和泉國:六十二座 大一座 小十一座



大鳥郡和泉郡日根郡

大鳥郡[オホトリ]:二十四座 大一座 小廿三座

大鳥神社[オホトリ](名神大。月次新甞。)
大鳥神社[おおとり]「日本武尊、大鳥連祖神」大阪府堺市鳳北町1丁1-2 大鳥神社公式 玄松子の記憶

大鳥大社由緒略記
当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、和泉 国の一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社八十五社の 一つであって、しばしば臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観三年七月には従三 位に叙せられ後正一位に御昇階になりました。

御祭神日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られているところであ りますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、にわかに病におかかりに なり、伊勢国能褒野に於て死去あそばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去り給い、 最後に当所に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたのが当社の起 源であって今から約一、八五0有余年前であります。

また、大鳥連祖神様は、この和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にする大 鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先とする と伝えられております。当社は明治四年五月祭神日本武尊として官幣大社に列格にな りましたが、明治九年一月天覧に供しました官社祭神考証においては、祭神大鳥連祖 神とせられ、明治九年以来この説が公のものとせられていたので、以来当社の歴代宮 司は度々御祭神の御変更方を禀請致しましたが、ついに明治二十九年十月三日付を以 て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条左様御承知有度」 との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としてはこれ以上は神社側の 主張を通す方法はなかったのでありましたが、偶々昭和三十二年六月二十八日付にて 、祭神日本武尊増祀の御允許を得ることとなり、ここに御祭神に関する問題も決裁し 日本武尊様を主祭神とする二座の御社となり御神慮に御応え申すことが出来たのであ ります。

御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父子が 熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織田、豊 臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度にわたって奉仕しております。 また、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に勧学院神鳳寺を建立し ましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。



山井神社(鍬靫)
櫻井神社に合祀「譽田別命、足仲彦命、息長帶比賣命」桜井朝臣の一族がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。大阪府堺市片蔵645

大鳥神社[オホトリ](鍬靫)
大鳥北浜神社「吉備穴戸武媛命」大阪府堺市浜寺元町3丁239
大鳥神社摂社の大鳥北浜神社「吉備穴戸武媛命」大阪府堺市鳳北町1丁1-2 現在はないようだ、

美多弥神社[ミタミ]
美多弥神社[みたみ]「天兒屋根命、須佐之男命」大阪府堺市鴨谷台1丁49-1 神々の坐す杜

美多弥神社
美多弥神社は、平安期(七九四年〜)、醍醐天皇時代に作成された神社戸籍簿の延喜 式神名帳に記載されている由緒ある式内神社であります。鎌倉時代の永仁二年(一二 九四年)、和田家古文書の沙弥性蓮処分状によると既に神社で流鏑馬の行事が行なわ れていたと記載されています。南北朝時代には楠木正成の守護神として崇められ広大 な境内に大樹が生い茂り堂々とした神社でありました。太平記によると、足利尊氏の 執事、高師直、師泰の軍と四条畷の戦いで楠木正行と共に戦った和田新兵衛、和田賢 秀は当地美木多の和田家の祖である。一五〇〇年代には、美多弥神社の境内に、得泉 寺があり、織田信長の加護を受け紋を織田家の五瓜と定め現在に至る。しかし、天正 五年(一五七七年)、和歌山の雑賀衆制圧のために兵を起こした織田信長軍に近くの 放光寺とともに神社は焼かれた。安土桃山時代の文禄元年(一五九二年)楠木一族の 和田六右衛門が菊水の紋(楠氏の紋)が入った燈篭一対を奉納された。神社本殿は、 明治時代に新しく建てられ、拝殿他は昭和四十七年修改築す。昭和四十八年、境内の シリブカカシ(いっちん)が、天然記念物に指定され、平成二年大阪府の緑の百選に 選ばれる。



