江口の君堂(寂光寺)
大阪市東淀川区南江口 ゼンリン

 寂光寺  日蓮宗、宝林山普賢院と号す。江口の君の創建と伝わっている。創建時は天台宗だったと言う。

寺院風景

江口の里 江口君堂

境内掲示の由緒
 当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、彼の有名な江口の君これを草創せしを以って、一に江口の君堂と称す。

 抑も江口の君とは平資盛の息女にして、名を妙の前と言い平家没落後に授乳母なる者の郷里、即ち江口の里に寓せしが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを欺き、後遂に往来の船に樟の一ふしを込め、秘かに慰さむ浅ましき遊女となりぬ。

 天皇第七十九代六條帝の御宇、仁安二年長月二十日あまりの頃、墨染の衣に網代笠、草から草へ旅寝の夢を重ねて、数々のすぐれた和歌を後世に残せし西行法師が浪華の名刹天王寺へと詣でての道すがらこの里を過ぎし時、家は南・北の川にさし挟み、心は旅人の往来の船を想う遊女のありさま、いと哀れ果敢なきものかと見たてりし程に、冬を待ち得ぬ夕時雨にゆきくれて、怪しかる賎が伏家に立寄り、時待の間仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず、されば西行なんとなく

 世の中をいとうふまてこそかたからめ かりのやとりを おしむ君かな

 と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて

 世をいとふ人としけけは仮の宿に、心とむなくおもふはかりそ

 と返し、ついに一夜を佛の道のありがたさ、歌をたしなむ、おもしろさを語り明かしき。
 かくて夜明けと共に西行は淀の川瀬を後にして雪月花を友とする歌の旅路に立ち出ぬ、出離の縁を結びし遊君も女は心移さず常に成佛を願う固き誓願の心を持ちいれば後生はかならず救わるべしと深く悟り、後佛門に帰依して、名を光相比丘尼(こうそうびくに)と改め、此の地に庵を結びぬ。
 又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と難も菩提心をおこし、衆生を慈念したるためしを見せしめ知らしめ貴婦賎女の至遊君白拍子の類いをも遍く無上道に入らしむ結縁とし給う。
 かくて元久二年三月十四日、西嶺に傾く月と共に、身は普賢菩薩(ふげんぼさつ)の貌を現わし、大牙の白象に来りて去り給いぬ。御弟子の尼衆更なり、結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ、終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。
 去る明応の始め赤松丹羽守病篤く医術手を尽き、既に今はと見えし時、この霊像を十七日信心供養せられければ菩薩の御誓違わず夢中に異人来りて赤松氏の項を撫で給えば忽ちち平癒を得たり。
 爰に想うに妙の前の妙は転妙法輪一切妙行の妙なるべし。さればこの君の御名を聞く人も現世安穏後生善処の楽を極めんこと疑いあるべからず。
 其の後元弘延元の乱を得て堂舎佛閣焦土と化すも宝塔は悉く宝像も亦儼然として安置せり。
 正徳年間普聞比丘尼来たりて再建す即ち現今のものにして、寺域はまさに六百六十余坪、巡らすに竹木を以てし幽遠閑雅の境内には君塚・西行塚・歌塚の史蹟を存す。
 然れども当寺に傳わる由緒ある梵鐘は遠く平安朝の昔より淀の川を往き交う船に諸行無情を告げたりし程に、図らざりき遇ぐる大戦に召取られ、爾来鐘無き鐘楼は十余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも只管再鋳の日を発願し来りしに、今回郷土史蹟を顕彰し、文化財の護持微力を捧げんとする有志相集い梵鐘再鋳を発願す。幸い檀信徒はもとより力?強く十方村人達の宗派を超越せる協力と浄財の寄進を得て聞声悟導の好縁を?ふ得たり。(昭和二十九年九月完成)
 昭和六十年九月

君塚と西行塚

 世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな  西行
 世を厭ふ人とせ聞けば仮の宿に 心を止むなと思ふばかりぞ 遊女妙

 元久二年(1205)と刻した歌碑であるが、江戸時代に好事家が淀川堤に建てたもので、新淀川の改修工事の際に寺内に移設したもの。

本堂

釣鐘

西行・妙の歌問答碑

お姿
 淀川堤防の側に鎮座。
 参詣が真冬だったので木々も勢いが無く、寂れた雰囲気であった。年取った遊女の末路のような感じが伝わってくる。それを救済するのが普賢菩薩ということ。

