備後國:17座 並小
安那郡[アナ]:2座小
多祁伊奈太伎佐耶布都神社[タケイナタキサヤフツ]
多祁伊奈太伎佐耶布都神社[たけいなだきさやふつ]「下道國造兄彦命、大穴牟遲命 配 稻田宿袮命」馬乗山中腹の上原谷石灰巨大礫の穴に鎮座。出雲の稲田氏が素盞嗚尊、奇稲田姫を奉仕また尾張氏の祖建稲種命などの説がある。広島県福山市山野町上原谷262 玄松子の記憶
二宮神社「大日本根子彦太瓊命、吉備武彦命、鈿女命」広島県深安郡神辺町八尋1203 玄松子の記憶
天別豊姫神社[アマワケトヨヒメ]
天別豊姫神社[あまわけとよひめ]「豊玉姫命、速進雄命、事代主神」広島県深安郡神辺町川北142-2 玄松子の記憶
深津郡[フカツ]:1座小
須佐能袁能神社[スサノヲノ]
素盞嗚神社[すさのお]「素盞嗚尊、稻田姫命、八王子命」備後国風土記の疫隅の国社[えのくまのつにつやしろ]にも比定される。広島県福山市新市町大字戸手天王1-1 玄松子の記憶
天神社「菅原大神、大戸比賣神」広島県芦品郡新市町戸手2135 玄松子の記憶
素盞嗚神社「素盞嗚命」広島県深安郡神辺町上御領602 玄松子の記憶
奴可郡[ヌカ]:1座小
迩比都賣神社[ニヒツヒメ]
爾比都賣神社[にびつめ]「爾比都賣命 または 埴山毘売神、金山毘古神、大山祇神」安政五年復活。東方15kmの権現山(ニヒツ山)には鎮座の跡は見いだせないが、山中には水銀の鉱徴の紅色の土壌が顕著にあり、水銀が検出される所から、祭祀との関わりがしてきされている。広島県比婆郡西城町西城131 魁・神社巡拝記
沼隈郡[ヌノクマ(ヌマクマ)]:3座並小
高諸神社[タカモロ]
高諸神社[たかもろ]「須佐之男命、劔比古神」白鳳五年。剱大明神と呼ばれていたが式内高諸神社に比定され改名した。広島県福山市今津町519 玄松子の記憶
沼名前神社[ヌナサキ]
沼名前神社[ぬなくま]「大綿津見命、須佐之男命」広島県福山市鞆町後地1225 玄松子の記憶
沼名前(ぬなくま)神社
神功皇后西国へ御下向の際、船をこの浦に寄せられた時、海中より尺余の霊石を得た ので神璽として斎場を設け、大綿津見命を祀られ、海路の安全と戦勝を祈られたのが 当社の創祀と伝える。もと渡守(わたす)の辻に鎮座したが、慶長四年(一五九九) 火災により焼失し、福島正則が後地麻の谷に祇園社と並べて再建、承応二年(一六五 三)福山城主水野勝俊夫人が本殿を修造、さらに貞享二年(一六八五)草の谷に 社地を遷して社殿を新築した。当時は渡守大明神と称したが、明治九年、祇園社本殿 へ大綿津見命を遷座し、祇園社の須佐之男命を相殿神とし、祇園社の社号を廃して沼 名前神社と以降は専称する。当社は延喜式内社であり、明治四年、国幣小社に列格し た。また、祇園社は須佐之男命を祭神とし、もと関町に鎮座したが、天長年中(八二 四−三四)後地麻の谷へ遷座したと伝える。保元二年(一一五七)阿闍梨弁祐の勧請 とする所伝もある。延慶三年(一三一〇)沙弥道昭(照)が本願となり再興、永享十 年(一四三八)讃岐国白山の沙門心疑が霊夢を得て再興、福島正則の臣の奉行岡本伝 之丞が舞殿を建立、寛永二年(一六二五)福山城主水野勝重が鳥居を建立する。天和 二年(一六八二)、五間社入母屋造、向拝付の壮麗な本殿を従来の地より南の草の谷 に造営、享保十一年(一七二六)本殿を一段高く引き移す。備後三祇園の一として古 くから著名であったが、明治九年、境内社渡守社の祭神を本社内へ遷し、祇園社の号 は廃された。昭和五十年、火災により社殿を焼失し、同五十五年に現社殿を再建した 。なお、境内にある能舞台は、京都伏見城内にあったものを福山城主水野勝成が拝領 し、万治年中(一六五八−六一)に当社に寄進したものであって、重要文化財に指定 されている。 |
甘南備(かんなび)神社
和銅元年(七〇八)、備後国に悪疫流行の際、時の国司佐伯宿祢麻呂は平素崇敬の出 雲国美保の大神を三室山に勧請し、御祈祷申し上げた処、悪疫退散し、それを喜び大 己貴神(大国主神)と少彦名神を合せ祀りて感謝報恩の誠を捧げ尽した。以来、霊験 顕著にして、天平宝字四年(七六〇)の悪疫流行の際には国司甘南備真人伊香が大神 に祈請し霊験あり、従五位上に叙せられたという。貞観九年(八六七)四月、正五位 下に進み、元慶二年(八七八)十一月、正五位上に進まれた。また『延喜式』神名帳 に列した式内社であり、明治五年に郷社、昭和三年に県社に列した。本殿は創建以来 度々改築され、現在のものは宝永三年(一七〇六)の造営になる。大正十三年に拝殿 再建、その後社殿の整備が進み、昭和三十三年には御鎮座千二百五十年大祭記念事業 として宝物館、三室会館を新築した。なお、永禄元年(一五五八)の旱魃の時にも霊 験があり、毛利元就は田一町余を寄進したが、福島正則により没収されたという。 |