小夫天神社
倭笠縫邑旧跡伝承地
初瀬斎宮旧跡伝承地

交通案内
桜井市小夫3147 長谷寺駅下って小夫行きバス mapfan


小夫天神社の鳥居




由緒 斎宮山鎮座 天神社略記から

倭笠縫の由緒 天神社社務所
 大和の国原より望む、厳粛なる三諸の三輪山、美わしき山の辺の光景は、古代倭の神々の鎮まり給う神山であり、東青垣の連峯は渓谷美優れ、その一円を大和日高見の国と称せられる神の郷、一説に高天原ともいわれ、高貴尊崇の天つ神の 霊地であり、聖地であります。

 隠国(隠口ともいう。)の泊瀬の地を稜線に沿って、大和川の源流地帯を大和高原に遡る、古は万葉で知られる泊瀬川で神の河、日の河とも呼ばれ、水源をなす秘境の地にして、古代大和における倭笠縫邑という伝承があります。

 往昔、神浅茅原と称せられし笠山より東方龍野、和田の山陵、小夫斎宮山、瀧倉山の鬱蒼たる原始林を隔てて、眞平、 中岳、貝ヶ平三山と相対し、秋風落莫の頃となれば、太陽は中岳より昇陽、その陽光は雄大なる上之郷を、即ち神の郷の 里々谷々を照し、置く霜を溶かして大和川の清流に黄金の波を湛える。

 貝ヶ平山は大和における峻嶺にして、厳の如く天に聳え、眞平山は梢低く項き平にして、南北より中岳を挟みその山容 さながら伊勢二兄ヶ浦の夫帰岩に似ているのであります。

 神の郷なる上之郷は伊勢の五十鈴川の上流に上之郷あり、大和川小夫の下流に釜ヶ淵があって、同名称の釜ヶ淵が五十 鈴川の上流にある如く不思議に思える。

 小夫郷は、往時、倭笠縫邑と称せられ幻の宮、泊瀬斎宮の斎王大來皇女御禊の伝承地であって、小夫天神、笠山荒神、瀧蔵権現を斎奉り来れる古代倭にして、広大なる上之郷には笠山、笠神の笠と称する地名が多く、また、笠の笠山より化粧 川、斎宮山、小夫の笠神に至る地名は諸所に「神」「宮」「ロマンに満ちた字名」数多く、悠久に神霊座します所、元伊勢発祥の地にふさわしく、遠い二千年余の古を想えば感慨無量であります。

 多くの史跡を御縁として、常世に伝承し、御神霊を拝し奉るよう希うものであります。
 (日本歴史の根源より)

小夫天神社の拝殿


神浅茅原の由來
 神浅茅原は笠山の麓なりという、笠山の東方小夫と笠との中間なる修理枝に、幸田と称する所あり、崇神天皇行幸ましまし、神祇に祈り給う、小夫天神社は天照皇大神の鎮座地なるが故に、神浅茅原なりと伝う。
 社伝古文書より

笠縫邑の地名
 上之郷の地即ち、神の郷には、古代倭の故事にふさわしい「神」「宮」「ロマン的字名」の地名が諸所にあり、列挙すれぱ次のとおりであります。小夫と修理枝の二大字の字名抜粋

 宅地の字名四十一ヶ所の内四ヶ所
 クヅカミ、宮の下、ミヤサカ、幸田

 田の字名二百十ヶ所の内十七ヶ所
 カサガミ、フエフキ、山王、サンノ、マルヲ、縫元(かせもと)、カミマエダ、ミヤハタ、ミヤサカ、神上(かんじょ)、カンジョサカ、ツヱタテ、クヅカミ、モリハタ、カワラケガハ、ニサンサイ、ケショウ川。

 畑の字名百五十八ヶ所の内十五ヶ所
 ミヤサカ、カンジョ、クヅカミ、モリバ夕、モリ、モリカミ、サンノ、ミャノニシ、宮ノ下、ミヤハタケ、ミヤノハナ、ニサンサイ、シロヤマ、幸田、神上下。

 山林の字名百三十五ヶ所の内十九ヶ所
 カンジョ、ツヱタテ、クズカミ、モリ、ミヤノシタ、カハラケガワ、カワラケダニ、サンノ、サンヲ、カサガミ、フヱフキ、マルヲ、ミヤノウエ、宮ノ西、ミヤノハナ、ニサンダイ、シロヤマ、ケショウ川、幸田。

 原野の字名五十五ヶ所ノ内六ヶ所
 モリハタ、サンノ、フヱフキ、神上、宮畑、幸田。
 (社伝古文書より)

