天神社・天神さん
徳島市眉山町天神山1 mapfan

鳥居


交通案内
徳島駅南西700m



祭神
菅原道真公
境内社
 姫宮さん
 九人大明神
 稲荷大明神
 筆塚、針塚

智恵の門と拝殿


由緒

 もと潮音寺の鎮守として、瑞巌寺の一顎和尚が甲州恵林寺から携えて来た高さ六寸の渡唐天神木像をまつったのが起源とされる。文化六年(1809)現社地に一社を創建、潮音寺の神像をまつり、旧藩主蜂須賀公代々保護し、文教の神として尊崇した由緒ある社である。

内陣


お姿
 眉山へ登るロープウエイの乗り場と隣り合わせに鎮座している。乗り場の北側が潮音寺、往古は眉山の東麓の近くまで海だったようだ。
 広い石段を登ると朱色の社殿が見える。左端に姫宮さんの巨石がある。

姫宮さん


お祭り
  7月24日 例祭

『平成祭礼データ』(平成七年)から

天神社の由緒

 徳島眉山天神社は菅原道真公を御奉祀申し上げ、藩主蜂須賀家政公阿波入国以来の聖地でありまして、県内はもちろん県外からも学問の神様、商売繁昌、また交通安全、家内安全の神様として信仰厚く、毎年七月二十五日に行われています天神まつりは、徳島の夏まつりの中心行事として盛大に執り行われ県民はもちろんその名を天下に知られております。道真公は、学者として名高い文章博士是善卿の子として承和十二年(845)乙丑六月二十五日、京都菅原院でお生まれになりました。
 学者として、政治家として、大きな業績を残し、九州太宰府に嫡(言)居、なくなられるまで五十九年の波瀾に富んだ生涯をおくられました。後人その徳を敬慕して「管公」と称え、古くから文教の祖神として広く敬仰されて参りました。
 管公が四才の時「美しや紅の色なる梅の花、あこが顔にもつけたくぞある。」という和歌を詠まれ、十一才の時に「月夜に梅花を見る」という漢詩を作られたのを見てもいかに学問に励まれたか推察できます。
 貞観十九年には文章博士となり、当代に並びなき大教育家として尊敬せられました。
 仁和二年(887)正月、道真公は四十二才で 讃岐守に任命され、寛平二年(890)春再び都に帰り、次々に官位を栄進し、昌泰二年(895)春、五十五才で右大臣に任命されました。
 名門を誇り、家柄によりかかるところの左大臣藤原時平にとって、文章の力によって台頭してきた道真公は、宮廷勢力握るかに見えました。時平は醍醐天皇にざん言することにより、道真公は昌泰四年(901)正月二十五日、九州太宰府に左遷されました。道真公は,忠臣白大夫や警護の数人と共に都を出発、難波(大阪)から配所に向かわれました。天神祭の船渡御神事は、この海上行によりはじまります。
 道真公は、太宰府にあって、天を怨まず、人を憤らず「恩賜の御衣」の詩にもあるように、必ず冤罪の晴れる日を信じて、至誠一貫の生活を続けられました。
 延喜三年(903)二月二十五日、五十九才で配所の月を眺めながら、さびしくその悲劇の生涯を閉じられました。 道真公の死後、京都では雷鳴、自信、洪水、疫病などが起こり道真公左遷の首謀者左大臣時平は、三十九才で病没するなど道真公の怨霊と考えられる事件が起こりました。
 道真公を死へ追いやった者への憤り、無実の罪におとしいれた者への反発が、道真公への同情となり敬慕となって、朝廷も道真公の霊を慰めるため、左大臣正一位を贈られ、さらに太政大臣を贈られました。
 道真公が亡くなってから八十年、はじめて本来のお姿にかえられ、その霊をお慰めするため、神と祭られたのであります。
 管公は、萬代の師として長く後生の人々より尊崇され、学問の神様として御神徳前々(心)高きは実にこの人格の然らしむ所であります。

 祭事
 元旦祭(初詣)一月一日
 新しい年の始めを祝うとともに、この一年の開運を祈願します。正月三ヶ日に行う。
 成人祭(成人の日)一月十五日  
以上

 『徳島県神社誌』、『平成祭礼CD』

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