御霊神社

吉野郡吉野町窪垣内1 its-mo


鳥居、拝殿


交通案内
近鉄吉野線大和上市からバス 新子下車、少し下流


祭神
 國樔乃翁


由緒
 『吉野郡史料』によれば国栖翁の祖、権正政国(中山助之尉政国)を祀ると言う。明治の明細帳には祭神不詳。
 白鳳年間の創祀と伝わる。天武天皇の時代と言うことで付会かも知れない。
 国栖奏発祥の古跡の標識が立っている。


標識

 『源平盛衰記』から 国樔の翁(おきな)は、心いとすなおにして山の菓(このみ)をとり食い、蝦蟆を煮て よきあじわいと名づけて毛瀰とぞ言いける。国樔がすめる所は、みやこの巽(たつみ) 山多くへだてゝ吉野の川上の峯さがしく谷深こうして道いとせばく、さがしかりければ みやこにもうでくる事もまれにぞ侍る。應神天皇十九年十月一日、吉野の宮に行幸なり 給うには国樔人三寸を奉つりて歌うたう
 かしのふに[所名也] よこすを[横臼也] つくり[造也] よこすに[横臼也] かめる[醸也] おほきみ[御酒也] うまらに[甘也] きこしもちて[聞持也謂聞食也] をせ[飲也] まろがち[丸父也]となんうたいおわりて口うちてあふのきわらへり。又土毛を奉つる日に歌うたいおわりて口うちてあふのきわらふ、是れは国樔がいにしの遺則なり。是れより参赴土毛奉つりき。其のくにのものは、粟菌(くさびら)ならびに年魚のたぐいなり(日本紀)。代々を経て浄見原天皇、大伴王子に襲われて、芳野の奥の岩屋の中に御身をかくさせ給いしには国栖の翁、粟の御料にうぐいというめる魚をそえて供御に奉つりしかば、朕帝位にのぼらば翁と供御とをめされなんとおぼしめされけるより此のかた元日の御祝いには国栖の翁まいれり。桐竹に鳳凰の装束を賜りて舞いけるとかや。豊明(とよのあかり)五節にも此の翁まいりて、粟の御料にうぐいの魚を御祝に奉つる。殿上より国栖とめされぬれば聲にて御こたえ申さず笛を吹きてまいるなり。此の翁まいらぬには五節も始まる事なしとなり。

 国樔奏は今も浄見原神社で奉納されている。神社と氏子は歴史を生き生きと伝える役割を見事に果たしている例である。


本殿

お姿
 高見川の北岸の山裾に鎮座、国樔奏発祥の地、神武天皇・明治天皇遙拝所の樋が立っている。
 窪垣内は大川がぐるりと回り込む土地で、西風以外の風当たりは弱く、その分暖かいと言う。大海人皇子伝説に深いつながりのある土地。
 かって集落の大半を焼失する大火事に見まわれ、苦しんだ歴史を持つ。


お祭り
10月 1日 例祭

参考書 『吉野町史』、『平成祭礼データCD』
大和の神々
神奈備にようこそ