< 延喜式神名帳 山陰道 石見國iwami
石見國:34座 並小


安濃郡[アノ]:10座並小

物部神社[モノノヘ]
物部神社[もののべ]「宇摩志麻遲命 配 饒速日命 ほか」島根県大田市川合町1545 神社公式 玄松子の記憶
石見の国一の宮
物部神社
御祭神宇摩志麻遅命は、物部氏の御祖神として知られていおります。御祭神の父神で ある饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯(いかるがみね)に天降 り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開 拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くしたので天皇より神剣フツノミタマノ剣を賜りま した。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、フツノミタマノ剣・十 種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源) その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、 天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て 石見国に入り、都留夫(つるぶ)・忍原(おしはら)・於爾(おに)・曽保里(そほ り)の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃 郡名の起源)とされました。
次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山(つるぶさん)に降りられ国見をして、八百山が大 和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田 の起源)


苅田神社[カムタ]
苅田神社[かりた]「苅田比古神、苅田比神、倉稻魂神 合 國常立神」島根県大田市久手町1942-2 玄松子の記憶
御参拝のしおり
当社は昔から加利多明神という延喜式内の神社であります。苅田の大神は、御神名の 示しているとおり、農業畜産を主宰せられ、五穀豊穣の守護神であります。この地方 における式内社の中でも物部神社に次ぐ重要な地位にあり、上古から年々国幣が献ぜ られました。とりわけ旱魃や長雨等による天候不順の時とか、病虫害発生の甚だしい 時に於ては国司・郡領が命じて当社の祭祀を厳重に行わせ、御神護を祈ったと記録さ れています。更に病魔悪災を刈りとって下さる御霊験があるとして、往古から地方民 の格別篤い信仰が集まった神社でもあります。現存の苅田神社々記によれば、第五十 九代宇多天皇の寛平七年、当町鈴見の里、神谷山の烏帽子端(えぼしばな)という大 巌石の上に、既に御鎮座になっていたといわれますから、創建の時は更に遠い以前の ことでありましょう。その後、万寿三年寅の洪水といわれる、前古未曾有の大水害が あり、山は崩れ谷は裂け、波根湖が大氾濫しました。当社の本殿・拝殿・楼門・回廊 を始め末社等悉く漂流しましたが、幸い御神体の内二体が、矢代柳の大樹にかかって 、それを奉遷することが出来ました。こんどは神谷山の麓に社殿を造営しましたが、 これより昭和三年まで、実に壱千年の間の、御鎮座の地となりました。

又当社の御祭神の内に、倉稲魂命さまがおいでになります。この神様は、一般的には 正一位稲荷大明神と申して、商売繁盛、福徳開運十種の神様として、庶衆の信仰の厚 いところであります。然しながら、この神様も亦、本来、稲作の神様であり、苅田の 大神様とは表裏一体をなす御神格であります。

明治四十年には、久手町や柳瀬(やなぜ)の里に、それぞれの鎮守さまとして祭って いた両所の大元神社が、政府の指導に基づいて、当神社に合祀されました。御祭神は 国常立命と申し、国土創世にお出ましになり、万物万象を生成化育し調和を掌り給う 神様であります。この苅田神社が、永い間、神谷山麓に鎮座されたわけでありますが 、その間、当神社の御霊験があらたかとて、御神徳を慕った大田、稲用、久利方面の 百姓たちが、御神体を持ち出そうとして、神社の争奪に及んだという伝説が残ってい るのも、誠に面白く意義深いことと申せましょう。然しながら神谷山麓は、名に負う 湿潤地帯で、建造物にとってふさわしからぬ所でありまして、且つ時代の変遷と共に 、氏子の生活圏の中心が、旧山陰道筋から、次第に海岸線へと移り行くにつれて、早 くから神社移転の要望が出て来ました。やがて、それが運動へと盛り上がり、関係筋 への陳情を重ねた結果、ようやく認可を頂き、昭和三年の春、歴史的聖地神谷山麓か ら、現在地へと御動座になりました。



刺鹿神社[サスカ]
刺鹿神社[さつか]「譽田別尊、息長足媛命、武内宿禰 合 大彦命、國常立命」島根県大田市久手町刺鹿1475 玄松子の記憶 松江と周辺の神社・仏閣

