天満神社

桜井市吉隠1373 its-mo

鳥居


交通案内
長谷寺駅前から榛原方面へ40分で吉隠 北へ1km、東の竹藪の裏



祭神
菅原道真公

拝殿


由緒
 当社の勧請年代は詳かでない。
 菅公薨去、全国各地で雷の震災あり、世にこれを菅公の祟りなりとして恐れ、各所に社を建て避雷を祈ったとあるを見れば、当社も或はこれを以て祀られた所以とも考えられる。
 当地は昔より長谷八郷の一にして、長谷寺の旧領地である瀧蔵神社の郷であって長谷寺に倣い、その時代において震雷を恐れ、初瀬與喜天満宮の御分霊として崇拝したその證として昔より與喜天満神社の大祭に関係があるように、與喜天満神社の分霊を勧請したものと思われる。
 当地は伊賀、伊勢に通ずる街道であり、光仁天皇の准母紀橡姫がこの地に隠遁され、遂に崩御された。 四方山に囲まれ、まことによき隠れ場所であると申されてから、従来の呼称を吉隠と改称したのだといわれている。

本殿





お姿
 吉隠東谷の中腹に位置し、氏子数は概ね三十五戸。
 吉隠の地は、東西に吉隠川を隔て山が迫り山峡に漸高の地形をなし、古から知られた所で、『日本書紀』に持統天皇即位十年の条に、莵田の吉隠松が下に行幸し給ひしことが見え、当地は由緒ある所として知られる。
 『大和志料』『万葉集』に見える吉隠山、猪飼の岡や浪柴野にまつわる、天武天皇の皇女但馬皇女は穂積皇子に高市皇子の宮に在りながら思慕の情をよせられ、穂積皇子も自分の兄の高市皇子の妻である但馬皇女との道ならぬ哀しい恋を、その皇女の亡きあとも心が冷たくなるような思いで偲ばれし旧跡として有名である。 昔は、この地は栄え人馬の休息や交替させる場所であったといわれている。

 『万葉集』巻二−二〇三 穂積皇子
 降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養(いかい)の岡の寒からまくに

『万葉集』巻一〇−二一九〇
 わが門の浅茅(あさぢ)色づく 吉隠の浪柴の野の 黄葉(もみじ)散るらし

『万葉集』巻一〇−二二〇七
 我が宿の浅茅(あさぢ)色づく 吉隠の夏見(なつみ)の上に 時雨(しぐれ)降るらむ

『桜井市史』から
 境内には杉の巨木がたくさんあって、目通り四・五八mものが一番太く、四・四m、四・三m、三・八二m、それに三mのもの三本、計七本の老杉が神殿をかこんでいる。その他の植物の主なものとしては、アオキ、白樫、アラカシが多く、ナナミノキ、ヤブムラサキ、藤、榊、ヒサカキ、カナメモチ(アカメモチ)、檜、漆、榎、ハナイカダ、ソヨゴ、タマツバキ、イロハモミジ、サワフタギ、イタビカズラなどがある。なおツクバネガシなどの珍しい植物もある。(「」)

境内風景


お祭り

例祭   10月10日

参考:『平成祭礼データCD』 『桜井市史』

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