篠畑神社
奈良県宇陀市榛原町山辺三2235
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鳥居




祭神

天照皇大神
境内社 佐佐波多姫

社殿


由緒

 垂仁天皇の二十五年春、倭姫命が天照大神を祭祀するのに相応しい土地を求めて菟田篠幡に至り、更に遷って近江国から東美濃を廻って伊勢国に入り、伊勢神宮を創祀されたと言う話が採録されている。
 後、この頓宮の置かれた篠幡の地に天照大神を主祭神として鎮祭したのが本社の創祀である。

 『倭姫命世記』による。(「神話の森ホームから)
 大和国宇多
秋宮(宇太阿貴宮)に遷り、四年間奉斎。この時、倭国造は、采女 香刀比売(かとひめ)、地口・御田を進った。大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
 すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、「汝は誰そ」と問ふと、「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)〔一名は伊己呂比命(いころひのみこと)〕が児、宇太乃大称奈(うだのおほねな)」と申上げた。また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、天の磐戸の鑰(かぎ)を領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。

 近くの葛神社にも、当社とからんだ伝承が伝わっている。即ち、「天照大神の神霊が篠畑の地に遷られた時、御導守の神豊耜入姫命・倭姫命を篠畑の神の摂社とし葛神社てお祭りした。」とある。

佐佐波多姫社


お姿

 境内を道路が通過することになったのであろう。鳥居の方向もいささか不自然のような気がする。
 摂社の佐佐波多姫社はやさしい雰囲気を醸し出しているそうだ。

 『倭姫命世記』によると、篠畑神社の次には伊賀国隠市守宮に遷幸したとあり、名張市に鎮座する宇流冨志祢神社、鍛冶町の蛭子神社や名居神社であろうと言われている。

お祭り

例祭  10月 18日

 平成祭礼データ 篠畑神社

 参拝のしおり

 社は、宇陀郡榛原町大字山辺三に鎮座しており、天照皇大神、市杵島姫命をお祀りしている。国史現在社とし明治6年4月村社に昭和10年県社に列せられる。 創立 垂仁天皇25年春3月倭姫命、鎮座の処を求め、菟田の篠畑に至るとあり、他 類聚国史3倭姫世記、日本書記通證10、日本紀標註巻7、造伊勢二所大神宮宝基本紀、大和誌(篠畑神祠)倭漢三才図会、神器考證等古文書に篠畑の記載あり、往古は栄えしも明治24年頃氏子27にて氏神となす。秋の例祭に倭姫命に供奉せる童女に因み、稚児7人の奉仕あり、鱠(えそ)を供える事から「鱠祭り」とも言う。

以上

大和の神々
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