押別神社[オシワケ]
大鳥大社摂社の大鳥美波比神社に合祀[おおとりみはひ]「天照大神 配 菅原道眞」大阪府堺市鳳北町1丁1-2

生國神社[イククニ](鍬靫)
開口神社に合祀[あぐち]「鹽土老翁大神、素盞嗚大神、生國魂大神」大阪府堺市甲斐町東2丁1-29

船待神社「天穗日命、菅原道眞」大阪府堺市西湊町1-2-18 志賀剛博士の説。

火雷神社[イナヒカリ]
陶荒田神社に合祀[すえあらた]「高御産靈大神、劔根命 配 八重事代主命、菅原道眞」大阪府堺市上之1215

愛宕神社「火雷神」堺市中区福田484 陶荒田神社に合祀された跡地に建立されたとされる。二宮正彦氏。



石津太神社[イハツタノオホ]
石津太神社[いわつた]「蛭子命、八重事代主命、天穗日命」孝照天皇七年創建。 大阪府堺市浜寺石津町中4丁501

石津太神社 延喜式内社にして、我が国最古の戎社と称せられる当社は、伊奘諾命、伊奘册命夫婦 となり、蛭子命をお生みになられたが、命三才に成られても尚、立ち給ふこと能はざ りしかば、天磐樟船に乗せて順風に放ち棄て給ひしに、船は波に従い飄々として海岸 に漂着し命は其の携へ来りし五色の神石をここに置き給い、此の地を石津といい、其 の船の着きし所を石津の磐山という。後遥に年を経て、五代孝照天皇七年八月十日初 めて、宮柱太しく建て給ひて、蛭子命を祀り更に、八重事代主命、天穂日命を合祀す る。平安朝以後、朝廷の御幸幾度かあり、神階も加増せられ、境内は八町四方を有し 、社殿は甍を並べる壮観さを呈していたが、元和年間以後数度の兵火に罹り社殿は悉 く烏有に帰した。のちに、豊太閤は大阪城築城に際し、当社を裏鬼門の鎮守神として 崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金金若干を寄進したと伝える。全国に崇敬者 あり、明和六年、江戸湯島天神へ、同年八月に坐摩神社で出開帳し、又、前年には神 札頒布について、西宮神社との係争が和解したという記あり。明治四十一年十二月諏 訪神社を合祀する。


石津神社[いしづ]「八重事代主神、大己貴神、天穗日神」孝昭天皇の御宇創建。大阪府堺市石津町1-15-21

石津神社御由緒
当宮の起源は古く、人皇五代孝昭天皇(西暦前四七五年)の御宇七年八月十日、勅願 により創建されたと伝えている。当宮は延喜式神名帳にも見られる日本最古の戎神の 宮として広大無辺の御神徳を垂れ給い、石津の地はもとより付近各地の人々の心の拠 り処として篤い崇敬を集めております。

社伝を抜粋しますと、往古、事代主神、此地に降臨のとき五色の神石を携え来りて此 に置き給う、故に石津と名づく。人皇十一代垂仁天皇の御宇、天穂日命十四世孫、野 見宿祢を当宮の神主と定め給う。仁徳天皇、石津に行幸あり、祈年穀の祭には毎年官 幣使を立て給う。孝徳天皇、白雉三年(西暦六五二)に当宮に行幸ましましてこの時 、御手洗川に御鏡を落とし給う。是れに依りて御手洗川を益鏡の小川という。(石津 川)孝謙天皇、天平勝宝元年(西暦七四九)に行幸し給い同五年春正月、神主紀伊守 を内裏に召して禄を給う。同天平宝字元年夏五月、紀伊守に藤原朝臣の姓を給いて従 三位大納言を授けられ、河内の狭山・野田の二村を神領とせられる。当時は社頭も広 く、新堂の岸を西にして、それより八町四方に及ぶ。大社と云えることは、柱は太く 板は厚く造り、社頭は巍々とし殿宇は厳然として広大結構類いなく、出雲大社に次ぐ 御社なればなるべし。その後平火の為に社殿悉く烏有に帰し、広大なる神領も失われ 、後、漸次建営せり。後醍醐天皇行幸し給いて奉幣し給い、その上、神官に冠、及び 沓を賜る。元禄十年(西暦一六九七)征夷大将軍、徳川綱吉公より神田八石九斗余の 貢米を免ぜられ朱印地を賜り、河内四郡及び堺の付近は悉くその氏子なりき。桜町天 皇の寛保三年(西暦一七四三)飛騨守石津連、陸野茂基を従六位下に叙せらる。以上 のように朝廷武家の尊崇が篤く、これは偏に御神威の重きによるものであります。