摂津名所図絵 江口里

君堂(きみどう)
 江口里にあり。日蓮宗寶林山寂光寺普賢院と号す。女僧住職す。

 江口君像(えぐちのきみのぞう)本堂に安ず。長一尺ばかり。その外、普賢菩薩の尊像、境内に西行塔・江口君の墓・西行桜あり。また什寶に西行真蹟の和歌あり。

   山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれはしらん物かは 西行。

 当寺の由縁、旧記に聞こえず。恐らくは江口の謡曲の文義を種として、後世いとなみし佛場なり。かの文に西行と和歌贈答の後、江口君は普賢菩薩と現れ船は白象となりて西の空に入るの趣向なり。これは、同じく『撰集抄』に書写山の證空上人播州室津の遊女を見て閉目観念したまへば、たちまち遊女普賢菩薩と見え、また眼を開けばもとの遊女なり。これを江口の遊女に准えて謡の文句を作したり。またそれをこの寺に種として普賢院君堂と号す。右に引書するがごとく、江口の遊女の和歌古実は、『新古今集』『江家次第』、江口尼の事は、西行の『撰集抄』等より外に証とすべき旧記いまだ見来らず。

摂津名所図絵 江口君

 江口遊女妙(えぐちのゆうじょたへ)
 歌塚とて『新古今』贈答の和歌を石刻して、江口村南川堤の上に建つる。北の方、西行法師の歌。南の方、遊女妙の歌。東の方、法華首題七字、賜紫日顕の書判。西の方、当山法華霊場宝林山寂光寺君堂造立の志は如月院妙耀日近信士の菩提と為す。

 天王寺へまゐり侍りけるに、にはかに雨ふりければ、江口にやどなかりけるに、かし侍らざりければ読み侍りける
 『新古今』
 世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりををしむ君かな   西行法師
 同
 世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなとおもふばかりぞ    遊女妙

『遊女記』 大藏卿匡房卿

 山城国の与渡津から、船を大川に浮かべて一日西へ行くと、そこが河陽(山崎)という ところである。山陽、南海、西海の三道と京都との間を往来する人びとは、誰でもこの通 路によらないものはない。淀川の南北(両岸)には邑々が点在している。淀川の流れを境 にして北岸が摂津国、南岸が河内国に分かれていて、摂津市(味生一津屋)付近で淀河か ら神崎川が分流するが、その辺を江口という。この付近にはただ典楽寮の味原の牧(味経 の原:乳牛用牧場))や掃部寮大庭庄(蒋を栽培する沼があった)があるぐらいで交通の 要衝以外に特に取り立てるほどの土地柄ではない。  

 摂津国に到ると、神崎や蟹島などの地があり。そこでは(娼家の)門がならび遊女の居 宅が連なるように建っていて、人家が密集するほどの賑わいを見せている。倡女たちは群 れをなして扁舟(小端船)に棹さして旅舶の間を漕ぎ廻り、唱歌しながら(泊まりの)客 を求めている。艫取女たちが客を呼ぶ声は渓雲(川霧)をとどめるほどであり、遊女たち の謡う今様の調べと鼓の音は水風に余韻として飄(ただよ)っている。こうした賑わいに 経廻の人(旅行者)もついに家庭のことなど忘れ勝ちになってしまうのである。(神崎川 両岸)の洲には蘆が生い茂り、川口の水面には白波が花のように波立ってまるで絵のよう な美しさである。川面には釣りを楽しむ翁の船や船客相手の酒食を商う小商人(あきんど )の船(近世の「くらわんか船」のようなもの)も多くみられ、それに旅舶や遊女達の扁 船も混じって舳と艫が接するような混雑ぶりで、殆ど水面が見えないほどの繁昌ぶりであ る。まさに天下第一の楽しき地(ところ)といえよう。  

