春日大社

奈良市春日野町160 mapion


二の鳥居


交通案内
奈良駅東へ1500m

祭神
武甕槌命、經津主命 天兒屋根命 比賣神

摂社末社の一部
若宮神社「天押雲根命」
本宮神社「武甕槌命」
榎本神社「猿田彦大神」
水谷神社「素戔嗚命」
紀伊神社「五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命」
浮雲神社「天兒屋根命」 兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」
南宮神社「金山彦神」
鳴雷神社「天水分神」
浮雲神社天兒屋根命

南門


南門前の磐座 赤童子出現石

由緒
『延喜式』神名帳記載の春日祭神四座、春日神社、鳴雷神社、大和日向神社を包括しているしている。


春日祭神四座
 春日祭神四座とは主祭神四座で、武甕槌命は常陸の鹿島神宮より遷座、經津主命は下総の香取神宮より、天兒屋根命と比賣神は河内の枚岡神社より勧請と伝わる。式内社の表現で神社ではなく祭神となっているのは当社だけではなかろうか。何故だろう。栄華を誇った藤原氏の氏神として社殿がなかったとは思われないし、逆に特別の格式としたかったのかも。本殿の造営は神護景雲二(768)年とされる。

春日大社の本殿


春日神社
 鎮座地は春日野と呼ばれていた。おそらくは和珥氏が齋祀る神社であった春日神社が現在は榎本神社として本殿より奥の回廊内に祀られているが、この神社が地主神とされる。祭神は巨勢姫明神とされていたが、江戸時代に猿田彦明神となった。この神と春日明神との間には土地交換説話があると言う。すなわち榎本明神の領分である御蓋山と春日明神が一時的に鎮座した安倍山(桜井市安倍)を交換したと言うものである。巨勢姫明神は『日本書紀』神武即位前紀の「和珥の坂下に巨勢祝といふものありて」と帰順しなかった土賊として登場する巨勢祝と無関係ではなかろう。また、安倍山であるが桜井市大字外山に宗像神社が鎮座、「春日の宮」とよばれていたそうで、その辺りだったのか。
平城京遷都の際、藤原氏の手で春日野地域が宮古の範囲に入れられている。長安のように四角からはみ出ているにもかかわらずである。藤原氏が平城京全体の鎮守として和珥氏春日氏小野氏などの先住者に圧力をかけたのであろう。

鳴雷神社
 ナルイカヅチ。高山龍王社と呼ばれていたように春日山の龍池を祀る、すなわち水神で祈雨神である。大和(だけではないだろうが)では、水神のおわす山を龍山、龍王山と呼ぶことが多いようだ。

大和日向神社
 御蓋山山頂に鎮座する本宮神社に比定される。東に登る太陽祭祀の神社ともされる。また和珥氏=春日氏による自然信仰に由来するものとの見方もある。

 『万葉集』巻三から
四〇四 ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを
四〇五 春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし
 元々春日野は神域ではなく、若菜つむ行楽地であり、そこを藤原氏が神社を作ってしまったので、恨めしいと言うことではなかろうか。
 また、春日の社へ参詣しようとして春日野に分け入ったが、一体どこに社があるのか分からないとの話が伝わっている。これはその頃には鳥居がなかったとの傍証かと思っている。

『古今和歌集』
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三かさの山に いでし月かも
 遂に帰国することことことなか阿部仲麻呂の有名な句であり、遣唐使で派遣される者達が無事の帰国を祈ったのが春日四神であったと言うことは下記の歌でも分かる。
『万葉集』巻一九 四二四〇 大船に 真楫しじ貫き この我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち


左 兵主神社  右 南宮神社

お姿
  広大な神域であり、古代の人が迷っても不思議ではない。
 修学旅行の生徒達と鹿の合間をくぐっての参詣となった。良い森である。 回廊沿いに入るには500円を必要とする。近くで大宮や後殿御門の近くへ行くと、一層紅は映える。

 おん祭りで有名な春日若宮の北側に兵主神社と南宮神社の摂社がいびつに並ぶ。 若宮より先も森の中のいい道である。奥に紀伊神社が鎮座。 摂社としては拝殿を持つ。

若宮

 水谷神社はミズヤと読む。社域の北側の川側に鎮座、本来は磐座祭祀の水神であろうが、磐座は社殿中央の礎石の扱いでコンクリートで固められている。

水谷神社

水谷神社正面に子授け石


お祭り

 3月13日 例祭  若宮おん祭り 渡お渡式 12月17日

公式春日大社
奈良県神社一覧

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