和爾下神社(わにした)
上治道天王神社

天理市櫟本町櫟本字宮山2490 its-mo


樹林の中の二の鳥居


交通案内
JR櫟本駅 東へ800m


祭神
素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命

明治四年の櫟本の祠官の報告では天足彦押人命。彦姥津名、彦国葺命


由緒
 『延喜式』神名帳の大和国添上郡に、「和爾坐赤坂比古神社」と「和爾下神社二座」が記載されている。
 和爾下神社は天理市櫟本町宮山と大和郡山市横田に鎮座している。 二つの和爾下神社は、東西線上に走る竜田道(治道)沿いに2.5kmほどの距離で鎮座している。
 櫟本町の神社を上治道天王、横田町の神社を下治道天王という。
 櫟本町の和爾下神社の境内には柿本寺跡があり、その跡からは奈良時代の古瓦が出土、円型礎石四基が現在も散在している。 柿本寺は、櫟本町の和爾下神社の神宮寺であろう。
 横田町の神社の祀官は、幕末まで市井氏であった。市井は櫟井である。『日本書紀』は、櫟井臣について、春日臣・柿本臣と同祖と書く。
 和爾下神社の「下」は、上社があっての「下」で、櫟本町の和爾下神杜の北東1kmキロほどに、和爾坐赤坂比古神社が鎮座する。これが上杜であろう。

 和爾坐赤坂比古神社の赤坂と備前赤坂郡の赤坂の関連、石上神宮と石上布都之魂神社の関連からみて、ワニ氏は採鉱、 金属精練と無関係とは思えない。

本殿 手前は拝殿


 山尾幸久氏は『日本古代王権形成史論.の中の注で次のように記している。「ワニという日本語はもともと、朝鮮語サヒに対応する意味(刀)を持つ。ワニという日本語は、爬虫類の鰐を意味する南島語系統の古いことばらしいが、『記紀』や『風土記』の神話伝承に見えるワニは、海の支配者と恐れられていた。鋭利な牙歯を持つ神怪であるか(中略)、または魚類の鮫そのものである。「紐小刀」を持つ海の「佐比持神」が「和邇魚」であり(神代記)、「剣」を抜いて入水した稲飯命が「鋤持神」と化したというのも(神武紀)、「鰐」(神代紀)のことである。これらは魚類の鮫を指すと見られるが、畏怖の念による神格化が認められる。稲羽の素兎のワニや『出雲国風土記』のワニは鮫そのものである。
 そして、ワニがサメになるうえでの「借用語」は「佐比」だと説く。このようにワニという日本語はもともと、朝鮮語サヒに対応する意味(刀)を持っていたのであり、それゆえサヒから生じたことばサメにも対応したのであろう。
 そうすれば族称のワニは、鰐や鮫のトーテムとして理解しなくても、鍛冶師という社会的職能で解釈しうることになる。と書き、「族称ワニが鍛冶の職能にちなむ」名であることから、「二世紀後半ごろ、北部九州とは別のルートすなわち 裏日本から畿内中枢地域に進出してきた、太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団が、のちの和邇氏などではなかったと推測している。山尾氏は以上



尊敬する古代史の先輩野田昌夫さんの「ワニ考」を野田さんの許可を得て掲載します。 古代のワニについての決定的な統一理論です。是非、お読みください。

『古代史の海 69号 2012.9』 「ワニ考」野田昌夫氏

『古代史の海 70号 2012.12』 「ワニ考追補」野田昌夫氏


お姿
  古代の官道である「上ツ道」と龍田から伊賀へのびる横田道(治道:はるみち)の交差点で要衝に鎮座する。 東大寺山古墳の西端の大きい社叢になかに鎮座、鬱蒼たる樹林の中の急で長い石段を昇ると、比較的小振りな姿で鎮座する。

国指定重文の本殿、三間社流造・向拝付・檜皮葺 桃山期の建立


 「影媛あわれ」の説明板がある。
 石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さえ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛あわれ

 『日本書紀:武烈天皇即位前紀』にある。影媛は平群鮪の恋人、媛に横恋慕した太子(後の武烈天皇)により、大伴金村の軍により乃楽山で殺された。これを悲しみ、布留から乃楽山へ行き、弔いをした。この櫟本の地は山辺の道と都祁山道との衢にあたり、政治、軍事、文化の要衝であった。

