大坂山口神社

奈良県香芝市逢坂 its-mo逢坂山口神社



鳥居

交通案内
近鉄大阪線二上駅より東北東へ300m



祭神
大山祇命、須佐之男命、稻倉魂命
または大山祇命、須佐之男命、神大市姫命

拝殿

由緒
  式内社の論社としては別に穴虫の大坂山口神社が存在し、立地上からも穴虫のほうが有力なようであるが、 たかだか数百メートルの距離しかなく、元々は同じ敷地内だったのかも知れない。

 『延喜式』の祝詞の中では、飛鳥、石村(いはれ)、忍坂、長谷、畝火、耳無の山口神の名が見え、他に式内社として夜支布、巨勢、鴨、當麻、大坂、吉野、都祁の八社があり、合わせて十四社が大社である。 重要視されていた神である。

 当神社は大和国中と河内を結ぶ交通の要所に鎮座していることもあって、『日本書紀』では崇神紀、天武紀、『古事記』に履中記にも大坂の山口の名前が出てくる。

 また、例の「太陽の道」の線上にあたる。

本殿遠景


お姿
 本殿は拝殿や壁で見えにくい。神社を出て裏側へまわると木々の間からなんとか見える。 おそらくはそこまでして見るものではないのだろう。三間社流造檜皮葺。室町時代後半の様式を残しているそうである。
 本殿と拝殿の間に樹齢1500年と言われる白檮の木があり、そばに亀の形状の巨石があるそうだが、確認できていない。素盞嗚尊を学問の神様として説明している。 これは和歌をはじめて詠ったとの伝承からである。


お祭り

春祭     3月 1日
秋季大祭  10月16日

日本の射日神話

 垂仁天皇の(第一一代)のとき、九つの日輪が出たことがあった。そこで天文博士を召して占わせてみると、北のはずれのものは本物の日輪だが、南に並んでいる日輪はカラスが化けたものである。このカラスは地上から八町(872m)上にある。射手に勅して射させるか、さもないと天下の物の怪となるだろうと奏上した。。これが日本における梯子のはじめである。
 時は垂仁帝一八年二月一〇日の辰刻(午前8時)であった。天皇もこれを御覧になるために、武蔵国に行幸した。こうして八人の射手が思い思いに神を念じて矢を放つと、八筋の矢は八つの太陽に当って、筑紫の日向国宮崎郡に落ちた。
 それからひゅうがとは日に向うと書くのである。その後、天皇は難波の都にお帰りになったが、ほどなくして八つの日輪が献上された。長さ一丈五尺(4.5m)のカラスで尾幅は一丈六尺(4.8m)嘴は三尺八寸(1.14m)あった。そのカラスの首を切らせてみると、二寸(6cm)四方の玉が一つずつ入っており、その中にはどれも一寸六分(4.8cm)の釈迦像郎が一体入っていた。そこで八つの玉を一つは尾張国熱田の社に、一つは伊勢の外宮に、一つは紀伊国日前宮に、一つは信濃国諏訪社に、一つは豊前国宇佐八幡宮に、一つは逢坂関明神に、一つは摂津国住吉社に、一つは帝の御宝蔵に収められた。例の射手たちは坂東八力国を賜り、天文博士にも若干の所領が与えられたという。
  正徳五年(1715)『広益俗説弁』肥後の学者 幡竜子   以上

逢坂関明神 当社のことと思われる。
 

参考

神社本庁cd:平成祭礼データ
『式内社調査報告第二巻』
『寺院神社大事典 大和紀伊』

大和の神々
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