朝倉彦命神社[アサクラヒコ]
朝倉彦命神社[あさくらひこのみこと]「朝倉彦命 合 大物主神、素盞嗚尊」島根県大田市朝山町463 玄松子の記憶

新具蘇姫命神社[ニヒクソヒメノ]
新具蘇姫命神社[にいぐそひめのみこと]「新具蘇姫命」島根県大田市川合町吉永字中家606 玄松子の記憶

迩弊姫神社[ニヘ]
邇弊姫神社[にべひめ]「埴夜須毘賣神 配 大屋津比賣神、抓津比賣神 ほか」島根県大田市長久町土江一丁1
邇弊姫神社「邇幣姫神、多紀理毘賣神、狹依毘賣神、多岐都比賣神」島根県大田市三瓶町池田303 玄松子の記憶

佐比賣山神社[サヒメ・]
佐毘賣山神社[さひめやま]「大己貴命、少彦名命、須勢理姫命」佐毘賣山は三瓶山の古名である。(万葉集1247)大汝少御神(おおなむちすくなみかみ)の作らしし妹背の山を見らくしよしも と詠われている。
多くの神話伝説がある。死体化生型の伝承「ソシモリにオオゲツヒメと言う五穀の神がいた。荒ぶる神に斬り殺されたが、その時体の各部から馬や麦を生じた。末子のサヒメは赤雁に乗り、比礼振山にとまり、さらに三瓶山に来てその種を播き殖産につとめたと言う。 この説話はモルッカ諸島にもある穀物生成物語であるが、荒ぶる神を素盞嗚尊とし、五十猛命ほかがソシモリから木種を持ち帰る話など、複合している。 島根県大田市三瓶町多根305 玄松子の記憶
佐用比売神社「松浦佐用比賣命」島根県大田市鳥井町鳥居369 玄松子の記憶


野井神社[ノヰ]
野井神社[のい]「神皇産靈神、譽田別尊、息長足姫尊」島根県大田市長久町字入59 玄松子の記憶
野井神社「由緒」
社伝には、桓武御宇延暦十一年(七九二)九月十五日伊勢安濃郡八幡を遷す、と「頭 註抄」を引用しており、貞観年間授位も記されておる。これはこれとして次の「此地 に天然の泉ありて、旱天にも渇せず、霖雨にも濁らずして清水湧出す。此泉を根拠地 として、原始林の切り倒しをはじめ、耕地を開墾す。依て此地を入りと云い、社を切 り入りの宮と称す。此地方で最初に開けた処にして、国造の居館の地か、石見国造は その後邑智郡吾郷村に移れりという。その地にある天津神社は当社を遷したるものと 云う。吾郷は安濃郡の義にて近くに野井の地名もあり云々」とあるが、現在の野井神 社は、明治四十一年七月旧村社野井神社と明治六年以来の郷社、入山八幡宮を合併し 、郷社野井神社と称し、さらに明治四十一年十月、字用田(もちだ)鎮座の亀山八幡 宮を合併し、さらに明治四十四年一月、山王神社(祭神大山祇神)と王子神社(天照 皇大神)を合祀した。このため由緒の重なった点もあると思われる。この点社伝に「 元亀年間、源朝臣小笠原与次郎長旌、同上野介長実等大いに崇敬し、社殿の再建をな す。慶長五年(一六〇〇)毛利輝元当国の守護たりし時社殿再建」等の記録は八幡宮 関係のものと思われる。神社周辺に、御供田・天神分・卜定田(うらべた)等の地名 が残っている。明治四十一年十一月神饌幣帛供進の神社に指定された。


静間神社[シツマ]
静間神社[しずま]「大己貴命、少彦名命」大汝少彦名(おおなむちすくなひこな)のいましけむ志都(しづ)の石室(いはや)は幾代経ぬらむ(万葉集355)島根県大田市静間町垂水1765 神社

