二荒山神社中宮祠・奥宮
栃木県日光市中宮祠2484 mapfan

中宮祠鳥居

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祭神

大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命

登拝門




由緒
 二荒山神社は延喜式の下野国河内郡一座名神大社であるが、日光市と宇都宮市とに鎮座しており、どちらが本来の式内社であるのか、また下野国一の宮であるのか、議論があると言う。
 日光の二荒山神社は二荒山を古名とする男体山への崇敬から生まれたものとされる。
 最古の記録と見られる空海の「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑並序」(弘仁五年(814))によれば、下野国芳賀の人沙門勝道が補陀洛山の登拝を試み、二回の失敗の後、ついに天応二年(782)三月、辛苦の末に山頂を極めた。彼は諸神祇のために経を写し、仏を図し、十七日夜に誓願して「わが図写する経および像らは当(まさ)に山頂に到りて神のために供養し、以て神威を崇め、群生の福を饒すべし、仰ぎ願わくは、善神威を加え、毒竜霧を巻き、山塊前導して我が願いを助け果たせよ、我もし山頂に到らずんば、また菩提に至らず」と唱え、白雪をふりわけてようやくにして頂上に達したという。この補陀洛山とはまさに二荒山(男体山)であろう。

 勝道は男体山頂を極め、山を観音浄土の補陀洛迦に結びつけ、中禅寺を創立、中祠辺を斉庭とし、補陀洛(フダラ→フタアラ・二荒)の山神を奉祀したと言う。山頂に神宮寺を建て、神を祀るというよりは仏教を奉じたと見られる。山頂は太郎山神社と言い、その西北からは多種多量の鏡、太刀などの遺物が出土している。

中宮祠本殿

 『国造本紀』に、「難波の高津朝の御世、毛野国を分かちて上下となし、豊城命の四世の孫、奈良別を初めて国造に定め賜う」とある。
 上毛野国とは、埼玉県北西部(児玉郡あたり)を含めたおおむね群馬県一帯の地で、その中心は赤城山・榛名山南麓の利根川とその支流域とみられる。そして下毛野国は渡良瀬川流域から東方、八溝山地に至る一帯の地で、その中心は鬼怒川西岸地域であり、北は那須国(栃木県那須郡・塩谷郡あたり)に接していたと考えられる。上毛野国・下毛野国の分国以前は毛野国であったとされるが、前記の崇神紀には豊城入彦命が東国(毛野を指すか)を治めたとあり、また景行紀五十五牢の条には豊城命の孫彦狭島王が東山道十五国都督となったが春日穴咋邑で薨じたとあり、景行紀五十六年の条には、そのため子の御藷別王が天皇の命をうけて東国を領したとある。

 これらの文献伝承によれば、毛野国は大和王朝の分枝とみられるが、毛野の地は東国随一の古墳地帯であり、前期から後期にかけての数多くの古墳がある。古墳は初期大和政権によって創出された墓制で、大和政権と政治的関係を結んだ各地域の首長勢力が築造し、漸次日本列島各地に及んだものとみられる。毛野においてもおよそ四世紀中葉ころから広まり、この地の勢力が大和政権に服属しながらも、なお政治的・文化的な独自性をもって発展したとみられる。また古墳文化の様相から、毛野の中心は上毛野であるが、しだいに下毛野の諸勢力も台頭・発展したことがうかがわれる。

 上毛野には推定五世紀代の、東国最大といわれる天神山古墳(群馬県太田市、全長約二一〇メートルの前方後円墳)があるが、下毛野ではそれを上まわるほどの雷電山古墳(栃木県宇都宮市、推定全長約二二〇メートルの前方後円墳)が築造された。下毛野においてこれほどの巨大墳が出現したことは、その被葬者が下毛野各地の首長勢力をほぼ傘下におさめて強大な支配者となっていたことを示すものに相違なく、このころに下毛野は上毛野から分かれて下毛野国となったのであろう。ちなみに佐野市所在の米山古墳も巨大な円墳あるいは前方後円墳である。『国造本紀』にいう下毛野の初代国造の奈良別の墳墓がいずこにあるかは明かではないが、下毛野君は彼に始まるのであろう。

登山口と男体山

 ところで、『二荒山神社縁起』のなかにある「神戦譚」によれば、毛野の山岳の両雄である二荒山(大蛇)と赤城山(百足)がはげしい神いくさをし、弓技に秀でた猿丸の軍功によって二荒山側が勝利したという。この「二荒山縁起」は各種あり、日光山を中心とする狩猟民の信仰を物語るといわれ、またその成立は「宇都宮明神」の狩猟信仰と関係があり、源頼朝の那須野の狩に基因するものと憶測されている。
 しかし「神戦譚」の二荒の大蛇は下毛野国を、赤城の百足は上毛野国を表現したものではなかろうか。また神戦のとき請申したという鹿島の大明神とは、常陸国一の宮の鹿島大明神のことであろう。鹿島神は香取神とともに畿内勢力を代表する武神とされるが、二荒大明神を祀る勢力がこの鹿島大明神の応援をえて、赤城大明神を奉じる勢力としばしは争い、国をとることができたとは、下毛野国が大和朝廷の力をえて分国した史実を語るものではなかろうか(前沢『毛野国の研究』六六一頁参照)。
 以上のように、下毛野そのものを象徴する二荒山明神も、前述のごとくもともとは農耕祭祀に関わる神であり、あるいはその原像は日光の山々に発する雷神に求められるかもしれない。しかしなによりも、諸河川の大水源地である日光の山々を代表するものとして下毛野の野に臨む秀麗な男体山は、それ自体が「神の山」であったのに相違なく、古代の大首長層は河内の地にあってこの山を遙拝し、祭祀を行ったのであろう。

八合目の瀧尾神社



お姿
 優美な姿の男体山の山頂に風雪に耐えてきた祠がある。

奥宮鳥居

奥宮の祠


お祭り
 5月  5日 1日間 開山祭
10月 25日 1日間 閉山祭

『平成祭礼データ』

 日光二荒山神社は太古、秀峰二荒山(男体山二、四八四米)を神鎮まり坐す御神体山として尊崇したことから奉祀された御社である。
 御祭神は二荒山の大神と申し大己貴命(大国主命)、妃神の田心姫命、御子神味耜高彦根命三柱の大神をお祀りし、延喜式名神大社、下野国一の宮と崇められ国幣中社に列せられた名社である。 主神大己貴命は国土経営、産業開発、凡ての産業を司り福の神と称へられ、農業、醸造、婚姻、温泉、医薬の祖神として遍ねく国土国民を守り幸へ給う神で、妃神、御子神と共に御神徳いよいよ高く広く輝き給うのである。男体の御山に大己貴命、女峰の御山に妃神、太郎の御山に御子神が鎮まりまして、親子三神大空に聳えて和気あいあい団欒の和やかさを拝すれば自ら景仰の思ひ新たなるものがある。
 当社の境内地は面積凡そ三千四百町歩に及び伊勢神宮に次ぐ広大な境域で、日光連山の主峰男体山を始め、女峰山、太郎山、大真名子山、小真名子山、前白根山、奥白根山の諸山は夫々神体山として気高くそそり、鬱蒼たる原始林に囲まれ華厳滝、白雲滝、般若、方等七滝等名瀑がどうどうと千古の神韻を轟かしている。此等の地域は悉く神域たると共に日光国立公園の中枢となっている。
以上

参考 『日本の神々 関東』、『平成祭CD』、中宮祠の栞


日光二荒山神社公式

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2011.6 淳子登拝