天神杜の沿革
 当社の創建された年代は詳かでないが神道五部書に日く、第十代崇神天皇の御代に、神戸大神宮、また天神宮と唱ふるとあり、神戸は上之郷また小夫郷と、『日本地理資料』に古は笠縫邑と云へりとあって、いわゆる元伊勢の伝承地であります。

 そして、第四十代天武天皇の御代、大來皇女の泊瀬斎宮、旧跡伝承地でもあります。

 社伝に、第百六代正親町天皇の御代、『古語拾遺』に、天正五年九月二日(1577)斎宮太夫小笠兵庫と署名せる、天照大神御幸神楽歌があり、また、第九十六代後醍醐天皇の御代、本殿中門の脇に、嘉暦二年(1327)に献納されし石燈籠があります。

 第二十三代顕宗天皇の御代(485)顕宗紀に日く、「殖槻也、田中乃杜也」とあり、槻の神木があることから、由來の久しいことを知るのであります。

 神宮寺創立年代は詳かでないが、神社附属として境内に神宮寺を建て、社僧を置き、真言宗長谷寺より輪番によって常 勤し、明治三年まで守護ありし社で、同年社僧を廃せられ明治八年より神宮寺の寺号を廃せられる。

 明治三十九年四月二十八日、勅令第九十六号により、神餞幣帛料供進指定神社に列せられる。
 (神遣五部書、古語拾遺、神社明細帳、神社古文書より)

神社名
 天神社古くは天神神社といへり

鎮座地
 奈良県桜井市大字小夫字神前田3147番地
 斎宮山鎮座

社殿
 本殿 檜皮葺流造三間社相殿
 中門 檜皮葺唐波風造
 拝殿 瓦葺浜縁廻廊造

御祭神
 中殿 天照皇大神 相殿 大來皇女命
 東殿 天児屋根命(春日大神) 相殿 品陀別命(応神天皇)
 西殿 菅原道眞(天満大自在天神)

小夫天神社の本殿


祭典並に行事
 一月 一日 元旦祭
    三日 祈年祭当屋選定祭
 二月 八日 神縄掛祭
     吉日 歳祝祈願祭
   十七日 祈年祭
   二五日 天神講大月次祭
 三月二五日 大祓講祭
 六月 吉日 田植終了奉告祭
   二五日 天神講大月次祭
        例祭当屋選定祭
 七月二二日 除蛙祭、末社山王神社
         高神社例祭
 八月十六日 風鎮祭、大祓祭
           天細女命遥拝祭
 九月二五日 大祓講祭
 十月十一日 例祭御分霊御幸祭
    二十日 御供搗祭
    二二日 宵宮祭
    二三日 例祭、渡御祭
    二五日 例祭御分霊還幸祭
十二月 八日 神縄掛祭
    二三日 新嘗祭、山口祭
         神宮大麻領布祭
    二五日 天神講大月次祭
    三一日 大祓祭、除夜祭
 (社伝古文書より)

境内末社
 
神社 高神(祈雨の神なり)

 山王神社 素盞嗚尊(疫病退散の神なり)

 大峯行者菩薩社 霊山大峯開山の役行者(龍、水分の神なり)

小夫天神社の摂社 左 山王神社 中 大峯行者菩薩社 右 高神社(九龍神社)


 

社伝 倭笠縫邑の旧跡伝承
 倭笠縫邑に天照皇大神宮御鎮座は、第十代崇神天皇六年己巳秋九月二十三日神人分離の一大変革を起し、報本反始の至情を顕現せしめ、皇女豊鍬入姫命をして、皇祖を奉斎し給うた最初の霊跡なり。

泊瀬斎宮の旧跡伝承
  抑(そもそも)当社敷地は泊瀬斎宮の跡にして、第四十代天武天皇白鳳二年夏四月丙辰己巳大來皇女をして待らしめ、宮を斎宮となし身を清め、皇祖天照皇大神を祀らせ給へり、これ即ち、大來皇女化粧川御禊の旧跡であり、泊瀬斎宮の旧跡なりと伝う。
 天武天皇三年(六七四)十月九日に「大來皇女、自泊瀬斎宮向伊勢神宮」と『日本書紀』に記されている。
 (古事記、日本書紀、倭姫命世記より)

