諭鶴羽神社(元熊野宮)
兵庫県南あわじ市南淡町灘黒岩472 google

諭鶴羽神社公式

鳥居

交通案内
淡路島の最高峰の諭鶴羽山頂付近


祭神
伊弉冉尊、速玉男命、事解男命

拝殿


由緒

 諭鶴羽権現と云われ熊野権現の奥の院と称されていた。 『熊野権現垂迹縁起』には、往昔、唐の天台山の王子信が日本の日子山に降臨し、それから伊予国の石鎚の峰、次いで淡路国の諭鶴羽の峰、さらに紀伊国の熊野へ遷ったと記されている。いずれも修験の霊場である。
 紀州の熊野三所権現と同体である。

 創建の由緒譚がある。狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。
 この話も熊野権現の創建譚の一つとそっくりである。

本殿


お姿
 ユズリハは常緑の高木で、新葉が旧葉に交代していく姿が特長、譲る葉。

ユズリハ

 万葉集に二句歌われている。
巻二 一一一
幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首
古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 <鳴<濟遊久

巻一四 三五七二
譬喩歌
安杼毛敝可 阿自久麻<夜末乃 由豆流波乃 布敷麻留等伎尓 可是布可受可母

 諭鶴羽山は淡路島の最南端で交通不便に加えて、神社の存在と宮司さんのスタンスが開発の魔手から守っており、原始の姿が残っているようだ。更に南からの湿った風が突き当たる壁であり、多湿多雨の山で、自然の復元力も強いようだ。参詣途中で鹿を目撃。神職さんに聞くと夜になればもっと多く出てきますよとのこと。
 植物相は熊野と云うか南紀の海岸に似ている。アカガシなど照葉樹林がぎっしりである。

摂社十二所神社
 

観音堂跡

親子杉


お祭り
  4月13日 例祭

『平成祭礼データ』諭鶴羽神社の御由緒

 社伝によると、およそ二千年の昔第九代開化天皇の御代にいざなぎ、いざなみ二柱の神さまが鶴の羽に乗り給い、高天原に遊び給うた。狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。狩人涙を流し前非を悔い、その罪を謝し奉り、長く弓矢を捨てその地を清め大工を招き一社を建て神体を勧請し奉る。狩人、権現の社を受領して庄司太夫と号し一生神に仕えたりという。社名・社紋鶴丸の起こりであろう。

 又別に、むかし西天竺の霊神が第十八代崇神天皇の御代に五つの剣を東に向かって投げられ「吾が縁のある地に留れ」と誓い給うた。一は紀伊国室の郡(熊野三山のこと)一は下野国日光山、一は出羽国羽黒山に一は淡路国乙鶴羽の峰に一は豊前国彦山に留まったと伝えられている。ともあれ、その創建は遠い昔のことであり、自然崇拝、山岳進行に始まり平安時代に修験道が盛んになるにつれ、この山も前記の山々と共に神仏習合体として、大いに繁昌山上一帯に二十八字の大伽らんを建て熊野権現と並んで修験の霊場として栄え熊野権現奥之院また熊野元宮とも称えられ、ご神威は京の貴族社会にまで知られていた。

 峰は ゆずるはの峰 あみだの峰 いや高の峰  (清少納言 枕草子)

 惜しいことには、五〇〇余年前(康正二年)戦乱のため兵火にかかり全山焼亡。 天文年間に至り美作城主(岡山県)の助力を得て十八字を再興したが又、また天文十八年六月九日兵火にかかり(石川紀伊守の乱)焼滅衰微した。再度の焼亡を悲しみ、美作住人乗蔵らによって再興祈願のため造立された天文二十一年銘の碑石が多く現存している。

 江戸時代に入り藩主蜂須賀公が平病祈願・徳島城鬼門鎮護のため、本殿拝殿及び末社二社を再建されたという。

 また本殿横西側に、もと神仙寺観音堂(淡路西国巡礼第八番札所)も合わせて祀られていたが明治初年の神仏分離令で山下の黒岩に遷された。
   以上
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公式諭鶴羽神社
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