神邊神社[カムベ]
神邊神社[かんべ]「大彦命、伊弉册命、事解男命、速玉男命」島根県大田市鳥井町鳥越字宮山142-2 玄松子の記憶


迩摩郡[ニマ]:5座並小

城上神社[キノウヘ]
城上神社[きがみ]「大物主命 合 武甕槌命、齋主命、天兒屋根命」島根県大田市大森町イ-1477 玄松子の記憶
城上神社
御参拝のしおり
御祭神大物主神又は、大黒様の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして 、詳しくは倭大物主櫛瓱魂命と申し上げます。この神様は神代の昔、少彦名命と協力 して、この国土を拓き、農・工・商すべての産業開発・方除・治病・禁厭・造酒・製 薬・交通・航海・縁結び等、世の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神で あらせられます。
当神社の社伝によりますと、もとは石見国東海岸にある馬路(まじ)の高山に鎮座。 航海安全と海防の神として信仰をあつめていましたが、永享六年(1434)に大内 氏が銀山を手に入れると彼の守護神として大森の香語山に遷し、天正五年(1577 )に毛利氏が銀山を手に入れるや現在鎮座の地に遷して城上神社大森大明神と申し上 げていました。大森の名は此の地に一本の大樹が森をなす如く大きく繁茂していて、 この大樹を中心として大いに信仰をあつめたもので、この名が付けられたといわれ、 一方大森町という地名もここから称えられたものと伝えられています。おしくも寛政 十二年(1800)の大森町の大火で社殿と共に類焼してなくなりました。
年に一回行われます秋の大祭の御幸祭の御幸地は一キロメートル程離れた長砂(たか さご)という飛地境地内でありまして、ここは少彦名命をまつる天真神社長砂大明神 がありまして、大物主大神が世の幸福を増進するために少彦名命と御相談される御幸 祭とされて現在も続けられています。


山邊八代姫命神社[ヤマノヘノヤシロヒメ]
山辺八代姫命神社[やまべやしろひめのみこと]「天照皇大神」島根県大田市久利町久利1499 玄松子の記憶
山辺八代姫命神社
山辺八代姫命と申すのは天照大神の別名で今から約千二百年前の延暦二年(七八三) 大和国宇多郡笹幡宮(現存し、伊勢におうつりになる前の宮)より勧請、古くは延喜 式内社として国幣をたまわり、久利郷八ケ村の総氏神として栄え、又相殿の八幡宮は 約七百年前京都の石清水八幡宮より勧請、久利氏・毛利氏の崇敬あつくまた延命長寿 の神としての信仰があり、旧社領六石五斗は毛利氏の寄付による。

山邊八代姫命神社「天照大神 合 豐石窗神」島根県大田市大代町新屋1703 玄松子の記憶

霹靂(白落)神社[ヒヤクラク]
霹靂神社[びゃくらく]「別雷神、玉依姫命」島根県迩摩郡温泉津町湯里1684 玄松子の記憶

水上神社[ミツカミ]
水上神社[みずかみ]「上津綿津美神、上筒男神」島根県大田市温泉津町湯里字西田281 玄松子の記憶

國分寺霹靂神社[ヒヤクラク]
國分寺霹靂神社[こくぶんじへきれき]「別雷神、玉依姫命」島根県迩摩郡仁摩町仁万1606 玄松子の記憶
霹靂神社「?」この町には五十猛神社韓神新羅神社が鎮座。 島根県大田市五十猛町 霹靂神社は五十猛神社に合祀された。
國分寺霹靂神社「雷神 配 事代主神、國常立命 ほか」島根県浜田市国分町1905-3 玄松子の記憶
由緒掲示板
御祭神 雷神 事代主神 国常立命 心吉神 
当社は石見国国分寺の鎮祭で往昔現在 の迩摩郡仁万町東光寺が代用国分寺として指定された時創建されたものを後世現在の 国分・着の地に国分寺が創建されるに至った時共に移されたものであるが次第に周囲 の崇敬が厚くなり氏神として祀られる様になった。明治41年9月7日字心吉の地に 神社を移した。



