豊前國:6座 大3小3



宇佐郡[ウサ]:3座並大

八幡大菩薩宇佐宮神社[・・ウサノミヤ](名神大)
宇佐神宮[うさ]「應神天皇、多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命、神功皇后」
宇佐神宮由緒記
まず社名について。奈良時代にはただ八幡宮・八幡神宮・八幡神社 八幡大菩薩宮等 と呼ばれていたが、平安時代に京都に石清水八幡宮が創建されてからは、石清水八幡 宮と区別する意味で宇佐宮・八幡宇佐宮・宇佐八幡宮と云うように「宇佐」の字をつ けるようになった。明治六年、官幣大社宇佐神宮となり、昭和二十年、社格制度廃止 により、今の宇佐神宮となった。宇佐の地に初めて八幡神が御示顕になられたのは、 欽明天皇の御代に御許山(おおもとさん)(宇佐神宮奥宮大元神社鎮座)に顕われた 。また同天皇三十二年(五七一)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕わ れ、「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げられたので、この地に祀られたのが 宇佐神宮のはじまりである。
その後和銅五年(七一二)、鷹居社が社殿として初めて造立され、霊亀二年(七一六 )小山田社に移り、神亀二年(七二五)現在の亀山に移され第一之殿が造立された。 天平元年(七二九)には第二之殿、弘仁十四年(八二三)には第三之殿が造立され、 現在の形式の本殿が完成した。養老三年(七一九)大隅・日向の隼人が反起したので 、八幡神は託宣により神輿を奉じて日向まで神官・僧侶と共に行幸され、これを鎮め た。この隼人の霊を慰めるため天平十六年(七四四)、和間浜で「放生会」が行われ た。これが全国各地の八幡宮で行なわれている放生会(ほうじょうえ)の起源ともな った。また天平十年(七三八)、聖武天皇の勅願で境内に神宮寺「弥勒寺」が建立て られた。聖武天皇が天平十五年(七四三)、東大寺大仏建立を発願したが、難工事と なり八幡神に無事完成を祈念した。これにたいし全面的に協力し「われ天神地祇を率 い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」 また大仏に塗る泥金が不足すると「必ず国内より金は出る」と次々と託宣を発し大事 業も無事に完成した。天平二〇年(七四八)には東大寺の守護神に勧請され、その後 東大寺の脇に手向山八幡宮が建てられた。このように八幡神は仏教と早くから融合し 「八幡大菩薩」の称号を賜わった(七八一)。
また孝謙天皇の時、皇位をねらう弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の事件が起き、神護 景雲三年(七六九)に大宰主神中臣習宜阿蘇麻呂(だざいのかんずかさなかとみのす げのあそまろ)は「道鏡を皇位につければ国平らかならん」と八幡神の託宣があった と天皇に奏上した。その真偽を確かめるために和気清麻呂を勅使として宇佐へ遣わし 、「我国は開闢(かいびゃく)以来君臣のこと定まれり、臣をもって君とするはいま だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の者よろしく掃除すべし」と託宣 をうけ道鏡の野望を退け、国体を鎮護することができた。これにより一層朝廷より崇 敬されるようになった。以来勅使は「宇佐使」や「和気宇佐使」と呼ばれ、特に天皇 の即位奉告の勅使には代々和気氏が任命されたので和気宇佐使と呼ばれた。宇佐の地 方神であった八幡神が八世紀には朝廷とむすびつき、国家神にまでになった。さらに 貞観元年(八五九)大和の大安寺の僧行教が「われ都の近く移坐り、王城を鎮護せん 」との託宣を受け、京都男山に八幡神を勧請して石清水八幡宮を建てた。後に鎌倉に 鶴岡八幡宮(一〇六三)が祀られ、弓矢八幡として武士の信仰も厚く、全国各地に八 幡宮が祀られ庶民からも親しめる神となった。建久七年(一一九六)の宇佐大鏡によ ると、平安時代の全盛期には九州の農地八万町歩のうち宇佐宮は二万四千町歩の荘園 があり全体の三分の一を占めていた。この経済力が八幡文化の基礎となり、且つ大分 県の文化・政治でもあった。県北の国東半島では養老年間に八幡神の化神「人聞」( 仁聞・にんもん)が開いたといわれる六郷満山の仏教が開華し、宇佐氏による伝乗寺 や富貴寺などの寺院が建立されて、中世には本山・中山・末山の三山組織ができ、国 東独特の山岳仏教文化が生れた。また県南では大神氏による臼杵石仏に代表される豊 後石仏群が出来上がった。(全国の石像美術の九十パ−セントは県内にある)しかし 源平の争いには平氏に加担したため、緒方惟栄の焼き打ち(一一八四)にあい社殿・ 寺院ことごとく全焼し、多くの財宝や資料を失った。南北朝には大宮司家も二に分裂 して到津家は南朝に、宮成家は北朝につき対立した。この内乱により三十三年に一度 続いた式年造営も出来なくなり、ますます衰えていった。室町時代になると豊前の守 護職大内盛見は宇佐宮造営に着手し、十二年の歳月を掛けて、永享二年(一四三〇) に完成した。このときの造営が古代宇佐宮の名残を留める最後の造営でそのときの遺 産として「応永の古図」や神輿が残っている。戦国時代になると、豊前の大内、豊後 の大友の両氏に挟まれて宇佐宮の神職も武士化した。永禄五年(一五六二)、大友宗 麟の焼き打ちにあい社殿他ことごとく焼失した。このようにしかし武士の時代になる と、神社の経済基盤であった荘園が少なくなり、また何度も戦火にあい急速に衰えて いき、盛時の面影は無くなってしまった。天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州 征伐では神領は没収され、また黒田孝高により平安以来の神宝刀剣九十余振を奪われ 苦難の時代であった。しかし黒田孝高の子黒田長政は宇佐宮の造営を思い立ち文禄元 年(一五九二)、着手して慶長四年(一五九九)には二之御殿が完成した。黒田氏の 後小倉藩主となった細川忠興は慶長六年(一六〇一)、宇佐宮に五百石を寄進し、さ らに慶長十一年(一六〇六)には三百石を寄進し行幸会を復活した。慶長十五年には 三之御殿を造営し、年次社殿堂宇五十余棟を造営して、落ちぶれていた神官社僧百数 十家も禄をえて復帰して、放生会・行幸会の二大行事が復活した。正保三年(一七二 八)には徳川家光が神領十して千石を寄進した。享保八年に上宮が火災のため全焼し て、享保十三年(一七二八)に臨時の造営に着手し、元文五年(一七四〇)頃完成し た。この遷宮を祝い中絶していた宇佐奉幣使として飛鳥井中将が延享元年(一七四四 )、参拝した。文久三年にも本殿を修理して、これが今の本殿である。明治元年の神 仏分離令が出され、廃仏毀釈の旋風も激しく、仏像をはじめ多くの仏教美術品が失わ れた。昭和六十年の勅祭を記念して宝物館を建設し、貴重な文化財の保存や散逸した 宇佐宮関係の文化財の収蔵に勤めている。
神域は7万坪に及ぶ。宇佐平野を見おろす格好の場所に鎮座、政治軍事の中枢をしめるだけだはなく、海上交通の要地である。畿内と半島との行き来が増すにつれ、宇佐の役割は重要性を高めた。 大分県宇佐市大字南宇佐2859  神社公式 玄松子

