備中國:18座 大1小17


窪屋郡[クホヤ]:3座並小

百射山神社[モゝイヤマ]
百射山神社[ももいやま]「大山祇命 合 吉備武彦命」岡山県総社市三輪1347 玄松子の記憶

足高神社[アシタカ]
足高神社[あしだか]「大山津見命 配 石長比賣命、木之花佐久夜比賣命」岡山県倉敷市笹沖字足高1033 玄松子の記憶
足高神社(帆下げの宮)参拝のしおり

御祭神 大山津見命
国土御守護の御神で、土上に繁殖する五殻は基より人類草木金銀によらず一切の物を 守り給うので、その功徳の広さは、大きな山を積み重ね足る如くで、その御名が付い たといわれます。

配神 石長比売命
寿命御守護の御神で、人の寿命を堅磐常磐に長久するようにと、その御名が付いてお ります。

木之花佐久夜比売命
熱の病を治せられ給う御神で、その名のとおり桜の花の様にやさしく美しく安産の御 神でも、あらせられます。

鎮座
現存する神社記録の最古の書は、平安時代・醍醐天皇九二七年(延長五年)に編纂さ れた延喜式神名帳です。式内社とは、延喜式内社の略称です。延喜式は、国家行政の 基本的施工細則であり、その第九・十巻が、神名帳で、これには当時の代表的な神社 二千八百余を全国にわたって例載しています。これらは、いわゆる官社で、いずれも 国家の宗祀とあがめられ神社信仰の中心的存在で、この書のなかに足高神社は記載さ れており、備中十八社の一なる最古社であります。御鎮座の年代は、人皇第十代崇神 天皇の御代に勧請され、今から約二千年前です。

皇室との関係
寛和元年(九八五年)花山天皇の御代、足高神社神宮寺神遊山、神宮寺遍照院に三重 塔の建立あり。
天暦元年(九四七年)二月十六日村上天皇は藤原兼成卿を遣わして、奉弊御祈願の儀 あり。翌三年不思議な霊験あり神殿を御造営になり、有紋の御幕勅書を御奉納
乾元元年(一二四三年)後二条天皇の御代、足高八幡大菩薩の勅額の御下賜。
延慶元年(一三0八年)花園天皇の御代、勅額と獅子頭一対を御下賜。

武将の信仰
建徳元年(一三七0年)九州探題として赴任の今川定世公は、海路の航海の安全を祈 願され狛犬を御奉納。
徳川時代備前池田公の支藩、鴨方池田氏の祈願所として尊信せられ、代継ぎの際は、 代々必ず参拝なさいました。

帆下げの宮
足高山は、四百年前は、海中に浮かぶ一孤島であり、小竹島、笹島、戸島、藤戸島、 吉備の小島、奥津島とも呼ばれ、東西航行の要路であり、潮流が激しく鳴門の如く、 渦が巻いていたといわれており、通る船は、全て帆を下げ、島上の足高の神に、敬意 を表し難を逃れた為、帆下げの宮と称して、あがめ奉りました。古の海路は、現在、 国道二号線バイパスとなり、船に代わり、車の交通安全にお参りされる方が、とみに 盛んとなっております。



菅生神社[スカフ]
菅生神社[すごう]「高皇産靈神」岡山県倉敷市祐安1993 玄松子の記憶


賀夜郡[カヤ]:4座大1小3

古郡神社[フルコホリ]
古郡神社[ふるこおり]「吉備武彦命」岡山県総社市総社字西山2405 玄松子の記憶
池田神社に合祀  岡山県総社市槙谷字市井谷734 玄松子の記憶

野俣神社[ノマタ]
総社宮摂社の沼田神社[ぬまた]「大年神 配 大物主命、少彦名命」岡山県総社市総社2-18-1 玄松子の記憶
大和神社に合祀「應神天皇、神功皇后 配 多岐理比賣命、多岐津比賣命、市杵嶋比賣命」岡山県上房郡賀陽町大和宮地字黒田445 玄松子の記憶