那賀郡[ナカ]:11座並小

多鳩神社[タハト]
多鳩神社[たばと]「積羽八重事代主大神」大化の頃勧請したと言う。島根県江津市二宮町神主イ307 玄松子の記憶
社頭掲示
積羽八重事代主神(えびすさん)は神代の昔、石見の國、開拓の為、当地に留り給ふ と伝えらる。
はじめ多鳩山の山上なる古瀬谷に鎮座せられ北西に面し、あたかも日本海の中心を御 守護ありて、御神威は沖を航海中の船舶をしばしば停止せしめ給ふと伝ふ。
文安年中、山麓の現社地に奉遷す、寛平三年二月「正一位」を賜り延喜の制、小社に 列せらる。
石見の國二宮として朝野の崇敬厚く、都野郷の宗社(現氏神)にして末社二十五社あ り、神領六十石二斗三升を領有してゐたが、明治四年本末社領とも上地となり明治六 年五月県社に列せらる。


津門神社[ツマ]
津門神社[つと]「田心姫命、米餠搗大使主命」島根県江津市波子町イ-1018 玄松子の記憶
社頭掲示
一、鎮座地、江津市波子(はし)町イ一〇一八番地
一、主祭神、田心姫命(たごりひめのみこと)米餅搗大使主命(たがねつきおおおみ のみこと)配祀神大年神(おおとしのかみ)倉稲魂神(うかのみたまのみこと)
一、由緒
津門神社は、延喜式神名帳に「那賀郡拾壱座並小」とある中の一社で、、当地方の氏 族の長であった津門首(つとのおびと)直系の者が、宇多天皇の寛平三年(八八七年 )筑前宗像から素盞嗚尊(すさのおのみこと)の三女神の中の一柱たる田心姫命を勧 請するにあたり、かねてより祖神として祭っていた米餅搗大使主命をこれに配祀し、 氏の名「津門」をもって社名としたものと考えられる。
境内外郭林由緒略


伊甘神社[イカム]
伊甘神社[いかん]「天足彦國押人命」溝咋姫命とする説もある。島根県浜田市下府町903-2 玄松子の記憶
由緒掲示板
御祭神 天足彦国押人命 
延喜式神明帳に「石見国那賀郡十一座小並伊甘神社云々」 。三代実録に「貞寛十一年甲申石見国従五位勲七等下元慶三辛卯授石見国正五位下勲 七等伊甘神社正五位上云々」明治5年村社に列し幣帛共進神社に指定せられ昭和21 年8月1日宗教法人令に則る神社として神社本庁に従座した。


大麻山神社[オホマヤマ]
大麻山神社[おおあさやま]「天日鷲命」島根県那賀郡三隅町大字室谷1097 玄松子の記憶

石見天豊足柄姫命神社[・・アメトヨタリカラヒメ]
天豊足柄姫命神社[あめのとよたらしからひめのみこと]「天豐足柄姫命」島根県浜田市殿町77 玄松子の記憶
由緒掲示板
石神社記 浜田県権令正六位佐藤信寛撰
石神社祀 石見天豊足柄姫命也世伝神化石事其説凶女誕不可信蓋神創闢石見国有功徳 於民故民祠祀之也観其列在式内當時祠宇之壮祀典隆可知焉中古呂降禍乱相踵頽敗而不 修者数百年王政維新廃藩置縣信寛承之地方奉朝廷敬神之旨原石神之所由詳其可興復於 是新作祠宇挙祀典議為縣社欲使縣民永有尊崇也記之以鏡乎石
明治七年一月
同縣貫属 堀松陰敬書


大祭天石門彦神社[・・イハト]
大祭天石門彦神社[おおまつりあめのいわとひこ]「天石門別命 配 建御名方命」島根県浜田市相生町1571 玄松子の記憶
参拝のしおり
主祭神は、手力男命  配祀神は、建御名方神
石見の国三宮として創立年代不詳なるも、阿波忌部族が第15代応神天皇の朝石見の 山守部となった時に勧請と伝えられ延喜式内社である。建御名方命は仁明天皇の承知 2年12月信濃国諏訪神社より勧請後鳥羽天皇文治年間に正一位三宮大明神の称を許 されている。武将の祈願信仰もあり朱雀天皇の朝、右近衛少将小野好古郷西下し藤原 綾友の乱を平定に際し祈願奉幣の事有り。又毛利、吉川の祈請奉幣あり社領も36石 3斗6升があり、古来より信仰の篤い神社である。明治6年県社に定められ三の宮と して国司の巡拝の信仰から庶民信仰が生まれたのは鎌倉時代の12、3世紀の出来ご とである。現在島根県神社庁より特別神社に定められている。

