表していると推定できる。

 神社側の説明では、祭神の名の「代主」は田の神の古語、「鴨都味波」は鴨の水端(みは)、すなわち鴨の水辺の意、「八重事」はしばしばの折り目という形容で、つまり「鴨の水辺で折り目ごとに祀られる田の神」という神名でとされている。

  この神は、古くは神武天皇の大和平定のとき一族はヤタガラスと称されて功績をあげ、また神功皇后の帰還にあたって、謀反があって船を難波に入れないとき、事代主神の御守護により無事に大和へ入れたとされる。 そのときの神託に、「事代主尊、おしえてのたまわく、吾が御心の長田国に祠れと」(日本書紀)とあり、これが神戸市の長田神社に本社の祭神が祀られた由縁とされている。 さらに壬申の乱に大海人皇子(天武天皇)を神託によって戦勝に導いたのも事代主神である。 多くの活躍があり、田の神であることが忘れられて来またとの事で、稲作を加護する神であるとの神社の説明である。

お姿
  大きい社叢である。様々な木々が密集している良い杜である。樹齢300年のいち樫が拝殿前の右手にあり、神木とされている。

本殿

お祭り
 秋例大祭  10月9、10日
 ススキ提灯行列参拝神輿渡御は10月10日



『平成祭礼データ』鴨都波神社 由緒


金剛、葛城の山麓は古代の大豪族、鴨族の発祥地であります。その末流は全国にひろ がり、鴨(加茂)の郡名だけでも、安芸、播磨、美濃、三河、佐渡の国々にみられ、 郷名に至ってはさらに多く、また京都の加茂大社をはじめ、全国に分布している多数 の鴨社も、すべて源をこの地に発するものであります。 この葛城の地に鎮まる鴨社としては、本社のほかに、高鴨神社(上鴨)御歳神社(中 鴨)との三社があります。
本社付近一帯は鴨都波遺跡と呼称され、神社はその遺跡の上に鎮座しています。本社 の境内地を中心に弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住 居跡も発掘されていますが、弥生時代の中期始め、鴨の一族が水稲農耕を営み神社付 近に住みついた事を表しております。
本社の主祭神は古記に、鴨都味波八重事代主神(かもつみわやえことしろぬしのかみ )と記されております。「代主」は田の神の古語、「鴨都味波」は鴨の水端(みは) 、すなわち鴨の水辺の意、「八重事」はしばしばの折り目という形容で、つまり「鴨 の水辺で折り目ごとに祀られる田の神」という御神名であります。 金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流するこの地が、潅漑に 最も適した地として、田の神を鎮め祀ったのに始まります。
天孫降臨に際して、父の大国主命(桜井市の大神神社御祭神)に代わって国譲りを決 定した大神として、御祭神の事代主命の名がみえます。また、事代主命の御子のヒメ タタラ五十鈴媛命は神武天皇の皇后、五十鈴依媛命は綏靖天皇の皇后に天日方命から 加茂君が出ておられます。民族学を研究されておる鳥越憲三郎先生は、葛城王朝の存 在と「天孫降臨は葛城王朝に鴨族が併合されたこの地の歴史的事実を伝承されたもの 」そして葛城王朝の、神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となったのは、事代主神 を奉斎してこの地を領地していた鴨王の娘であるといわれる由縁であります。そうし た由縁から、その後も本社の御祭神は皇室の御守護神とされ、宮中八神の一つとして 崇拝されて来ました。
古くは神武天皇の大和平定のとき一族はヤタガラスと称されて功績をあげ、また神功 皇后の朝鮮征伐からの御帰還にあたっては、謀反があって船を難波に入れないとき、 事代主神の御守護により無事に大和へお迎え申し上げることが出来ました。そのとき の御神託に、「事代主尊、おしえてのたまわく、吾が御心の長田国に祠れと」(日本 書紀)とみえますが、これが神戸市の名社、長田神社に本社の御祭神が祀られたのは そのためであります。さらに壬申の乱に大海人皇子(天武天皇)を御神託によって戦 勝にお導きしたのも事代主神であります。多くの輝かしい御武勲をおたてになったこ とから、田の神におわしますことが忘れられて来ましたが、稲作を御加護される神様 であります。
延喜の制では名神大社に列し、月次、相嘗、新嘗には宮中よりの官幣に預かって来た 由緒ある名社であります。宮司謹白

参考文献 *1 日本の神々 4 大和 (白水社)、『式内社調査報告』

公式鴨都波神社
大和の神々

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