等乃伎神社[トノキ](鍬靫)
等乃伎神社[とのぎ]「天兒屋根命 配 譽田別尊、菅原道眞 合 大歳大神、壷大神、菅原道眞、大歳大神」大阪府高石市取石2丁14-48 古代であそぼ

由緒書
「延喜式内社」。
『続日本紀』天平勝宝四年(七五二)の条に「中臣殿来連竹田売」と記載されていま す。ここにみえる中臣氏の一族である殿来連が祖先神である天児屋根命を当社に奉祀 し、また、その年に太政大臣・藤原武智麻呂、その子の大納言・恵美押勝(藤原中麻 呂)が相次いでこの里に来られ居住されたと伝えられています。このように、当神社 は常に藤原氏一族(中臣氏)と由縁がありました。

【巨木伝説】
『古事記』下巻の仁徳天皇の段に、「兎寸河の西に一本の高い樹木があった。その樹 木に朝日があたれば影は淡路島におよび、夕日があたればその影は高安山を越えた。 ある日、この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、朝な夕なに淡路島の清水を汲ん で、その聖水を天皇に献上した。この船が壊れてから、その廃材を焼いて塩を作り、 その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、素晴らしい音色を発し、遠く の村里にまで響きわたった。」
この伝説の冒頭にある「兎寸河」は、当神社の東南を流れる「富木川」で、また、南 北朝の戦乱時代に焼討に遭う以前は、当境内には多数の楠の巨木がそびえていたらし く、多くの焼株の発掘で確認されています。この事から、古来、富木村に船を作る為 の楠の巨木が豊富に茂っていたことが想像できます。
また、遠い昔、海岸線は当神社に接近していたと考えられ、それは、当氏地の大園遺 跡の発掘物の中に多数の漁具類が存在した事からもわかります。
以上の事から、古代において、当神社には楠の巨木が茂り、海岸線が接近して、前掲 の仁徳天皇記の記載が示すように、淡路島の清水を汲んで高津の宮に帰ってくる時に は、そのそびえる楠の巨木が船路の遠くから目印になったのでしょう。現在も当神社 にはその名残の楠があり、御神木として崇められています。

【太陽信仰】
遠い昔、古代国家の黎明期、揚子江南部地域から朝鮮を経て伝わったといわれる稲作 農業にとって、一番大切なのは太陽と水の恵みでした。太陽信仰はその稲作農民が太 陽を崇める事により始まり、太陽は神として信仰されるようになりました。
「とのぎ」という言葉は古代の太陽信仰と密接なつながりがあり、古代朝鮮の新羅語 では「日の出・朝日」を意味するといいます。巨木伝説の説話で巨木の影がさしたと いわれる高安山の頂上に立てば、当神社の方角に冬至の太陽が沈みます。当神社の側 からみると、高安山の頂上に夏至の「日の出」を拝む事になります。この冬至の日は 、一年のうちで最も日中の時間が短く、太陽の活力が弱まっています。そしてこの日 を境にして、太陽の活力は夏至の日に向かって盛り返すのです。
等乃伎神社では、この冬至の日に太陽の恵みの復活を祈って重要な祭が行われ、夏至 の日に太陽の恵みに感謝して祭が行われたと伝えられています。このように、当神社 は太陽祭祀の重要な場所であったのです。