石見の三宮は 浜田川の河畔三ッ子山の麓に有り、此の山には高さ4間幅6間あまり の大きな岩石があって本殿は其の前に建っている。又本殿の西側には烏帽子岩が有る 特殊神事に贄狩祭がある 此の祭りは往古12月1日から翌年1月25日まで山狩を なし獲物の鹿を供え村内を始め近郷40ケ村の平穏繁栄を祈願した。鹿足郡は鹿を供 え美濃郡は「みの」を献した慣習から其の地名が生じたと伝えられている。その後氏 子10ケ村及び原井、浅井、長沢、黒川、後野、小笹、伊木、七条、細谷、旧浜田以 東の区域で御狩を行っていたと伝えられている。現在は1月25日を祭日とし、さざ えの酢物、くわ形もち、あおきの箸、かずらの輪にしたもの、神饌に合わせ猪の肉を 供えて祭典を行い祝詞のあとに万才楽を奏上する慣習がある。



大飯彦命神社[オホイヒコノ・]
大飯彦命神社[おおいひこのみこと]「大背飯三熊大人」島根県江津市松川町太田199 玄松子の記憶

櫛色天蘿箇彦命神社[クシロノコケカ・・]
櫛色天蘿箇彦命神社[くしあめのこけつひこのみこと]「櫛色天蘿箇彦命」島根県浜田市久代町1559 玄松子の記憶
由緒掲示板
御祭神 櫛色天蘿箇彦命 大年神 御年神  
元大字久代字稲葉に鎮座、延喜式石見 国34座の内式内神社にて重要な古社である。櫛色族の祖である天足彦国押人命の御 子を祭神とし益田市久城鎮座久城賀姫命神社と関係が深い。大年神御年神伊二神は大 字久代字庵の上に鎮座大年神社称していたが明治44年11月22日櫛色神社に合祀 し櫛色天蘿箇彦命神社と称す。大正7年7月3日全焼、大正9年11月再建現在地に 遷座鎮祭した。


大歳神社[オホトシ]
大年神社「大年神、稻倉魂命」島根県江津市都野津町1554-1 玄松子の記憶
社頭掲示
式内大年神社、御祭神大年神、稲倉魂命、例祭11月1日
当神社は第四十五代聖武天皇の御代、神亀二乙丑年六月朔日伊勢別宮より、都濃郷大 年免に鎮座、正徳元卯年都山(現地)に遷座せらる。
清和天皇貞観十三年従五位上代賜り国史現在社であります。
当地の氏神様として産業の守護神として崇敬せられております。

大年神社「大年神」「國常立尊」島根県江津市和木町41 玄松子の記憶
大年神社「大年神」島根県江津市渡津町塩田2070 玄松子の記憶
大歳神社「?」島根県江津市跡市町千田大歳 未確認
大歳神社「大年神 配 倉稻魂神」島根県浜田市元浜町222-2 玄松子の記憶
由緒掲示板
社伝によると当社は、聖武天皇の御代神亀2年6月朔日。伊勢国伊雑宮大歳社勧請し た。清和天皇の御代貞観13年4月神階従五位上に列せられた
後一条天皇の御代寛仁年4年中納言常方石見国へ巡察の時、両面御宝鏡を寄進せられ た。小石見34座の内式内社と伝承されている。島根県告示第326号をもって明治 39年4月勅令96号に依り神饌幣帛料を供進することを得べき神社に指定せられた。

