御霊神社
五條市霊安寺町2206番地
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社景





 祭神

皇后、井上(いがみ)内親王(本殿東向)
早良親王=(崇道天皇)(北脇南向)
他戸親王=(皇太子)(南脇北向)
摂社 御山火雷神社(若宮と称す) 雷神


由緒

 舊宇智郡は現在五条市であるが、この地域に20社ほど鎮座する御霊神社の本宮である。
井上内親王は聖武天皇の第二皇女で、光仁天皇の皇后であったが、巫女に天皇を呪詛させたとの罪で皇太子他戸親王とともに廃されて宇智郡に幽閉された。3年後の宝亀六年(775年)に母子ともに死亡している。

 『続日本紀』に「謀反」と言う表現が使われているのは、天皇を呪詛したとされたのであるが、光仁天皇は老齢であり、 我が子は皇太子、時が解決するはずなのになぜ呪詛の必要があるのか。これがいつも出される疑問である。 当時、呪詛は流行っていたようで、平城京の井戸址から眼や胸に釘を打ち込んだ呪詛人形が数例出ているとのこと。
 考えられることは、うかうかしていると、山部皇子の勢力が何らかの陰謀で他戸皇太子を廃して、山部皇太子の誕生を画策成功させてしまうとの恐れを感じていて、呪詛を行ったのかも知れないとは考えられないだろうか。
 皇后と皇太子であったが故に取り調べもせずに、宇智へ幽閉されている。

 この時、光仁天皇は何をしていたのだろうか。山部皇子も光仁天皇の子であり、どちらでもよかったと言うことではあるまい。 62歳で天皇になった訳で、恐らくは任せきりの好々爺だったのだろうが、内心呪詛側を応援していたのではなかろうか。要は手も足もでなかったと言うことだろう。

 井上内親王と他戸親王の同時死亡の翌年から天変地異がしきりに起こり、廃后・廃太子の祟りと恐れられ、霊安寺が創立された。さらに延暦九年(912年)桓武天皇の勅願によって当社が創建された。

 また他戸親王は生きているとの風説が流れたようであり、早逝を惜しんだ民衆の思慕があったようである。 百川の命で使者を確認に行かせている。百川は真実を報告しないように予め含ませていたようだが、使者は生きているのを確認した。 しかし、他の人と間違えていると報告、「私が偽りを言っているなら、両眼が抜け落ちるでしょう」と誓ったところ、まもなく使者の両眼は抜け落ちたそうである。

 京都に天皇家の菩提を弔うお寺がある。何故か、光仁天皇以降の天皇の菩提だそうで、光仁天皇は新しい王朝であるとの意識があったようだ。

 その後、在地武士などの抗争により、神社が分祀された。

三間社流れ造りの大きい本殿


お姿

 小高い丘の端に東向きで鎮座する。本殿の背後は崖で、下に道路が走っている。 三間社流れ造りの檜皮葺の本殿は寛永十四年(1637年)の再建で、極彩色として、丹や金粉が塗られた桃山風の建造物である。 古い神社は本殿背後に深い森があるのが多いのだが、平安時代創建ともなれば、社や神像を祀ることが神社とされていったのであろう。


お祭り

諸頭講当屋祭 10月 9日
例祭  10月22日  五條祭



御霊神社 平成祭礼データから

別称
御霊宮大明神
宇智郡大宮
御霊さん
御霊本宮
霊安寺本宮
四所御霊大明神
御祭神
・皇后、井上(いがみ)内親王(本殿東向)
・早良親王=(崇道天皇)(北脇南向)
・他戸親王=(皇太子)(南脇北向)
・雷神−御山火雷神社(若宮と称す)

御祭神の御事歴
聖武天皇の皇女
養老5(721)年斉内親王
神亀4(727)年伊勢皇大神宮へ出仕
宝亀元(770)年11月詔により皇后になられる。
宝亀2(771)年正月詔により他戸親王立皇太子。
宝亀3(772)年3月冤罪により皇后を廃される。
仝年5月他戸親王皇太子を廃される。
宝亀4(773)年10月罪により宇智郡に幽閉される。
宝亀6(775)年4月己丑(27日)母子ともにおかくれになる。
宝亀7(776)年3月宮中の怪事をはらうために僧六百人に金剛般若経を読ましむ。
仝年12月諸国の国分寺で金剛般若経を読ましむ。
宝亀8(777)年12月井上内親王を改葬して御墓と称し、守家(しゅちょう)一烟を置いて守護する。
宝亀9(778)年正月壱志濃王(いちしのおう)らを遣わし改葬する。
天応元(781)年4月早良親王皇太子となる。
延暦4(785)年9月科により廃皇太子。
延暦4(785)年9月科により廃皇太子。
仝年十月淡路に流される。
延暦17(798)年3月早良親王を大和の八嶋陵に改葬される。
延暦19(800)年7月葛井王を遣わし、早良親王を崇道天皇と追称し、井上内親王を追復して皇后と称し、御墓を山陵と称す。(この頃社寺が創建されたと考えられる)延暦24(805)年2月京都で僧150人に大般若経を読ましめ、霊安寺に一小倉を造り稲・調綿・庸綿を納め神霊を慰められる。
弘仁7(816)年10月太政官符下る。
稲四千束−春秋の供養・修理料延喜式に定められ、恒例となる。

宮わけ
嘉禎4(1238)年10月吉原・牧野氏の論争により郡内(今の五條市)各地に分霊を祀る。
当初十ヶ所、のち二十数社にのぼる。

お祭り
10月22日・23日例祭
4月15日太々御神楽祭

文化財関係
本殿三間社流れ造り、寛永14(1637)年造営桃山様式を伝える華麗な社殿(県重文)
以上

大和の神々
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