崇道神社
御所市櫛羅字角田8

鳥居

交通案内
近鉄御所駅の西1.5km mapfan

祭神
崇道天皇(早良親王)


由緒
 創建年月など不詳。

 崇道天皇は、早良親王に与えられた追号である。早良親王は、父、光仁天皇(四十九代)と母、高野新笠との間に生まれ、兄は桓武天皇(五十代)である。はじめ出家したが、父、光仁天皇が即位すると親王となり天応元年(781)、兄、桓武天皇の即位と同時に皇太子となった。桓武天皇にはすでに皇子があったのであるから、おそらく父、光仁天皇の意志によってのものであっろう。

 このため、桓武天皇と弟、早良親王との間は、あまり円満でなく、天皇の親任厚い、藤原種継とも人事問題が絡んで不和だったようである。
 延暦三年(784)長岡遷都がおこなわれたが、翌年主唱者の藤原種継は暗殺された。

 事件の首謀者として、大伴継人、大伴竹良や前月病死した大伴家持などがそれぞれ処分されたが、早良親王も関係者として乙訓寺に幽閉され、自ら食を絶って淡路へ移送される船中で死んだ。

 現在の『続日本紀』には関係記事が削られているので詳細は、わからないが、藤原氏政権獲得の犠牲者として世人の同情も集まったようである。

 そのころ、皇室に種々不幸が起こり悪疫も流行したが、みな早良親王のたたりとして恐れられ、延暦十九年(800)に崇道天皇の追号が贈られた。
 長岡京が廃止されたおもな理由もこれによる。京都市上京区の御霊神社にまつられている。

 奈良時代から平安時代にかけて、不遇の死を遂げ、この世に怨みを残した人々の霊魂、つまり怨霊を恐れる思想がひろまった。とくに偉大な個性を持った人物ほどその祟りは恐ろしいものとされた。延暦四年(785)に没した崇道天皇や延喜三年(903)配流地の太宰府で客死した菅原道真はその代表的なものである。

拝殿と本殿
 


お姿
 櫛羅の道を西に向かって歩くと、ふいに北側の路地の向こうに鳥居とうっそうとした社叢が見える。近づくと崇道神社とある。

 なぜこの葛城の地に早良親王を祀る神社があるのだろうか。

大和の神々
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