大歳神社[おおとせ]「大歳神、國常立命」島根県浜田市弥栄町小坂248-2 玄松子の記憶

山邊神社[ヤマヘ]
山邊神社[やまべ]「都都御魂、素戔嗚尊、稻田姫命」島根県江津市江津町郷田113 玄松子の記憶
社頭掲示
当神社は白雉3年第36代孝徳天皇の御代大和國山辺郡石上より都々御魂神を勧請し 貞観11年播州広之峰より素盞嗚男尊稲田姫之命三女神五男神を遷合祀した。
古来厄難退除災除開運の守護神として広い信仰を集め昭和49年第60回伊勢神宮式 年遷宮には神宮より内宮殿御用材60石が下賜せられ現在の社殿が建立された。
昭和50年には別表神社(神社本庁)特別神社(県神社庁)に指定され社運の隆盛を 加えた。
境内には四柱神社・白竜の霊石がある。

八幡宮境内摂社山邊神社「布都御魂神」島根県那賀郡旭町大字和田字八色山1739 玄松子の記憶
岩根神社境内の稲荷神社に合祀 島根県江津市嘉久志字鑪山2454-1 玄松子の記憶
八幡宮 島根県江津市敬川1768-1 未確認

神社[ヤス]
夜須神社[やす]「應神天皇、大己貴命、多紀理比賣命、多岐都比賣命、狹依毘賣命」島根県江津市二宮町字神村神谷山1749 玄松子の記憶


邑智郡[オホチ]:3座並小

天津神社[アマツ]
天津神社「高皇産靈神」石見三宮。島根県邑智郡邑智町吾郷1832 玄松子の記憶
天津神社縁起(バンフレツト)
当神社は古来石見三宮として尊祟された延喜式神明帳に登載されている神社であって 、天武天皇(第40代)御宇 白鳳乙亥4暦(西暦675)9月吾郷の地天津越の麓 二尾山に創立、その後(年暦不祥)現今の地に移転す。
清和天皇(第50代)貞観九亥(西暦867)6月には『正1位本座大明神』の御神 號を勅許せられ、後柏原天皇(第103代)大永5天乙酉(西暦1525)6月には 、地頭三善元親、清繁、元定の3人が勅額を受て奉納している。
国の『重要無形民俗文化財』である大元神楽の記録で最古のものは、当神社に保管さ れている後水尾天皇(第107代)元和元乙夘(西暦1615)8月記載の「大元舞 熟書之事」である。
往昔は、宏壯森厳にして鳥居も3基あったという。今尚昔の鳥居の踏石が畑の中に残 ってていると言われている。
吾郷村、乙原村、志君村、簗瀬村、明塚村、野井村、高山村の7カ村の産土神あった が、明治7年郷社に列せられ、邑智105カ社村の宗社として吾郷村天津神社と矢上 村諏訪神社の2社が定められ、53カ村(現在の川本町、邑智町、大和村、大田市祖 式、赤来町谷)が当神社に所属した。
御祭礼には、流鏑馬の神事、雄建び、シャギリの行事があったが、現在は子供達の奏 でるシャギリの行事以外は行われていない。


田立建埋根命神社[タゝチタケホリネノ・]
田立建埋根命神社[たたちたけまりねのみこと]「建眞利根命、大山祇神」島根県邑智郡大和村字宮内3029 玄松子の記憶
掲示板
御祭神は、建埋根命、大山祇神外十神であって御鎮座は、社蔵棟札に清和天皇、貞観 九年伊豫国大山祇神社より勧請す、と記されてあるが、之は大山祇神を勧請したもの に相違あるまい、建埋根命は、其以前尾張族が祖神として奉祀したものと思われる、 それは、延喜式神名帳に所載されている神社名から見ても明らかである、けれども其 年代は知るべき記録がない、昭和二十一年三月宗教法人となる。


大原神社[オホハラ]
大原神社「武甕槌命、齋主命、天兒屋根命、比賣大神」島根県邑智郡石見町日貫3378 玄松子の記憶
掲示板 郡内式内社三座の一であって、文徳天皇二寿元年二月京都大原野より勧請した。江川 盆地に沿い開拓の祖、尾張族が拡大繁昌して領地を拡めるため神社を建設した。



