金峯神社(きんぷ)

吉野郡吉野町吉野山1651



二の鳥居と拝殿



交通案内
吉野水分神社から高城山を越えて30分
高城山の山頂からの展望は、大和国中、三輪山、金剛葛城山系からさらに河内平野まで見渡せる。東は高見山、国見山等三重県との境までよく見える。国を見て支配する気分がよくわかる。



祭神
金山毘古神、金山姫神

 古事記によれば、伊耶那美命が火の迦具土の神を生んだ時、御陰を焼かれて病気になった時の嘔吐でできた神として登場する。古代製鉄のイメージをありありと示している神である。



由緒
 神奈備である青ヶ峰から東西南北に音無川、秋野川、丹生川、象川が流れ出しているが、この青ヶ峰に水分峯神が祀られており、この神が三社に分遷された内の奥に鎮座した神社と云うことになる。
 地元では「きんぶ神社」、「金精明神」、「愛染の宮」と呼んでいる。大きく発展したのは修験道の盛んになった平安時代以降であり、この頃、近畿の七高山として、近江の比良山、比叡山、美濃の伊吹山、山城の愛宕山、摂津の神峯山、大和の金峯山・葛木山が選ばれている。
 金峯山とは当社の南側の青ヶ峰に当たるのだろう。 この山は宮滝から見ると三角形の形で一目で判る神奈備山であった。 宮滝からは先史時代の遺跡が発掘され、熊野の石器等が出ているようで、はるか太古から熊野との結びつきがある。 祖先は熊野からやってきた、その記憶が大峰修験や熊野への奥駈けへと人々を導いたのではなかろうか。

 『記紀』の伊波礼比古の順峯(熊野から吉野へ:天台修験の道)も、その荒唐無稽さの前に、かくあらねばならぬ、との想いが込められた物語ではなかろうか。

 『古事記』東征と八咫烏の条
吉野河の河尻(カハジリ)に到りましし時、筌(ウヘ)を作りて魚(ウヲ)を取る人あり。ここに天つ神の御子、「汝(イマシ)は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(ア)は国つ神、名は贄持之子(ニヘモツノコ)と謂(イ)ふ」と答へ白(マヲ)しき。こは阿陀(アダ)の鵜養(ウカヒ)の祖(オヤ)なり。
そこより幸行(イデマ)せば尾(ヲ)生(オ)ひたる人、井より出(イ)で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝(イマシ)は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(ア)は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂(イ)ふ」と答へ白(マヲ)しき。こは吉野首(ヨシノノオビト)等(ラ)の祖(オヤ)なり。即ちその山に入りたまへば、また尾(ヲ)生(オ)ひたる人に遇(ア)ひたまひき。この人、巌(イハホ)を押し分けて出(イ)で来たりき。ここに「汝(イマシ)は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(ア)は国つ神、名は石押分之子(イハオシワクノコ)と謂(イ)ふ。今、天つ神の御子幸行(イデマ)すと聞きし故、参(マヰ)向(ムカ)へつるのみ」と答へ白しき。こは吉野の国巣(クズ)の祖(オヤ)なり。

 この物語であるが、鉱産物おそらく抗口を開けて金属を掘る人々の存在を示しているとの解釈もある。 しかし、もう一つ素直に読めば川下から河上への川の流れの描写と読めないだろうか。 川下では流れもそこそこで鵜養の風景、その上流は岩が多く、水が岩の間をくぐって流れている様、更に上流はまた一転静かなさざ波で水がキラキラと日の光を跳ね返してながれている様、吉野川流域の人々の穏やかな生活ぶりが伺えるように思える。金属採取でもしているのなら、ここで一戦交えても不思議ではないのではと思われる。

 吉野の神々は基本的には原住民の斎祀っていた神々である。いわゆる国津神である。 天孫族はその上に天津神をかぶせながら、本音の所で国津神の庇護を受けようとしている。

本殿




 

お姿
  金峯神社の鳥居は、勝手神社の下の銅の鳥居を発心門とするに次いで修行門で、気抜けの行を行い、空の境地に入る準備を行う。
 日本最古の神社との説明書きがあったが、その様な雰囲気を感じさせる佇まいである。
 社務所は焼失している。

一の鳥居



お祭り
 例祭 10月17日 吉野全山の祭日

金峯神社  平成祭礼データから
 金峯神社御神徳畧記

 よしのやま花のさかりは限りなし青葉の奥もなおさかりにて
 上千本のさくらのしげみをくぐって水分の社から爪先上りの道を登ること約一粁余 で、金峯神社に着く。 松林の急坂を登りつめたところ、眼下に拡がる台地は一面に さくらの青葉につつまれ、その正面奥の木の間がくれに拝殿、左に社務所が見える。
 近年開通した下の千本ケーブル終点から定期バスやタクシーを利用すると、約二十 分で金峯神社下か社前に着くことができる。
 春もいよいよ深まって、おちこちの花だよりも絶えるころ、この社前に名残りの花 を惜しむによく、やわらかくもえでたさくらの若葉に、たけなわの春の気を一ぱいに 味わうのもよい。
 夏は標高八百米のここの土地から、涼しい深山の霊気に触れながらうぐいすの音が 聞ける。ここの風情は格別である。殊に社の森一面を埋めた秋の紅葉や、ずっしりと 降りつんだ雪の深山道を通り抜けて、この神前や隠塔に七百年の昔にかえって九郎義 経の心情を偲ぶのも感また一しおである。

