耳成山口神社
橿原市木原町490 mapfan


鳥居


交通案内
近鉄大阪線耳成駅 西1km、耳成山八合目



祭神
大山祇命 高皇産靈神



由緒
 山口神社は延喜式に14社あるがいずれも大社である。 延喜式祝詞には飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝火、耳無の名があげられ、皇室の舎殿の用材を切り出す山の神として祭られていた。 これらは概ね近鉄大阪線沿いにある。
 広瀬大忌祭の祝詞には、「皇神等の敷き坐す山山の口より、さくなだりに下したまふ水を、甘き水と受けて、天の下の公民の取り作れる奧つ御歳を、悪しき風荒き水に相はせたまはず・・」 とあるように、山々は水の神、農の神でもあった。当神社も朝廷からの雨風祈願、祈雨祈願の一社になっていた。*1
 中世以降、当社は天神社と称し、耳成山も天神山と呼ばれていた。高皇産靈神が祭られていたからであろうか。
 概ね「山口」神社は山麓に鎮座する。当社のように八合目に鎮座しているのでは山口神社とは言えない。 何かの理由で山麓から何時の時点でか上部へ遷座した(この事も珍しい事だが)のか、当神社はやはり天神社であって山口神社は別にあって既に失われてしまったのか、今となっては遠い過去の霧の中である。
 慶安四年(1651年)、山之坊村民が神木を伐り荒らした事件を発端に、入会をめぐる争論が続き、宝永二年(1702年)耳無山天神ハ式内之社耳無山口神社とする事で決着した。*2 同時に山之坊村民は、神霊を山之坊山口神社に遷し、今日に至っている。


天香久山から見た耳成山

 当社は延喜式内社の目原坐高御魂神社二座[メハラノ](並大。月次新甞。)の論社にもなっている。
 由緒は、『日本書紀』巻十五顕宗天皇三年(丁卯四八七)四月庚申《五》に以下の記事があること。
 夏四月丙辰朔庚申。日神著人。謂阿閇臣事代曰。以磐余田獻我祖高皇産靈。事代便奏。依神乞獻田十四町。對馬下縣直侍祠。

 対馬の日神がわが先祖の高皇産靈に磐余の田を奉じよとの託宣があり、十四町を奉じて、対馬県主が奉ったと。

お姿
  耳成山の南側と北側に参詣道があり、それぞれ鳥居が立っている。 参道は苔蒸す良い道である。ストンとした山で畝がない。顔で言えば耳が無い。後の二山は畝が美しく、その名にも反映している程好対照である。


耳成山は、天神山の他にも新賀山、山坊山と言う。またクチナシ山と言うのは、この木の自生から起こった山名である。
耳成の山のくちなし得てしかな 思ひの色の下染めにせむ  古今集


拝殿




本殿



お祭り
例大祭 10月13日
*1 日本の神々4(木村芳一)白水社
*2 寺院神社大事典(大和紀伊)平凡社

大和の神々
神奈備にようこそ