美濃郡[ミノ]:5座並小

菅野天財若子命神社[スカノノアメノタカラワカコ・]
若宮神社「天若日子命、下照比賣命」島根県美濃郡匹見町大字石谷ロ1323 風姿

賣山神社[サヒ]
佐毘賣山神社[さひめやま]「金山彦命、金山姫命、埴山姫命、大山祇命、木花咲耶姫命」島根県益田市乙子町51 玄松子の記憶
佐毘賣山神社
参拝のしおり
当社は上古比礼振山の山頂に鎮座ありて金山姫・埴山姫・木花咲那姫の三柱の姫神を 祭る姫山神社がそもそもの始である然に寛平五年(893)美濃郡(岐阜県)中山南 宮神社より金山彦命を遷して、正殿に金山彦命・金山姫命を祭り相殿に大山祇命・埴 山姫命木花咲那姫命を祭りて是より五社大権現と申し奉るなり延喜二年(902)授 位四位当地最古の延喜式内社である。
更に貞和四年(1348)雨乞せし時大和の国吉野山より闇霞神広國押武金日天皇( 安閑天皇)を遷し別殿に祭り蔵王権現と称するに至れり、下りて文安三年(1446 )山の中央に更に萬治三年(1660)現在地に遷し明治三年佐毘賣山神社と改称し 同五年神殿拝殿共に改築し現在に至る。
祭神木花咲那姫命は山の神大山祇命の姫御子として三月三日内裏雛であり我国御内裏 の始なり又康暦二年(1380)には迩摩郡大森銀山へ守護神として金山彦命を当社 より御幣を別けて遷し祭るなり。
益田越中守も代々厚く当社を信仰され中古より此の地は益田より都茂に至る街道とし て人馬の往来も多く権現様として人々の信仰厚く諸人の広く知るところである。

染羽天石勝命神社[シミハアマイシカツ・]
染羽天石勝神社[そめはあめのいわかつ]「天石勝命」上古石見地方を開拓した春日族の祖神を祀った。神亀二年鎮座。摂社に大元神社「國常立命」島根県益田市染羽町1-60 レジャースポット 玄松子の記憶

櫛代賀姫命神社[クシゝロカ・]
櫛代賀姫命神社[くしろかひめ]「櫛代賀姫命」島根県益田市久城町963 玄松子の記憶
由緒沿革
祭神は櫛代族の祖神にして天平五年丑五月管長の命により社殿建立、大同元年石見観 察使、藤原緒継が鎌手大浜浦より現在地久城明星山に御遷座、人皇第五十四代仁明天 皇の承和七年申八月再建爾来延喜式所載の神社として朝野の尊崇深く、殊に益田氏七 尾城入城後は崇敬厚く、人皇第百六代正親天皇の天正十二年甲申益田越中守全昌公社 殿を再建し社領十二石を奉納せらる。
其の後も社殿の造修築数度ならず、人皇第百二十代仁孝天皇の御代文政六年石見国二 十一個村の総氏子により本殿其の他の大修築をなし益田地方及美濃郡、鹿足郡に渉る 総氏神として尊崇競られる。
大正八年三月六日旧郷社昭和十二年旧県社となる。


小野天大神之多初阿豆委居命神社[オノノ・・・]
小野神社「小野天大神之多初阿豆委居命」島根県益田市戸田町字松雲山イ-858 玄松子の記憶
参拝のしおり
本社は小野村大字戸田字小野山に鎮座宇多天皇の御宇寛平三年勧請慶應四辰年五月六 日式内神社たるにつき津和野藩主亀井茲監公より大宮司を置かれ祭典料を供進せらる 。
明治四年三月十五日藩主より本殿及び神楽殿御再建藩臣后阿正多良福羽美静をして其 の任に当たらしめ同年八月藩主より八ッ花形の御神体及び四つ目御紋幕の御奉納あり 時に八庄屋二十ヶ村二千有全戸の崇敬神社たり。 明治五年十月浜田県知事佐藤氏大屬高島氏参拝幣帛を供せられ明治六年五月に村社に 列せらる。
然るに本社は境内地狭益なるを以て明治三十九年十二月二十九日同村大字同所松雲山 元村社八幡宮境内地へ移転し其の建物全部使用の件出願自四十年三月二日許可を得て 同四十一年九月二十五日移転を行う明治四十四年三月四日神饌幣帛料供進神社に指定 せらる。昭和五十年四月吉日千二百年式年大祭を奉祝す。



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