鼓神社[ツゝミ]
皷神社「吉備津彦命、楽々森彦命、遺霊彦命、高田姫命、吉備武彦命」岡山県岡山市上高田3628 玄松子の記憶
鼓神社要覧
一、鎮座地、岡山市上高田三六二八。

一、由緒沿革(神紋舞鶴)当社は人皇第十代崇神天皇の御宇四道将軍大吉備津彦命、 御功臣遣霊彦命、この県主楽楽森彦命、同御女にして将軍御后、高田姫命を奉齋せる 神徳赫々たる名社であります。主神遣霊彦命は大吉備津彦命の脇將で功に依り大井庄 内五ケ所を賜った。後神を崇め社を建て五神を合わせ祀った。延喜の制で小社に列し 、祈年の国幣にあずかる。往時は五社殿あって鼓五社大明神と称した。寛永年間領主 木下利当社領二石を寄進し祈願所となす。千原寛源勝延祖先の後を襲い木下藩主の命 を受け鼓神社神主となり、明治五年神職令改正の時大井以北十九箇所村の祠掌を拝命 せらる。同年社格制定の際当国二宮の称号並びに式内十八社中なるに村社に加えられ しこと遺憾に堪えず。意を決し、単身上京し県社昇格に夙夜奔走し、神徳顕現、同十 四年十月四日県社に列格さる。爾後同四十一年九月、庄田天神社を合祀、社殿を改築 、設備充実、境内整備等壮麗なる様相となる。昭和二年神饌所を新築し、県社昇格五 十年奉祝祭を盛大に執行す。昭和三十四年四月神社整備、本社屋根葺替正遷座奉祝祭 齋行、昭和四十九年五月、拝殿屋根補修、神輿二基彩式、神幸用具新調、一千年奉祝 祭執行、昭和六十二年五月拝殿瓦葺替、隋神門、荒神社拝殿屋根葺替、境内地、神池 を整備し、鼓神社再建六百五十年祭を盛大に奉祝せり。

一、鼓神社宝塔。当社の境内に一基の宝塔がある。正しくは「正円阿闍梨石塔」と呼 ばれる。花崗岩製全高四、一五米という稀に見る大きな宝塔で塔身の背面に「大勧進 沙門正円、貞和二年十月二日造立之、大工妙阿」と三行に刻んだ銘があるので今から 六百四十余年前貞和二年「千三百四十五年」葦守八幡宮の石鳥居を作った石工妙阿の 作である。大勧進沙門正円は、鼓神社境内に建てられた神林寺の高僧で、鼓神社の社 僧として神社の維持運営を司った。南北朝相争う頃、兵火に神社、寺は焼失を見、再 建の為行脚托鉢、神社を再興、供養塔を寺跡に建立されたものである。建築史の時代 区分からすれば鎌倉末期に入るべき名品、昭和三十四年国指定重要文化財となる。



吉備津彦神社[キヒツヒコ](名神大)
吉備津神社[きびつ]「大吉備津彦命 配 御友別命、若日子建吉備津彦命、中津彦命」吉備の中山の麓に鎮座。社伝によれば仁徳天皇の御代、祭神五世の孫加夜臣奈留美命が茅葺宮の跡に祖神を祀ったとある。吉備津造の本殿が名高い。 岡山県岡山市吉備津931 日本すきま漫遊記 玄松子の記憶
吉備津神社案内
一、鎮座地、岡山市吉備津九三一。
一、御祭神、大吉備津彦大神並に配祀神八柱の神。
一、由緒、御祭神は第七代孝霊天皇の皇子にましまし、第十代崇神天皇の御代に吉備 の国に下られ、温羅と言う悪者を平らげて平和と秩序をきずき、この地に宮をいとな まれて吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行ない給い、長寿を以てこの地に 薨去せられました。 
社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸したもうた時、御創建になったもので、後、 延喜の式の定まるや名神大社に列しやがて一品の位になられましたので一品吉備津宮 、また三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神としてま た長寿の守り神として全国の人々から深く信仰せられている。
一、本殿、拝殿(国宝)現在のものは約五百六十年前の応永年間の再建で室町時代初 期の代表的建築であるのみでなく、日本建築の傑作で「吉備津造り」と称えられ全国 唯一の形式として国宝中の国宝である。
一、南隋神門、北隋神門−共に重要文化財(旧国宝)である。
一、回廊(県指定)延長四百米余もあり、殊に地形のままに直線にのびているのは全 国にも稀な建物で著名である。
一、本宮、回廊の南端にあり、古来安産育児の霊験あらたかなので有名である。
一、御竃殿(重文)釜鳴りの神事が行なわれている。お釜の鳴動の音の大小長短によ って吉凶禍福を卜(ボク)するのである、その神秘なことは古く「本朝神社考」「雨 月物語」などにも紹介されて天下に有名である。



