大蔵神社

吉野郡吉野町南国栖343 its-mo


社殿


交通案内
近鉄吉野線大和上市からバス 深山下車 ほんの少し戻って民家の左側の山道をまっぐ登る。衣笠山南面中腹に鎮座。


祭神
鹿葦津比賣命、大倉姫命、石穗押別命



由緒
 式内川上鹿塩神社の論社とされる。『記紀』に見える国樔部の本貫の地に鎮座。 この地の人々の宮中での国樔奏は相当の意味があったようで、これで課役を免ぜられていたと云う。 クズの民と国中の王権とがよしみを結んだのは、応神天皇の吉野宮行幸の際の醴酒と歌舞の献上に始まると『日本書紀』には記されている。歴史上では大海人皇子(天武天皇)が吉野へ退避したように、野党的な雰囲気が残っていたのだろう。
 結果的によしみが結ばれたのである。


本殿 桁行三間、梁間一間 切妻造檜皮葺

 神社内に小泉水庭跡がある。室町期のものと云う。「泉」は「セン」であり、当神社はクズの民とサンカとの接点ではなかっただろうか。

  クズとサンカについては、田中勝也著『サンカ研究』によれば以下のような話が採録されている。 閼伽出甕 論考集から
 仁徳帝四年三月二十一日、天下不作で、百姓の課役免除があった時、摂津、大和の箕作りが山幸の葛(クズ)の粉と、葛の糸(かたびらを織る)を、箕に八百盛(ヤオモリ)して、時の大臣武内宿禰(タケウチノスクネ)を通じて献上した。この時、灘波の高津宮は、鉋(カンナ)もかけない原木の掘立小屋で、屋根の葺茅は茅尻りも切り揃えない粗末なものだったので、天皇は喜んで「八百盛(ヤホモリ)の山幸(ヤマサチ)かも」と言葉をかけた。その結果、摂津、山城、河内、和泉、大和の箕作りを称して「八百盛(ヤオモリ)」と呼ぶようになり、サンカの中でも名門となった。
 同じ時、天皇は「山幸のクズかも」といったので、それを献じた摂津、河内、和泉、大和の箕作りは「大和のクズ」と名のるようになった。また、苧葛(オカズラ)そのものまで、クズと呼ぶようになった。サンカの中の「ヤマトのクズ」姓の起こりである、という。

 仁徳帝十一年十月、灘波の堀江をうがった時、国栖部を立てて、この工事用の箕と笊(ザル)を製造させた。そして、一日に箕千枚、笊五千枚が消費された。
 引用終わり


奧宮のような威厳のある祠 この上の斜面に磐座らしい岩。


 庭園説明板から
 
庭園は高さ1mの吉野渓谷産の巨石を中心としてつながった二つの池を配している。本来これらの池は、泉から引かれた導水路による流水施設となっていたらしく、大泉水庭園とされる遺稿である。
 池割や石組の様式は、近畿地方では僻遠地に残る地方武士居館跡の庭園跡に類例があり、滋賀県高島郡朽木村旧秀隣寺、三重県一志郡美杉村北畠神社の泉水の形状などに類似している。たま、日本庭園としては珍しい標高300メートルの高所に位置し、吉野川上流の渓谷と、その対岸の高峰を借景にしている。これらの特色から、その創造年代は室町時代中期を下らないと考えられている。
 近世においても補修工事が全く認められず、日本庭園史上からも尊重すべきものである。
   平成七年三月  奈良県教育委員会


小泉水庭跡


お姿
 神域の南西150m程の斜面に巨岩があり、石押別命の住居跡との伝承がある。


巨石 高さ10mを越える。

 神社から南国栖方面へ下る林道があり、途中にも岩が目立つ。林道からバス道に出るところには来門山不動明王の入り口がある。

 鎮座地は高地だが案外平地が多く水も出たようである。初期の稲作などが行われたのであろう。 いつの頃か不明だが、大変な不作となり、食べるものがなくなり、住民の殆どが餓死したと云う。 かろうじて生き残った人々は大蔵を降りて南国栖に移り住んだ。草分け六軒と云う。 大和では(多分どこでも)先ず稲作人が住み着いたのは山中の平地だったようだ。灌漑と云うほどの工事がなくとも水のコントロ−ルは容易だった。 当神社付近は飢え死にした村人を供養するのか、大岩の付近に古墓が見えた。


餓死者を弔った岩?


お祭り
例祭  9月 1日

『平成祭礼データ』
 吉野町の東南端、川上村に通ずる衣笠山の南斜面に鎮座する旧指定村社で、国栖郷一円の鎮守であった。祭神は大倉比売命・鹿韋津比較売命・石穂別命。創祀不明。
 『大和志』に川上鹿塩神社として「在= 樫尾東川南国栖三村之交界- 今称= 大蔵明神- 国栖荘七村民家相共預= 祭祀- 」とあったことで式内川上鹿塩神社とされた時代もあった。
 本殿に接して、神宮寺の寺屋敷や庭園などがある。東川村・南国栖村の氏神であったが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となった。数十年前までは東川と南国栖が祭典に参加した。
 神前一対の石灯籠の右側は弘化四年(847)東川若連中から、左側は天明六年(1786)国栖郷から寄進している。 
 その後、東川は当社分霊を自村へ遷祀して氏子から離別するに至った。例祭は九月一日初遡祭として親しまれてきた。 本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉期の作。社宝に中世以来奉納の古鏡多数あり、中の一面に「大蔵大明神、正応五年(1292)五月弐拾五日 藤原□□敬白」との針書がある。
 大蔵神社庭園は室町期の標高三〇三メートルの高所にある小池や流れを持つすぐれた庭園として県指定の名勝である。

参考書 『日本の神々』『式内社調査報告』『吉野町史』


大和の神々
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