 江口では観音という名妓を祖(姐さん株の妓女 宗・長者も同類と思われる))として 、以下、中君・□□□・小馬・白女・主殿などの(歴代)名妓がおり、また蟹島では、宮 城という名妓を宗(しゅう)以下、如意・香爐・孔雀・立枚などの名妓達がいる。一方、 神崎では、河菰姫という名妓を長者として、以下、狐蘇・宮子・力命・小児などの名妓達 がいる。これらの名妓はいずれも倶尸羅(インドの黒ホトトギス、好色鳥)の再誕のよう な美声の持ち主であり、また衣通姫(允恭紀にみえる絶世の美人)の生まれ変わりかと思 わせる美女たちである。こうした名妓たちに出逢うと、男というものはとかく美人がお好 きなようで、上は身分の高い郷相(公卿)から下は一般庶民に至るまで、宴席を共にし同 衾すれば忽ち夢中になって身も心も情を通じてしまうのである。そうしたことから遊女の 中には、身分ある人の妻や妾となって死ぬまで愛せられ、一生の幸せを得た者もいたとい う。たとい賢人や君子といわれる者でも男というものはとかく好き者が多く、このことだ けは避けて通ることができないようである。(遊女たちの信仰を集め、遊女たちがよく参 詣した場所は)南は則ち住吉、西は則ち広田が多く、そこで遊女たちは徴嬖(客がつくこ と)の幸多きことを祈願したのである。ことに遊女たちの願掛けには、百大夫すなわち道 祖神(神仏混淆時代で百大夫と道祖神を同一視しているが滝川博士によると、元来、百大 夫は陰陽道の神とされる。)への信仰が強く、願掛けに遊女たちは人ごとに百大夫の像を 熱心に作り、それを神社に奉納したのであるが、その数は百千にも及んだという。その効 果は相当あったようで、お客の心も蕩(うご)き、お声もかなりかかったようである。こ れもまた遊女社会の古い習俗である。  

 長保年中、東三條院(円融天皇女御、一条天皇母)が住吉大社・天王寺に参詣された時 (『日本紀略』によると長保二年(1000)三月二〇日のこと)、その帰途(淀川を渡 る時に遊女たちが群集し、扈従していた殿上人や女房への施しが行なわれたがその折り) 禅定大相国藤原道長は殊に小観音という名の遊女に寵愛をお与えになったという。また長 元年中上東門院(一条天皇皇后、後一条・後朱雀両天皇母、藤原道長の女彰子)がまた御 行された時(『日本紀略』長元四年(1031)、宇治大相国藤原頼道は、中君という遊 女を賞でられたという。さらに延久年間(延久五年(1073))、後三條院(前年末に 白河天皇に譲位されたばかりの後三條太上天皇)が同様に住吉大社・四天王寺へ御幸され た折りにも、狛犬や犢(こうし)らの遊女たちが船を並べて群参し、(その艶やかなる光 景は素晴らしく)人々はこれを神仙といい、近代の勝事(近来稀にみる素晴らしい出来事 )と讃えた。  

 一般の人々が言うには、雲客風人(都の貴紳、雲上人や風雅の人)が遊女を賞でるため に京洛より河陽に到るときは、専ら江口の遊女を愛したようで、刺史以下(地方の国司以 下の役人や庶民)が西国より河に入る時には専ら神崎の遊女を愛したようである。いずれ も始見(始めてまみゆる)をもって遊んだようであるが、要するに近場で遊んだというこ とである。遊女たちが得るところのもの即ち収入のことを団手(だんしゅ、纏頭・玉代・ 花代・線香代などの類か)といった。均分の時に及んでは遊女たちは恥じらいや慎みなど をかなぐり捨て少しでも団手の取り分を増やそうとして奮励努力するさまは傍目から見る と、まるで喧嘩や乱闘をしているかのように見えるのである。或るときには麁絹(綾のな い生地)の尺寸までの細かい裂地(麁絹を均等に切断して分け合うこと)を奪いあい、ま た或るときには米や粳の斗升を厳密し計って分け合うのである。考えてみるに、まさしく 『史記』陳丞相世家や『前漢書』陳平伝にみえる陳平が肉を分つときに均等に公平な分配 を行った故事をみる思いがし、遊女社会では団手の分配を均等に行う風習があるようだ。 豪家(摂関・公卿など権門・勢家と呼ばれた家柄の良い家) の侍女(豪家に仕える女性、家伎として芸能を教育されたマカタチなど)の中には、自ら 求めて遊女社会に身を置き上下の船に宿る者もいたが、これを湍繕(速く繕ろう転じて売 春のみを専門とする所謂ショートのことか)または出遊(アルバイトの遊女の意味か)と いった。

 少分の贈(少額の団手)を得て一日の資としたのである。ここに髻俵(出遊と判るような 髪型か)・絅絹(出遊と判る服装か)の名の由来がある。アルバイト遊女の船の舳先には 、いずれも登指(高い柱、大笠と棹)というものが建てられ、それに九分之物(出遊と判 る標識、丸いものか)が掲げられて一見して直ちにアルバイト遊女の船であることが判る ようになっていた。これも遊女社会の慣習である。  

 (遊女社会のことは)既に文章博士大江以言の「見遊女詩序」に詳しいが、本文ではそ れ以外に気付いた点を若干付け加えてみただけである。

 『傀儡子記』

神奈備にようこそ