下道郡[シモツミチ]:5座並小

石畳神社[イシタゝミ]
石疊神社[いわだたみ]「經津主神」岡山県総社市秦3995 玄松子の記憶
石畳神社
掲示板
延喜式内の神社にして、上古より神殿を設けず20数米の磐石を以て神の御室と定め 石畳の神と奉称す。大和の国三輪の大神の三輪山を以て神の御室と定め給えるが如し。
万葉集に(石畳さかしき山と知りながら我は恋しく友なくに)とあり。また祭田の遺 跡あり。


神神社[ミワ]
神神社[みわ]「天照大神、大國主神、素盞嗚尊、大山命 ほか三柱」岡山県総社市八代宮山918 玄松子の記憶
神神社
参拝のしおり
神神社の創建は古代中期と伝えられ、大和国(奈良県桜井市)大神神社に由来してお り、また出雲大社系にもそのことが判明している。 発祥の由来については大神神社の御神体である三輪山(禁足地である)に有り、神神 社の御鎮座地である通称お宮山も大へんに秀麗な山容であるところから分祀なされた 。
その四季折々の風趣は人々の心を和め、小学唱歌「ふるさと」の歌詞そのもののイメ ージである。古代は山上の磐座で祭祀が行なわれており、現在でもその当時のようす をよく窺い知ることができる。そして古代当地域の開拓と開墾には御祭神の御神徳と 御神威の御守護によって成されたことが確証されており申し伝えられている。
御祭神は大物主命。天照大御神。素盞鳴命。大山昨命。応神天皇。仲哀天皇。神功皇 后。春日神(四座)であり、文徳天皇嘉祥四年正月に正六位上。清和天皇貞観元年正 月には従五位下に称せられている旧社である。その後平安朝醍醐天皇の延喜年間には 延喜式が勅撰せられ、神祇官所管に関する規定式第十巻の神明帳には当神神社は式内 社として登載せられている。後、明治43年7月一村一社の制により、八幡神社。伊 與部神社を合祀した。


麻佐岐神社[マサキ]
麻佐岐神社[まさき]「大國魂神」岡山県総社市秦4035 玄松子の記憶
麻佐岐神社
参拝のしおり
吉備の国最古の創立にして鎮座の金山を麻佐岐山と称し、山頂の霊石を霊代として本 殿の設備を成さず、山腹に祓所ありて大祓谷と云う。
延喜式内の神社にして本国一宮格と定める。旱魃のときは祈雨の祈願所と定めている 。また祭田の遺跡あり。


横田神社[ヨコタ]
横田神社「菅原道眞、天穗日命」岡山県総社市久代3632 玄松子の記憶

穴門山神社[アナトノ・]
穴門山神社[あなとやま]「穴門武媛命」高山[こうやま]山頂の巨岩の傍らに鎮座。岡山県真備郡真備町妹字諏訪下895 玄松子の記憶
穴門山神社「天照大神、倉稻魂神、足仲彦命、穴戸武姫命」本殿背後に石灰岩の絶壁がそびえており、裏の崖下に鍾乳洞がある。別名[浜の宮]と呼ばれ、倭姫が四年間この地で天照大神を奉じたとされる。岡山県川上郡川上町高山市字長田山ノ内宮山1035 玄松子の記憶


