氷川神社
埼玉県さいたま市大宮区高鼻1 its-mo

三の鳥居

交通案内
大宮駅 東北 1000m

祭神
須佐之男命、稻田姫命、大己貴命 配祀 倉稻魂命
摂社
門客人神社「足摩乳命、手摩乳命」
天津神社「少彦名命」
宗像神社「多起理比賣命、市寸嶋比賣命、田寸津比賣命」
松尾神社「大山咋命」
御嶽神社「大己貴命、少名彦命」
稲荷神社「倉稻魂命」
六社「山祇神社、石上神社、愛宕神社、雷神社、住吉神社、神明神社」
天満神社「菅原道眞」

神橋

神門

拝殿



由緒 

 延喜式の武蔵国足立郡の名神大社である。
 『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸期には、三の鳥居を入った正面に簸王子社「大己貴命一説に訶愚突智)、神池を渡った西側に男体社「本宮。須佐之男命 相殿 日本武尊・大己貴命」、東側に女体社「稻田姫命 相殿 天照太神宮・弉諾册尊・三穂津媛命・橘媛命)が配置されて、三神が別々に祀られていた。

 かっては門客人社は男体社の東にあり、荒脛巾(あらはばき)社と称していた。

 さて、氷川神社は出雲大社からの勧請社であるのかどうかが問題とされている。
 『新編武蔵風土記稿』は、「当社は出雲の肥の川上に鎮座する杵築大社を移したので氷川神社の神号を賜ったと伝える」と書く。これは実にもっともらしい説ではあるが、奈良時代にはまだ日本語の「ひ」は甲類の「日、氷」と乙類の「肥、斐」があり、hi と fi の発音の差があったはずなので、社名が移ったとは言えない。
 現在地の東側一帯は見沼(御沼)とよばれた湖沼があり、これにたいする感謝の気持ちが存在していた。沼に宿る水霊を農耕神として祀って来たものとされている。奈良時代の終わりに、当社は官社となり、封戸三戸が与えられている。武蔵国唯一である。これはその頃国造となった丈部直不破朝呂が氷川神社の祭祀権を手に入れた。かれは大化以前の国造が出雲系の出自を持つと伝えられていたので、出雲系のかみ紙を祀ることにしたのではないかと、宮瀧交二氏は『神社の古代史』新人物文庫 で述べておられる。正鵠を得た論拠と思われる。

本殿


お姿
 浦和から中山道を北へ進み、さいたま市大宮の町筋にに入ろうとする所に一の鳥居がある。そこから参道を1kmほどで二の鳥居、さらに400mほどで三の鳥居がある。それをくぐって150mで神池がある。

 三の鳥居をくぐると、神池をわたる神橋があり、神門があり、回廊の中へ導かれる。舞殿・拝殿・本殿がある。回廊の東側に門客人社と御嶽神社が並んでいる。

 現在の敷地の面積は三万三千坪、江戸期には約九万坪であったが、背後の池や森が明治十七年の寄贈により、現在大宮公園となっている。 。

門客人社


お祭り


例祭  10月 14日

境内案内

 

 氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年 四月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将 の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、 成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となっ て氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式 高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定され た延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り 又臨時祭にも奉幣に預っています。武家時代になってからは鎌倉、 足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し 社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。
 明治の御代に至っては明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵国の 鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。 次いで明治四年には官幣大社に列せられました。
 昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に 御参拝になられ、昭和四十二年十月、明治天皇御親祭百年大祭が執り 行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日 昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和 六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が 御参拝になられました。
 以上

