屑神社
奈良県宇陀郡大宇陀町嬉河原174
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二本の杉




祭神

衝立船戸神、道反之大神

鳥居


由緒

 大和伊賀紀伊にクズ神社が多く鎮座しているが、その中でも、「屑」の字が使われている貴重な神社。
 一時、クズの神々についての論考があったが、王権から見下された民人としての国巣、神武天皇の吉野山中譚に石押分の子として登場し、吉野の国巣が祖とあり、宇陀に入っている。吉野から宇陀への道筋に大宇陀町牧の
九頭神社、栗野の岩神社と繋がる神社と言えよう。

 当地は宇陀から桜井の忍坂に抜ける交通の要衝でのあり、クズの民が境の神を祀ったのであろう。祭神は御杖神社(伊勢と大和の境)と同様の境の神。

 クズ神社については、伊賀の神社は桓武天皇の時代に多く建立されたようだが、宇陀のクズ神については語られる事がすくない。創祀についても実際の所よく判らない。

 以下、、『大宇陀町史』と殆どを『大和誕生と水銀』田中八郎著を参考にして以下を記述。
 室町時代には漆河原の地名であったようだ。文禄(1592〜)の検地では漆川原と記録されている。所が『大和志』では嬉河原となっている。「漆」から「嬉」への地名の変更は、幕藩体制の下での身分差別が職能村落への辛い処遇から逃れる為であった。またその後300年、1927年7月、今度は春日神社から屑神社への神社名の改変が行われた。昔の改名は時の権力や制度の蛮力から逃れるためであったが、大正年間の神社名の改名は時の権力に立ち向かい、世の潮流に棹をさす気概が見える。社名を変えるまでは春日神社であり、摂社にクズ神がいた。それがクーデター的に国神が天神を脇に落としたのである。明治の神社合祀でクズ神は整理淘汰の対象になっていた。その嵐が収まった段階で、また大正デモクラシーの熱気の中、春日からクズへの改名であった。国への民衆の挑戦状であった。300年前の村名の改名はこの村民にとって暗い記憶であり、伏流水として受け継がれてきたのである。そこでクズ神と云えば、葛神、国津神、国栖神の字が好まれる所、あえて摂社の屑神をそのまま神社名にした不退転の決意、屈しない魂を感じる。2000年前のエウカシを追慕する気風ではあるまいか。

拝殿


お姿

 遠くから二本の大きい杉の木がいかにも神社がここだと云わんばかりに聳えている。鳥居の側の木は左右対称に育つ典型のようだ。

 大宇陀町の芝生から半坂へ向かう良い道が出来ている。それを歩いて嬉河原へ行くのだが、途中から大きい二本の杉の木の方に曲がる。やはりそこが神社。

 地名の嬉河原の嬉は漆の変化したものと云う。言い伝えに、日本武尊が宇陀の阿貴山で大猪を射たがとどめをさせなかった。そこで部下の一人が漆の木の汁を矢に塗って射ると見事しとめることができたと云う。その地を漆ヶ原と呼んだのが、嬉河原となったと云う。『和名抄』に 宇陀郡に漆部が見える。曽爾川沿い一帯に漆部が住んだと云う。



本殿


お祭り

例祭 11月 2日

大和の神々
神奈備にようこそ