小田郡[オダ]:3座並小

在田神社[アリタ]
八幡神社「應神天皇」岡山県笠岡市有田字宮ノ前2270 玄松子の記憶

神嶋神社[カンシマ]
神島神社[こうのしま]「興世姫命、神日本磐余彦命」創建は奈良時代(726)神亀3年。岡山県笠岡市神島外浦字南水沖1706 玄松子の記憶
略記                                    
当神社は式内社なり 、即ち延喜儀式神名帳に備中小田郡神島神社とある。御祭神は神日本磐余彦命(神武 天 皇)興世姫命を奉斎す。創建は奈良時代(726)神亀3年と伝えられ室町時代 (1547)天文十六年に 本殿の御造営が行なわれていることが棟札によって知ら れる、大正十五年八月十五日に第六回目の改修工事 を行ない当時の様式を偲ぶこと が出来る。命は、皇祖皇考神聖にして日向より東征の砌、吉備高島に八年間 駐屯後 、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第一代践祚の大偉業を成し給う。妃興 世姫命は、部下 を率いて駐留され天業を扶翼し奉りて此の地に崩す。近郷住民は、 高き尊き御神徳を畏み奉りて一大崇敬産 土神と斎き奉る。           


鵜江神社[ウエ]
鵜江神社[うのえ]「吉備津彦尊」岡山県小田郡矢掛町西川面字宮本1334 玄松子の記憶


後月郡[シツキ]:1座小

足次山神社[アシツキ・]
足次神社[あしつぐ]「足名椎神、手名椎神」岡山県井原市西江原町44 玄松子の記憶
足次神社 岡山県井原市井原町倉掛25 玄松子の記憶


英賀郡[エカ]:2座並小

比賣坂鍾乳穴神社[ヒメサカノイシノチノ]
坂鐘乳穴神社[ひめさかかなちあな]「大己貴命 配 譽田別命、素盞嗚命、吉備津彦命、太玉命、倉稻魂命、保食神、大日靈命、櫛明玉命、豐玉彦命、瓊瓊杵命」岡山県新見市豊永赤馬6352 神社
略記
本社は上古我地方民が鎮座地にある大洞穴を霊地として崇拝し奈良朝行基菩薩三尾寺 (みをうじ)を草創せらるるや山門鎮守の神として天平勝宝二年大洞穴の頂上本宮と 云ふ所に伊弉諾伊弉冉命を勧請し給ひしものなり大同二年弘法大使三尾寺を中興し給 ふや本社も隆昌を来し淳和天皇天長の年社殿を築き奉る当時洞内に石鐘乳(いしのち ち)と称する薬石を産し名高く清和天皇貞観元年曲薬頭(くすりのかみ)出雲朝臣峯 嗣を備中に遣し此の洞穴より石鐘乳(いしのちち)を採らしめ給へり醍醐天皇延喜五 年に端し給ひし延喜式神名帳備中十八社の中に英賀郡(あがぐん)呰部郷(あざべご う)比売坂鐘乳穴(ひめさかかねちのあな)神社として記載されたる由緒正しき神社 にして所謂式内と称する崇厳なる神なり其後本宮の東方平地に社殿を築き日・宮(ひ めみや)明神として遷座し奉り大巳貴命を祀爾来三尾寺が別当職として本社の祭典社 人の管理をなし寛永四年前殿を築き文化十二年四月本殿を再建立せらる之れ現存せる 社殿なり。

明治照代の世となり神仏分離され明治五年村社に列し社掌を任命して神社を管理せし むるに至れり明治四十年五月神饌幣帛料供進社に指定せられ同四十二年拝殿の改築社 務所を新築して無格社を十社を合祀し社運益々隆盛に向へり爾来氏子一同由緒正しき 式内社なれば県社に昇格し奉らんと協同一致して資財を奉献して基本金の造成を図り 昭和五年十月県社となる。



井戸鍾乳穴神社[ヰドノ]
井戸鍾乳穴神社[いどかなちあな]「大名持命 合 譽田別命、素盞嗚命」この地にあった岩山大明神を解消して式内社とした。岡山県真庭市北房町上水田字井殿8425 神社


H27.1.27
延喜式神名帳目次

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