大倭神宮

奈良市中町



鳥居と神域


交通案内
学園前から22番バス 藤の木台一丁目下車西南800m mapfan

祭神
奇稲田姫、素盞嗚尊

摂社 小祠あり、祭神は鵄嶽大加美(とみたけおおかみ)と武隈大明神(たけくま)。
 鵄嶽大加美 山城鞍馬山の鞍馬大魔王で、文治三年(1185年)大国主命からこの神に「将来大倭の霊地を汚し侵す者がある。 その者に対して厳罰に処してもいい。行って守護せよ。」とあり、それで、当地に遷座したと言う。
 武猥大明神 悠久の昔から当地に棲息いていた白狐の姿を持つ固有霊で、杜の片隅に祀られていた。


由緒
 当地は奈良の新興住宅地の学園前の南端の地で、ここから南はひっそりとした田舎が残っているようだ。境内に奇稲田姫の墓とされている場所があるとのこと。 当地に伝わる伝承では、素盞嗚尊は富雄に住んでいて、八俣の大蛇は古代大和盆地が湖だった頃、三輪山周辺から石上にかけて住んでいた怪獣(産鉄民族?)だったと記述されているとのこと。(神奈備掲示板[3465] のサングリーンさんの書き込み)
 磐座の横側には推古天皇御創建とよめる刻印があった。神社の起源と示している。 木々や竹藪に囲まれた霊地の中の磐座であり、ただならぬ雰囲気が漂う。

 伝承では、熊野を迂回して大和に攻め込んだ狭野命の軍は連戦連敗だった。 登美の軍が勝ち鬨を挙げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲来とともに、金鵄の瑞光があって、両軍矛を納めて大地に平伏した。 この天啓によって両軍和議が成立、長曽根日子命が差し出した条件を狭野命が無条件に受諾、長曽根日子命はヤマト国を狭野命に譲り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となったと言う。

 それでもヤマトの人々の中には不満が残り、再び戦乱の様相が見えたので、長曽根日子命は自ら命を絶って、国が鎮まることを願った言う。
 上記は『大倭神宮伝承の紀』、『長曽根日子命』提供:大倭本宮社務所 による。またこれらの伝承は矢追日聖氏が幽界より得たものと言う。検証のできない霊界史観であることを断っておく。

 また、物部蘇我戦争の際に祖先のトミノオミトイチヒは聖徳太子の矢を背負ったことから、矢追と言う名を賜ったと伝えている。



磐座



お姿
  民家の間にひっそりとその地はあった。 参集殿のような建物はある。鳥居と磐座との間に「登美霊畤」の石碑が建っていたが、建立者の名は刻まれていなかった。



小祠




お祭り
例祭  毎月6日と15日 本宮は23日

大和の神々
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