吉野水分神社(よしのみくまり)

吉野郡吉野町吉野山1612 its-mo


楼門も国重文


交通案内
近鉄吉野線吉野駅から120分で吉野水分神社、ここから上が桜の上千本である。

祭神
 主神 天水分命
 右殿 天万栲幡千々姫命、玉依姫命、瓊々杵命
 左殿 高皇産霊神、少彦名命、御子神

摂社 柴神社など

由緒
 神奈備である青が峰に「吉野水分峯神」として祀られていたと云う。広野千軒跡に神社跡があるそうだ。 この神が、奥の金峯神社、中にこの水分神社、下手には勝手神社と三社に分かれて鎮座した。
 神社の三分割は紀の国の伊太祁曽神社にもその話が伝わる。伊太祁曽神社の場合は、国造の斎祀る日前国懸神宮に比べてその勢力が強すぎるので力を削ぐための分割であったが、水分嶺神の場合にはどうだったのだろうか。
 『吉野−悠久の風景』の中で吉野山の稜線のもつ意味が変化したとの指摘がある。 即ち、旧社地は宮滝から青ヶ峯を遠望する喜佐谷の線にのるし、遷座後もこの稜線上に金峯神社、水分神社が並んでおり、両社は一体と理解できるとのことで、修験の道である稜線に順に鎮座する所に意味があったと指摘している。

 青が峰は吉野地方を潤す水系の分水嶺で、その山容を万葉人は「神さぶる岩根こごしみ芳野の、水分山を見ればかなしも」と詠んでいるほどである。 この山からは東西南北に音無川、秋野川、丹生川、象川が流れ出している。即ち、祈雨・止雨神であった。 しかし単に祈雨・止雨神であればいわゆる高神が祀られていたも不思議ではないのだが、 水分神とは更に属性が加わった神であろう。その属性を小生は承知していない。

 後に「みくまり」が転じて「みごもり」「こもり」となり、子守神としても崇拝を受けた。水は命の源であり、身籠もりの神、子守の神となる。 地元では「子守明神」、「コウモリさん」と呼んでいる。

 葛城水分神社、都祁水分神社、宇太水分神社とともに大和国四所水分と言われている。


お姿
  社殿は豊臣秀頼により再建されたもので、桃山建築である。国重文。荘厳である。鳥居と楼門の鮮やかな朱色と古色蒼然の社殿とは見事なコントラストであり、共に日本人の心を揺さぶる。