一、祭神 金山毘古神
 古事記によると、伊邪那岐神が火の神、迦具土神を生まれたとき「みほとやかえて 病み臥せり、たぐりに生りませる神の御名は金山毘古神、次に金山毘売神」と記され 、日本記には、一書に曰くとして「伊弉冊尊火神軻遇突智を生まむとしたまう時に悶 熱懊悩、咽ぐたりて吐したまう此れ神と化為りましつ、名を金山彦という」とでてい る。悶熱懊悩とは、枯れ悩むという意味で、昔からこの神を生物の枯死を防ぐ神とし て崇敬された外、金峯総領の地主神として金鉱の山を掌る黄金の神として祀られてき た。

二、沿革
 創立年代は不明。林道春の神社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇 の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」とあるが、詳かでない。吉野八 社明神の随一として、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼるのでなかろうか。
 延喜式神名帳には、吉野郡十座の神社の中に吉野山口神社・吉野水分神社とともに 連ね、三社とも大社に列せられて祈年祭はもとより月次、新嘗の二大祭には官祭を受 けて案上官幣に預るとあり、金峯神社はさらに明神大社に列せられて相嘗祭には優遇 されている。朝廷の崇敬あつく、文徳天皇の仁寿二年十一月特に従三位を、清和天皇 の貞観元年正月二十七日に正三位を、さらに後醍醐天皇は延元二年正月に正二位を加 えられている。

 1.虫害排除の神としての金山毘古神
 すでに述べたように、元々金山毘古神は生物の枯死を防ぐ神である。古代人には、 高山への信仰があり、大和では金峯山を葛城山とともに七高山の一つとして教えられ た。金峯山とは、吉野河岸の吉野山から山上ヶ岳にいたる一連の山々の総称であるが 、昔から清浄せんような高山として尊ばれ、度々陰陽道の祭場に選ばれた。高山とい うのはただ単に高い山というだけでなく、俗塵の少ない清浄の地として、さらに神霊 の降臨された神聖な山としてたたえられた。三代実録を見ると、中国の前漢で害虫の ため五穀不作の時に被害のあった州や県内の清浄な処を選んで、害虫を壤う祭典を陰 陽寮に命じて行わせたといういわゆる薫仲舒の祭法にならって、清和天皇が貞観元年 八月三日と同五年二月一日に勅使や陰陽博士に命じて大和国吉野郡高山で虫害を解き 壤う祭事を行ったとでているが、この神社で行ったものである。現にこの神社を中心 に、社のすぐ東北方の陰塔付近や南西の愛染宝塔など、一帯に残る広大な屋敷跡は、 平安朝期に数多の寺院堂塔が建立されて都の人々の高山信仰の中枢地として尊崇され た清浄な霊域として栄えていた往事を偲ぶに十分である。

 2.金峯山の地主神としての金山毘古神
 金峯の神は一名金精明神とも呼ばれ、金峯山一連の峯々の地主神として、金鉱を守 護して黄金を司る神であった。金峯山については金鉱のある山として、鉱脈の存在を 意味する宝の山として早くから世人に知られていた。奈良朝ごろは風土記的思想が流 布されて、天然資源開発への関心が強く、鉱産物の発見や発掘が進み、金属文化の結 実期だっただけに、精神的なあこがれの地として金峯山を弥勒の浄土と見たてられた こととも関連して、この山が若しかしたら金鉱の出る山でなかろうかとの半ば希望的 推測がいつの間にか事実であるかのように、宣伝されて、「金の峯」となり「金の御 嶽」となってきた。
 例えば、権記長保三年四月二十四日の条に「早朝惟弘来り伝う、昨夜予金峯山に請 い金帯金剣を得、吉想なり」とあり、拾芥抄には「金峯山は皆黄金なり。慈尊出生の 時閣浮堤の地にのべ敷なんとて蔵王権現のまもらせたまうなり」との記事がある。元 亨釈書塵裏抄にも、聖武天皇が大仏鋳造のために箔を求められた時、金峯山が金山だ から良弁僧正に命じて蔵王権現に申請させられた処、夢に「わが山の金は慈尊出現の 時、大地に布くためのものだからと拒否され、さるかわり近江国志賀の郡水海の岸の 南に一つの山があって大聖垂迹の地があるからそこへいって祈るようにとの告げがあ った。そこで良弁は石山に草庵を構えて祈誓したところ、果せるかな天平二十一年三 月、陸奥国から砂金が発見されて官庫に納めることができたので、天平に感宝の二字 を加えて天平感宝二十一年といった由が記さている。
 宇治拾遺物語には、七条の薄打がこの山に登って金をとり「この金とれば、雷、地 震、雨降りなどして少しもとるものがなかったというが、何のこともないではないか 、今後もこの金をとって生活費にあてよう」うれしさの余り、はかりかけて見ると十 八両あった。これを箔に打つと七八千枚になったので、誰かまとめて買ってくれる人 がないだろうかと思っていた矢先、検非違使が東寺の仏を造るために金を集めている ことを聞いて大喜びで買ってもらおうとしたところ、件の金箔にはすべて細字で「金 御嶽」と書かれていた。検非違使からこのことを知らされた別当は、驚いてその金箔 を悉く金峯山に返還し、薄打を七条川原にはりつけ刑に処し、獄に入れたが十日余で 死んだと書かれている。

