神田神社
東京都千代田区外神田2ー16ー2 ゼンリン地図

鳥居

交通案内
JRお茶の水駅下車 聖橋を渡る。

楼門


祭神

大己貴命、少彦名命、平將門
摂社
 末広稲荷神社「宇迦之御魂神」
 浦安稲荷神社「宇迦之御魂神」
 魚河岸水神社「彌都波能賣命」
 大伝馬町八雲神社「建速須佐之男命」
 小舟町八雲神社「建速須佐之男命」
 江戸神社「建速須佐之男命」
 三宿稲荷神社「宇迦之御魂神」
 金刀比羅神社「大物主神」
 篭祖神社「猿田彦大神 鹽土翁神 」
 忠魂碑「護國の英靈」

拝殿



由緒
 伊勢神宮の神領の田であったので、神田が地名となった。
 神田の鎮めのために祀られた宮で、祭神は大己貴命であった。社伝によると、聖武天皇の天平二年(730)の創建とされる。場所は武蔵国豊島郡江戸柴崎であった。後に、偶然にも近くに平将門の首塚ができ、これが神社の歴史と絡んでくる。将門の首が京から柴崎に飛んできて、祟りをなしたので、住民は恐怖におののいた。徳治二年(1307)時宗二祖上人が供養し、神田の宮に合祀したところ、ようやく守護の霊に転じたという。
 江戸時代に遷座を繰り返し、元和二年(1616)に当地に遷座し、江戸城の鬼門除けとなった。
 江戸の庶民は将門神に「勝負に勝」といい、今でも勝守(かちまもり)は人気のあるお札である。
 少彦名命は明治七年火急のこととして、常陸の鹿島郡大洗磯埼神社より少彦名命の分霊を勧請し、一方、将門の霊を別殿に遷した。これらは明治天皇の参詣を前にして、逆賊であった将門の霊を本殿から除けたのである。

石獅子と本殿の屋根

お姿 
 現在地に遷座した際、二代将軍秀忠が桃山風の豪華な建物であったと云う。大正十二年の関東大震災では元禄以来の名建築が一朝にして灰燼に帰し、将門の霊を摂社に追い出したのを怒ったとの噂が流れた。昭和九年の再建の際は、将門の霊をもとの相殿に迎えた。昭和二十年の東京大空襲には、拝殿・本殿は奇跡的に焼失を免れた。

 本殿背後に摂社群が並んでぢる。一社毎に神社名、祭神、若干の由緒が書かれた掲示板がある。実に丁寧な神社管理と思われる。

 石獅子江戸時代の石造物。文久二年(1862)、岩石を積み、石を刻み獅子の子落としの作り物を納めたとある。
 大正十二年の関東大震災によって獅子山は崩壊、子獅子は紛失、親獅子二頭で再建した。


お祭り
例祭  5月 15日前の土曜日 神田祭り
 神田祭りは、京の祇園祭り、大阪の天神祭りとあわせて日本三代祭りとされる。

『平成祀祭データ』

 御創建の由来

 当社は社伝によると聖武天皇の天平二年(七三〇年)の創建という。
 はじめ武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町将門塚周辺)に宮居が定められた。
 年移り約二百年後、桓武天皇六代の皇胤なる平将門公が俵藤太に討たれ、その御首は京都に運ばれ東の市に晒された。やがて党類これを奪いかえり塚を築いて葬った所が、当社を離れること百歩の地であったという。
 次いで延慶二年(一三〇九年)には将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付けこの地の守護神にされた。
 天正十八年(一五九〇年)徳川家康公は三河から江戸に移り幕政の地と定め大規模な城下の造成工事が開始された。
 そして元和二年(一六一六年)に当社は現在地に遷座し、江戸城の艮鬼門の守護神となり、二代将軍秀忠の命により桃山風の豪華な社殿が築かれた。
 これより歴代将軍の尊崇厚く、江戸総鎮守として面目を一新した。
 寛永三年(一六二六年)烏丸大納言光広卿が当社に参拝され、将門公が天慶の乱で朝敵とされたことを八所御霊の例に倣い、国家鎮護の社として勅免の沙汰が下り、神田大明神の勅額を賜った。
 また明治元年には勅祭社に准ぜられ、同七年には明治天皇が御親拝された。
 以上


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2015.5.17