三社一棟造の社殿





お祭り
 例祭 10月16日
 御田植祭 4月3日

吉野水分神社 平成祭礼データから
子守宮御神徳畧記
 本殿 中央春日造、左右流造、檜皮葺
 幣殿 単層切妻柿葺
 拝殿 入母屋造、柿葺
 桜門及廻廊 重層入母屋造、栃葺、単層切妻栃葺、以上桃山時代代表建築(重要文 化財)
 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山鎮座の吉野水分神社は、延喜式神名帳に、吉野水分 神社大月次、新甞、とある旧社にして、大和四処水分の第一に数えられ、吉野八大神 祠の一つ、あめのみずわけで、俗に子守明神とも申されます御主神は天之水分大神で ありまして、水戸の神の御子神にて、続日本記文武天皇二年夏四月戌午奉馬乎吉野水 分神祈雨也とあり、みくまりは水配りにて、山谷より流れ出づる水を、程よく田畑に 配分して、灌漑の便を図り給う神であります。もと灌漑の便を図りて稼植の事を掌理 し給ふ神でありますが故に、古来風雨順ならず、早天などうちつづきて、稼植を損ふ が如きことある時にはいつも朝廷より、馬及び御幣物を奉献して、この神に祈り給ふ を例とせられしのみならず、中古神祇官に於て行はせられし祈念祭及び六月、十二月 の月次祭には、案上官幣に預る大社である事は、延喜式の祝詞に徴しても明白の事実 であります。されば当社にては、古来大祭として盛大なる御田植祭を執行し、遠近の 氏子崇敬者御恩頼を蒙り、又神恩に奉賽するを恒例となってゐます。又当社の事を、 古くより子守宮といひ伝へ神名帳br>考証などにも吉野水分神社大月次 新甞祭水神今伝 子守明神とありて、世人はこの神社を出生育養即ち幼児守護の神として崇拝し、既に 豊臣秀吉も、この神に祈願して、秀頼を設けその縁によりて慶長年中建部内匠頭光重 を奉行とし建築再建に当らしめたるものにて、現に建物全部が重要文化財に編入せれ れ居るは、其の当時再建のままの建物であり、それが桃山時代の豪華をもってするの で華麗であり、精巧を極めています。国学者の泰斗として有名なる本居宣長翁も、翁 の父母が、この神に祈請をこめし霊験により生れたという事が、翁の三度迄も当神社 に詣でて報賽せられ、その折詠み残されし和歌によりても明白であります。
   吉野山花は見ぬとも水分の神のみまへをおうがむがよさ
   水分の神のちかひのなかりせばこれのあが身は生れこめやも
   父母の昔思へば袖ぬれぬ水分山に雨はふらねど
水分神を、幼児の守護神といふこと、如何にも不審らしく思われますが、それは当神 社の御祭神は、御主神の外に、尚六柱ありまして御正殿の右方の御殿には天満栲幡千 幡姫命、玉依姫命、天津彦火瓊々杵命を奉斎し、左殿には高皇産霊神、少名彦神、御 子神を奉斎しあれば、これにてそのいわれは知れます。
まづ右殿千幡比売命と、瓊々杵命とは親子にて、左殿の三柱も、皆親子神であります 。殊に栲幡千幡比売命は、高皇産霊神の御子神でありますが上に天照大神の御子正哉 吾勝速日天忍穂耳尊に配し給ひて、瓊々杵命を生みまし、保育そのよろしきを得て、 聡明英達、この国土に降臨され、皇祚の基を建て給ひ、又玉依姫命は、御姉豊玉姫命 にかわりて鵜草不合葺尊を御保育し、後に不合葺尊に配し給ひて、神武天皇を生み奉 り、その保育又よろしきを得て神武天皇が終にこの大和の国に於て日本国の紀元を御 創立遊ばされし、いとも尊く、いとも目出度瑞祥の存するを以て、この二姫命を幼児 守護の神として子守神社とたたへ庶人の尊崇するに至りし事、極めて道理ある事であ ります。
以上略述いたしましたとおり、水分神社といふは、御正殿の天水分神によりて唱へ奉 る称号にて、主として山々谷々より流れ出る荒水を甘水になして、程よく田畑に分賦 して、稼植を成熟せしめ給ふ農業御守護の方よりたたへ奉り、子守宮といふは、左右 両殿に奉斎せる神々によりてたたへ奉れるにて、上にいへる如く、御祭神に出生保育 、幼児守護の大功徳を備へ給へるにより、何時とはなく唱へ奉る称号であります。
祭神の玉依姫の命の御神像は、日本第一の美女神像にて現在は国宝に指定されていま す。およそ等身大彩色十二単衣をまとい、端麗豊頬でお目の下にあるかなきのか微笑 をふくみ慈愛柔かさは、面長下ぶくれの高貴さと相映えて王朝時代の貴女の気品を備 え、えくぼまで表出されていて愛児に呼びかけてゐる生きた女神といった感じがあっ て御子守の神にふさわしく緑豊けき頭髪を中央から左右にわけて両肩から背後に垂れ 衣紋は肩先から膝の上へ全体が正三角という美学の原則そのままであります。尚天満 栲幡千幡姫命の御神像も重要文化財に指定されてゐます。
因に、現今の本殿は、大正十五年五月、奈良県庁の監督の元に修理の工を起し、昭和 二年八月三十日を以て修理完成いたしました。此の要せし工費二万五千余円にて、尚 弊殿は引続きて修理の工を起こし、昭和三年九月此修理竣工いたしました。此工費壱 萬五千余円でありました。
又、桜門及廻廊は昭和六十一年一月奈良県文化財保存事務所の直営にて解体大修理の 工を起し昭和六十二年八月末を以て修覆が終り四百年前再建当時を偲ばせる姿になり ました。此の要せし工費壱億弐千萬余円でありました。

 神社の宝物としては
  神輿 社殿と同時代の物にして八角八ツ棟造であります
  湯釜 往昔御湯と申し禊祓に使用せしものなり
            総高 二尺九br>寸  径一尺七寸
  紫燈 大小二基あり 大 高四尺四寸余  小 三尺六寸余
     湯釜、紫燈は皆鉄にて造らる
  釣燈篭 八角にして金銅製一対あり
      以上全部慶長九年豊臣秀頼郷の寄進によるものであります
  三十六歌仙 此額は道光親王の御筆にして画は狩野永徳の画かれたものです

  祭日 一月一日・新年祭、二月四日・古札焼納式、二月二十一日・祈年祭、四月 三日・御田植祭、四月十九日・春季若宮祭、十月十六日・御例祭、十月十九日・秋季 若宮祭、十一月二十三日・新甞祭、毎月一日十五日・月次祭、十二月三十一日・大祓



摂社 柴神社  子供の皮膚の神



吉野町の神々

大和の神々
神奈備にようこそ