比賣神社[ヒメカミ](名神大)
宇佐神宮 前掲

大帯姫廟神社[オホタラシヒメノ・](名神大)
宇佐神宮 前掲


田川郡[タカハ]:3座並小

辛國息長大姫大目命神社[カラクニオキナカ・・]
香春神社[かはら]「辛國息長大姫大目命、忍骨命、豐比賣命」
県社香春神社御由緒略
一、祭神及創立
第一座〜辛国息長大姫大目命
第二座〜忍骨命
第三座〜豊比売命
当神社は前記三柱の神を奉斎せる宮祠にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せられ、各 神霊を香春岳上頂三ケ所に奉祀せしが、元明天皇の和銅二年に、一之岳の南麓に一社 を築き、三神を合祀し香春宮と尊称せらる。
延喜式神名帳に在る、豊前一の宮六座の内の三座なり。

二、祭神の御身分
第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座 せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御 神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。第三座豊比売命は、神武天皇の外 祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ、各々三神三峰に鎭座し、香 春三所大明神と称し崇め奉りしなり。

三、御神徳
本神社御祭神の御神徳は、続日本後紀に記述せる、太宰府言上に明かにして、皇室、 国司、郡司、百姓の崇敬、宇佐神宮と相並びて、偉大なりしを觀れば、御神徳の鴻大 なる、茲に人為を以て云為すべきに非ず。

四、神階
仁明天皇承和十年三月三日辛国息長大姫大目命、忍骨命を共に、正一位に叙し賜ふと 神位宣解にあり。土御門天皇建仁元年豊比売命に正二位を奉まつらる。

五、朝廷の御尊崇
御冷泉天皇、永承年中、宣旨を以て、当神社造営遷宮儀式を勅定せられたりしが、順 徳天皇建暦二年八月二十一日宣旨を以て、当神社は、聖朝鎭護無双の霊神なれば、公 家に沙汰をなし三十三年毎に一度造営すべきを勅命せらる、後ち後嵯峨天皇寛元元年 十月八日宣旨を以て、再び、当社造営は、朝家の経営当国の課役となすものなりと、 勅し給ふ。之れにより是を見れば、当神社は、歴代皇室の御尊崇の厚かりしは、聊か も疑ふ可からざる事實なりとす。

六、武家国司の尊崇
前述の後嵯峨天皇寛元元年十月の御宣旨と共に、關東御教書を下して、当社は垂跡年 舊く、霊験日に新たなり。恒例不退の禮奠、皆是れ聖朝安穏の懇祈なり、若し、上代 の嘉跡に背き、造営を致さざるは宣慮恐れ有云々。其後弘長二年四月十八日關東御下 知あり、重ねて文永六年三月二十三日關東御下知を以て、当神社の御造営の儀に就い て沙汰せられたり、尚、当国国司は、毎年春冬二季の祭祀には、必ず国司代を参向せ しめ、神事に随従し傳供を備ふ、其の崇敬宇佐神宮と共に、外に其の例なかりき。 ◎明治四年九月郷社に列せられ、同時に香春神社と改称し、同六年七月十五日縣社に 列せられ今日に至る。
炭坑節の[ひと山、ふた山、三山越え・・」と歌われるのが香春の岳である。一の岳の南麓に鎮座。 福岡県田川郡香原町大字香春733 香春三山のあたり 玄松子

忍骨命神社[オシホネ]
香春神社 前掲

豊比命神社[トヨヒメ・]
香春神社 前掲
古宮八幡神社「豐比命」豐比命は元々ここに祀られていたが、香春神社に合祀されたと伝わる。従って論社ではなく延喜式では香春三神でいいのである。
福岡県田川郡香春町大字採銅所2611


H24.1.27

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