『武蔵野史談』 1956年6月

氷川神社と金子十郎家忠  石井敬三

 武蔵武士として鎌倉時代に謳けれた七党の中で、村山党に属して勇名を馳せた金子十 郎の一党には、金子氏を始め村山、宮寺、山口、黒須、荒波多、仙波、難波田、大井の諸士が相次いで蹶起し、其の内で も七党中随一と云ばれた金子十郎家忠は、弟の近範と共に関東武士の花であった。保元、平治の乱に次いで源頼朝の挙兵 に参加して至る処に軍功あり、治承四年の秋頼朝が北条時政の力を借りて兵を挙げ、石橋山に敗れて遂に房総に逃れ、千 葉氏の救援を求めて武蔵領に入り、時に畠山一族は重忠の父重能並に叔父小山田有重等ば京都に在ったが、金子十郎等と 共に彼の有名な相州衣笠城に三浦義明を攻め立てた。
 竪固を誇る城中には三浦大介義明を始め義澄父子和田義盛等がゐて容易に落城せす、数日の中に途に畠山等の丹党 ば悉で破れ去った。其の時金子十郎が進み出く、三百余騎を卒ゐて陣頭に立ち、二日にして一の城戸を破り、あと二日に して二の城戸を撃ち、遂に堅固の衣笠城を攻め落した。時に治承四年十月十六日のことゝ言ばれてゐる。家忠ば此の功に 依り頼朝より武州金子郷ば勿論のこと、武総の地に地頭職を賜はり、戦ひ終って武蔵郷に入り、此の意気揚々たる馬上姿 で手兵僅か数人を引具して戦勝の御礼と武運の長久を祈願する為めに氷川神社に参籠してゐる。此の日治承四年十二月二 二日と古記に誌されている。
 氷川神社の−の鳥居より駒を進めて神苑に馬を降り、丸に鯱抱合せの紋所を着飾り、弓矢、太刀、道具を小脇に抱 え込んで御神前に額づき、神明に武運の加護を祈ったことであらう。折から冬の北風強く吹き出して神前の燈明が立ち消 え黒々と幽暗の中に身を置き替へた。其の時不思議にも宝前に白髪の老師が暗闇の中に立つて手に燈明を携へて金子氏の 前に進み出で燈火を貸し与えた。家忠け風の中を退って馬の継ぎ場所の大杉御神本の所迄戻り、馬の鐙を外して風をよけ 油に燈火を点けて、再び奉拝して元の駒継ぎの場所造帰りかけると、叉其処に最前の老師が無言のまゝ佇んでゐた。家忠 は辞を低くして御老師ばいづれの御人かと訊ねると、わしば武州大成村の普門院の寺僧ぢやと答え、誘ひ込むやうに家忠 の袖を引いて、貴公を是非御妨に御案内したいと申出でたので、家忠もせかれるまゝに巳むなく、老師と共に氷川神社の 裏山づたへに小径に出て土手村を通つて大成村に辿りついた。
 馬の手づなを握ったまゝの家忠ば寺坊の庭に出て、異様なまなざしで寺の隅々を睨むやうに見入ってゐた。老師ば 丁寧に仏前に案内した。家忠ば小坊の饗なしに答へるやぅに粗茶を飲みほした。夜け更けて凍てるやぅた冬の夜更けだ。 此の夜老師と金子十郎家忠が何を語り合つたかは詳かでない。遂に家忠け禅寺普門院の開基の役を承り今日に至つてゐる 。開基家忠ば武州馬宮村に寺房を建立し、此処に二ケ年移住して入間郷金子圧に帰って、武蔵武士のものゝ憐れを知つた のであらう。其の後数年を経て金子庄に木蓮寺瑞泉院を建立し、当寺の開基として今日に至つてゐる。
 普門院の老師が果して彼の月江上人であったかは詳かでない。叉家忠存命中に氷川大社に鐙(あぶみ)神明燈一基 を奉献してゐるが、私共も此の由来を知らすに幾度か見てゐるが、戦争後御神苑に見当らないので、此の由緒ある御神燈 の所在が今以って惜しく思はれてならない。
 以上

参考 『平成祭礼データ』、『式内社調査報告』、『日本の神々』

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2015.5.17