三、建物と付近の模様
 拝殿の前に張られたあざやかなしめ縄の向う側に、またしても生いしげった熊笹に かくれそうな高い苔むした石段が見える。その頂上奥まったところが金峯の守護神の 存す神殿のはずだが見えない。
 山腹の拝殿は桁行三間、梁間二間、其の昔暴風雨のため倒れたので、旧吉野神宮に あった拝殿を移建された。                          
 神域は三三〇〇坪で社頭もかなり広い。社務所の左の釘抜門をくぐって下 ると蹴抜の塔がある。此の塔の由来は今より壱千三百年前大峯山と云い又山上岳とも 云う。山を開かれた役小角、即、役行者と云う僧が山を開く迄に塔の場所で三ヶ年間 修業をなして後に開かれた事に成って居る。其の後弟子の僧が出て、師匠の徳を偲ぶ 為に一基を建立して、今後大峯山へ登る修験者は必ず皆師匠と同じ様に修業して登る 様にと、昔から伝わって現在に及んだので有る。元弘当時、付近の宝塔院が大塔宮の 本陣となって居たが焼け失せた時にも兵火を免れて付近の堂塔中ただ一基残された鎌 倉時代優秀な建造物として国宝に指定されていたが明治二十九年惜しくも堂守の失過 で焼失し、大正の初年再建されたものが今の建物である。文治年間、源義経が弁慶外 家来などがこの塔内に隠れて一時難を免れたと云う。其の義経隠塔の名がある。又義 経が塔を出る時屋根を蹴破て逃たから蹴破り塔と云う。義経が隠れ塔は三重の塔で有 ったとの事である。白衣の神官に招かれて塔に入り「吉野なるみやまの奥の隠塔、本 来空のすみかなりけり。オンアビラウンケンソワカ。なむ高祖神変大菩薩」と呪文を 唱へながら、まっ暗な狭い堂内を廻る。突然ガンガンガンとひびく鐘の音に魂が沈ま るというので、ここを鎮魂道場といって、修験者の行場として現在も続て行って居る 。寛弘四年藤原道長の埋蔵した経筒について、一説では本社東北の山麓から元緑四年 に堀り出されたともいうが、真偽の程は明らかでない。前に記したように、当時のこ の神域の清浄さなどから見ても、なるほどとうなずける点もないではないが、今直ち にそうだとの断定は無理である。若しこれが真実であれば、現に東京国立博物館出陣 中の経筒が山上岳の経塚から発掘されたとの従来の説がくつがえされ、道長の金峯修 業はこの御社を中心として付近の霊域で行われたことにある。
 神社から西行庵まで約六百余り、時間して往復三十分かかる、社前の右の道を登っ て右に折れしばらくして左に下ると、とくとくとくの苔清水を経て西行庵に至る。
 社前から道を左にとって登ると道の右側に屋敷跡がながめらる。ここが愛染宝塔院 跡で東西五百米。南北八百米。平安朝以来繁盛をきわめた愛染堂、安祥寺、蔵王堂、多宝塔、四方正面堂鐘桜山七社熊野三社伊勢多賀荒神弁天八幡社等が櫛比していた、 いわゆる吉野の奥の院跡である。文字通り峯高うして谷深く、水清らかな一大別天地 で、往年金峯山上に修行する人は、先ずここに籠居して精進潔斉するのが例であった 。山上に入峯しない修行者は概ねここで練行するのが習わしであった。

四、祭儀
 本社の秋の御例祭は、ごく最近まで毎年十月十五、六日両日行われていたが宮の秋 祭が即ち吉野山氏神で秋祭として行われて居る。現在は十月十六、七日両日に渡て行 われる 十六日午前中に宮から氏子が御神霊を唐びつにて奉じ先ず水分神社に渡遷。 それより水分神社の神輿に移し午後一時頃より天滿神社境内にある御旅所の仮宮に奉 遷して夜宵宮祭を行われて十七日本祭を行われて午後前日と同じく氏子にかつがれて 本宮に遷御される。
 深き山にすみける月を見ざりせば思い出もなき我が身ならまし(西行)
 高根より程もはるかの谷うけてたちつづきたる花のしらくも(本居宣長)
祭日 一月一日・新年祭、十月十七日・御例祭、二月二十一日・祈年祭、十月二十三日・新 嘗祭、毎月一日十五日・月次祭、十二月三十一日・除夜祭

参考 『日本の神々4』『大和紀伊寺院神社大事典』『吉野ー悠久の風景』

吉野町の神々

大和の神々
神奈備にようこそ