大來皇女命のご事績
  大來皇女命は、天武天皇の皇女にして御父天武天皇御名は大海人皇子と申し、天智天皇の同母弟であり、幼き頃より聡明におはしまして、天智天皇の元年に東宮の位に就き給いしも、同年四月に病身の故をもって皇太子を辞し給い、出家して陛下のために功徳を修めんと、大和の吉野に入り給う。
 後に飛鳥浄御原の宮におはしまして帝位に即き給う、縦いて年号を白鳳と改め給い、深く神佛を崇敬いたさせ給へり、されば此の年の四月に大來皇女を天照皇大神の宮に待らしめんと、泊瀬斎宮に居らしめ斎宮となし給う。
 大來皇女は壬申の乱に勝利した、父天武天皇の命により、その即位二ヶ月後天照皇大神宮に奉仕する斎王に任ぜられ、十三才の御身で大和の泊瀬の斎宮に入らしめ給い、一年半に及ぷ潔斎を行なわれ青垣巡る神浅茅原の美わしい化粧川の地その昔、天然地磐岩なる渓流にして、修理枝川の化粧壷にて御禊されし、十三才の皇女乙姫のお姿を瞼に想いめぐらすと き、諸条件による難行、苦行の神業に堪えられ、斎王の任務を果されしを偲び奉るのであリます。
 (日本書紀、社伝古文書より)

 昭和六十一年は、天武天皇崩御千三百年であった。
 既往千三百年前の秋、斎王として伊勢に下向して十三年間、伊勢の斎宮に在りし大來皇女は、父天武天皇の詐報と弟大津皇子刑死の報に悲しみ、斎宮をあとに退下帰京し給う。
 往時の歌に次の一首があります。

 神風の伊勢の国にも有らましを何しか来けむ君も有らなくに (万葉集巻二-一六三)

 また、皇位継承の相剋により早世した、弟大津皇子への哀惜の念を詠じた、姉大來皇女として次の一首があります。

 うつそみの人にある吾や、あすよりは二上山を弟と吾が見む (万葉集巻二-一六五一)

 これらのことを以て、御祭神で在らせ給う大來皇女を偲ぴ奉る崇敬者、全国よりご参拝戴く所以であります。
 (大美和第七十三号より)

境内木槻(けやき)の大樹の由來 口碑
   第二十三代顕宗天皇の御代、顕宗紀に「殖槻也田中乃杜也」とあり、社務所のある辺は、古來から神前田と称し、恰も、 田中の杜なり、殖槻なりとあるに符合しいわゆる磐境としての神木であります。
 (顕宗紀、社伝占文書より)

 平成元年五月三日奈良県風致保全課の巨樹巨木調査で県内の巨木四十九種類千六百十九本のうち第二番目に大きい樹木 とされ、欅では第一番で樹齢千五百年幹周十一米であります。

木槻(けやき)の大樹


 

小夫郷の由來
 小夫は、旧上之郷十一ヶ大字村落の北部にあって、郷土誌によれば小夫は多部(おおぶ)から出た名だといわれ、意冨(多)といい神八井耳命(綴靖天皇の御兄)の子孫である多氏の一族が、今の小夫地方に移住し多部が小夫となったという。
 いわゆる「小夫は多部にして神八井耳命の苗蕎」と『聞書覚書』にあり、また『西大寺田園目録』には「ここに小夫郷があって笠、龍野、和田、滝倉、小夫の五村をいう」とある。
 『日本地理志料』によると、この同じ五村(現在は大字)を「古へは笠縫邑と云へり」とあり、天神社は元伊勢の伝承があってこの山間の一帯は笠縫邑の伝承地であると同時に、多氏の居住地であったといわれている。
 (桜井市文化叢書郷土より)

化粧川と化粧壷の由来
 大字修理枝に字化粧川あり、修理枝川の上流にあって、古は田地なくして広々とした天然地磐岩で、川の中央に凹んだ溜あり、実に清浄なる所で、年経ると共に田地が延びて川幅狭くなり、化粧壷という岩のみ現われる。
 この水源は小夫山中より流れ出て、修理枝を経て更に小夫と笠との境を通じて大和川(泊瀬川)に合流する。
 上古、天照皇大神宮に奉仕された、豊鍬入姫命の御化粧ありし所、又大來皇女命御禊の旧跡と云う。
 (社伝古文書より)

笛吹大明神の由來
 笛吹山の礎に笛吹淵あり、又天磐淵ともいう、谷川に架れる橋を天の磐橋という、又笛吹橋ともいう、この辺りの山を磐舟といい、大古、笛吹大明神天香久山の竹を採りて笛を造り、笛吹鳴して天照大御神へ神楽の舞を献りて御祭されし所なりと伝う。
 天照皇大神宮御遷座のとき、御先導神である猿田彦神の遺跡とも伝う。
 (古事記、神道五部書、社伝古文書より)

笛吹大明神


 

大和の神々
神奈備にようこそ