お祭り

 例祭  10月13日

平成祭礼データ 和爾下神社由緒
櫟本の治道山、字宮山に鎮座し、素盞嗚尊(中)と大己貴命(一名大国主神)(左) と稲田姫命(右)の三柱を祭神としている。 今より1070余年前に藤原時平等が醍醐天皇に献上した延喜式神名帳に「和爾下神 社二座」とある。大和志(享保21年関祖衡編)には「和爾下神社二座、一座ハ櫟本 村ニ在リ曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ横田村ニ在リ曰ク 下治道天王ト号シ、近隣十一村共ニ祭祀ニ預ル。」とあり、また大和名所図会(寛政 3年秋里籬島輯)にも「和爾下神社二座、横田村と櫟本村とにあり、治道天王と称す 、神名帳に出」とある。新撰姓氏録考證(栗田寛著)には「奈良朝神社注進状に據れ ば和爾下神社の神官は櫟井氏にして祭神は天帯彦国押人命、日本帯彦国押人命の二座 なり」とある。共に櫟井臣・和珥臣の祖神であり、明治初年に和爾下神社祠官辰巳筑 前の其筋へ差出した記録には旧祭神として「本社、天足彦国押人命・彦姥津命・彦国 葺命・若宮難波根子武振熊命」とある。新撰姓氏録によれば「櫟井臣、和爾部同祖、 彦姥津命(孝昭天皇皇子天足彦国押人命の後なり。)柿本朝臣、天足彦国押人命の後 なり。和爾部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり。」とある。
しかるに時代移り現在の祭神は神社明細帳に本社大己貴命(一名大国主命)素盞嗚命 ・稲田姫命をまつり秋祭は10月14日、若宮は事代主命とある。素盞嗚命、即ち牛 頭天王として崇め7月14日を祇園祭として賑わうのである。
東大寺要録には神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に灌漑すべく高橋山から流れ る水を引くために高橋川の水路を櫟本の東部から南へ流れていたのを北へ移動し西流 するよう河川の造り替えをし道路をも改修した。12月10日に工事を初め翌4年4 月1日に竣工してこの森を治道の杜といい神社を治道宮といった。寿永2年(118 3)藤原清輔の弟顕昭(太秦寺住職)が著わした柿本朝臣人麻呂勘文には「添の郡石 上寺の傍に祠有り治道社と号す、祠の辺の寺柿本寺と号す。是人麻呂建つる所なり。 祠の前の小塚人麿の墓と名づく、清輔往て之れを観る所謂柿本寺の礎石僅に存す人麻 呂の墓高さ4尺許り、因て卒都婆を建る云云」とある。今から780余年前に「治道 社」の名が見える。治道山柿本寺跡からは白鳳時代の古瓦が出土している。
和爾下神社の石燈籠にも「治道宮天王」(元和元年銘)とあり、鳥居の古額にも「治 道宮、黄檗南源」とあった。現今のは文秀女王の御染筆で「和爾下神社、大和式部」 とある。
大友文書によれば建武4年(1337)6月26日南都警固の狭間正供・出羽泰貞等 が天王山(治道社)と柿本寺に陣取って南朝軍と戦うこと3日、南軍敗れて遂に櫟本 は北軍の領となった。時に北軍に櫟本春徳丸の名が見える。秋祭渡御の御神刀の鞘に 朱字で「奉寄進牛頭天王御宝前(貞享元年)」とある。
本殿は3間社、流れ造り桧皮葺き1間向拝づき、桃山時代の特色のある極彩色の優美 な建築である。昭和13年7月13日附で国宝建造物に指定され現在は重要文化財で ある。古記録によると慶長年中(1596−1614)の本殿改造以来、屋根替葺は 寛永・寛文・明暦・元禄・宝永・享保・寛保・宝暦・明和・安永・文政・天保・明治 20年・昭和13年・同46年の15回が記録されている。天保13年度の本殿屋根 替代は銀1貫66匁・9月晦日より日数48日、11月17日上遷宮とある。明治2 7年11月に若宮拝殿が建ち同29年4月13日に本社拝殿が落成している。昭和4 6年10月本社屋根替と拝殿改築、社務所の新築が行われた。
昔は細男座・田楽座・御輿座の3つの宮座があった。各々の頭屋では10月12日御 供つきがあり14日には各頭屋から素襖を着た騎馬の御幣頭人、青竹をついた羽織袴 の警固は荷前・騎馬姿の甲冑を従えてお仮屋の陣屋へ入り渡御の時には神輿のあとか らついて1キロ西の二つ鳥居のお旅所まで渡ったのであるが昭和19年から全く簡略 になったのである。


神奈備奈良県神社一覧
神奈備にようこそ