【御鎮座】
当神社は現在、高石市の取石二丁目(富木)に鎮座される取石・西取石・綾園加茂地 区の氏神様で、古くは和泉国大鳥郡の富木村・市場村(綾井)・南出村(綾井)・大 園村・土生村・新家村のそれぞれの氏神様として祀られてきましたが、明治四十一年 一月、稲荷神社(市場村)・明治四十二年一月、壷神社(大園村)・菅原神社(土生 村)・大歳神社(新家村)・明治四十二年二月、延喜式内社の大歳神社(南出村)の 五社が当神社に合祀され旧泉北郡取石村一村の氏神様となりました。
その後の町村合併で、昭和二十八年高石町と合併し、更に昭和四十一年には高石市と なり、当神社は、奇しくも高石市の東北に鎮座される鬼門の守護神ともなりました。 古来、地元の人々に親しまれた「とのぎ」「はぶ」「しんけ」「あやい」「おおぞの 」という地名が地図の上から失われた事は愛惜の念一入です。



蜂田神社[ハチタ](鍬)
蜂田神社[はちた]「天兒屋根命 配 菅原道眞、金山比古命、伊弉冉尊」通称[鈴の宮]と言うのは本来の祭神は金山彦命を示している。大阪府堺市八田寺町524

泉州鈴之宮蜂田神社略記
当神社は和泉国神名帳大鳥郡二十四座の内の式内社にして、創立既に上代に属す。社 伝に永禄年代以前は現在地西一丁余の山麓に鎮座ありしを、三好松永等の輩家原城を 攻むるに方り不幸回禄に帰し現社地に遷るという。今なお古宮の跡を存せり。延喜式 に既に鑿靱の大幣に預かり給い、当国神命帳に正四位上を受け給える明神に在し、代 々御祭神天児屋根命の後裔蜂田連が奉斎し来れる神社にして、大鳥郡内の古社として 往昔より斎かれ給えること史に徴して明らかなり。当神社を鈴の宮と呼ぶことの起こ りは、毎年節分に当たり鈴占い神事として古式により祭典執行のことあればなり。こ の神事は今より一千百余年の昔、蜂田連なる人土焼の鈴十二個を作り、毎年の春の初 めに神前へ献りその音の善し悪しによりてその年の吉凶を占い給いし古伝によれるも のなり。近年は神域の清き土を以て十二種の占鈴の外開運厄除の御守鈴を作り神前に 献供して祈願をこめ一般参拝者の乞いにより授与のこととせり。当社においては古来 神事に使用したる土鈴、撤下後鈴塚に埋蔵し来たりしを、昭和四年以来このことを止 め節分当日参拝者へ抽選を以て頒つこととせり。現今にては当社授与の土鈴のうち破 損したるを返納される向き多くなりたるにより、この分毎年十二月八日修祓を行ない て埋蔵するを例とせり。



陶荒田神社二座[スエノアラタ]
陶荒田神社「高御産靈大神、劔根命 配 八重事代主命、菅原道眞」崇神天皇の七年の創建。祭主は大田田根子である。ここから1,500m南の丘から葛城山と金剛山の境の水越峠の正面にあたる。三輪山の大物主神が来臨されたとの信仰が生まれる地形である。
大阪府堺市上之1215

陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)
陶荒田神社は崇神天皇の七年(西紀前九0年)の創建にかかり、延喜式(西紀九0五 年制定)にも載っている古社であります。素盞嗚命十世の孫大田々禰古命が勅命を奉 じて大和国大三輪大神を奉斎する大神主となられました時に、祖先の神霊を斎き祀る ため、この陶村すなわち茅淳県(今の堺市付近)陶器郷の大田森に社を建立されたの が当社の起源であります。当社の付近に古代人の集落の跡や、付近に住んだ豪族たち の墳墓と思われる陶器千塚が現存していましたが、現在は泉北ニュータウン等の土地 開発によりその一部しか残されていません。陶荒田神社は陶器の守護神としても、こ の陶邑重要の地に鎮座ましましたことが推定されるのであります。社名陶荒田の由来 は祭神高魂命五世の孫剣根命の後に「荒田直」という人が出られ、祖神の奉斎につと められたによって、地名の陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名付けられたので あります。以来当社は陶器郷の氏神として朝野の崇敬厚く、且つ陶器の生産に携わる 業者の守神として又衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受け尊敬されて連綿 として祭祀を続けております。



國神社[クニ]
櫻井神社摂社の戎神社「蛭子神、言代主命」大阪府堺市片蔵645

国神社址
「天照大神」大阪府堺市南区上神谷字鉢峯

鴨田神社[カモ・] または 鴨神社
多治速比売神社右殿鴨田神社「加茂別雷命[大阪府誌] もしくは住吉神[泉州志]」大阪府堺市宮山台2-3-1

高石神社[タカシ]
高石神社[たかいし]「少名彦名命、天照大神、熊野坐三社」白雉元年の創祀か。大阪府高石市高師浜4丁1-19

由緒書
創祀の歳月確かならず。或は云う、白雉元年なりと。(昭和五十五年を隔る千三百三 十年前也)。
醍醐天皇延喜の御代、制式の小社に列し、堀河天皇の御代、寛治年間(昭和五十五を 隔る九百年前也)社殿の再建あり。国内神名帳に云う、従五位上高石大歳社、高石倉 立社と見ゆ、今天神と称す。(式内考に載る)。 今の社殿は、寛永十二年(昭和五十五年を隔る三百三十六年前也)の再建なり。和泉 名所図絵には、高志の祖、王仁を祀ると記せり。或は、往古境内に王仁を祀る一社あ りしにやあらん。
昭和九年九月二十一日関西地方を襲える稀世の風水害に遭遇し、被害甚大、巨木倒壊 し、社殿を損い、昭和十年十月十二日改築復旧造営起工をなし、昭和十一年五月十五 日竣工遷座祭を斎行す。
昔、逍遥院三條実隆高野参詣の途次、この社に立寄り、高師浜の松原の下、天神社の 前に輿を立て、「袖の上に松吹く風やあだ浪の高師の浜の名をも立つらん」実隆(逍 遥院高野紀行に云う)。
境内には、小倉百人一首、祐子内親王家紀伊の詠まれたる、
「音に聞く高師の浜の仇浪はかけしや袖のぬれもこそすれ」
の碑あり。高さ七尺、幅四尺の自然石にて苔蒸せり、従三位富小路貞直の筆なり。 老樟の下に石玉垣を周らしたる碑あり。白河鳳おう熊野権現御拝所と記せり、紀州熊 野詣の途次ならん。



大鳥美波比神社[ミハヒ]
大鳥神社摂社の大鳥美波比神社[みはひ]「天照大神 配 菅原道眞」大阪府堺市鳳北町1丁1-2

多治速比賣命神社[タチハヤヒメ]
多治速比売神社[たじはやひめ]「多治速比賣命 配 素盞嗚尊、菅原道眞、藏王權現」大阪府堺市宮山台2-3-1

多治速比売神社案内記
当神社は延喜式内社の一つで二十八代宣化天皇(五三0年)の頃の創立と伝えられて いる。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが神仏分離の際神社のみとな った。現在の本殿は室町時代の建造物で昭和二十四年重要文化財に指定せられ、同二 十九年から同三十一年にわたり解体修理が行なわれた際、天文八年(一五三九年)か ら同十二年(一五四三年)の間に再建されたことが明らかとなった。

主祭神は多治速比売命で、女神として安産・縁結び・厄除の守護神として厚く崇敬さ れている。さらに本殿には素戔嗚尊・菅原道真公・蔵王権現の三体も合祀され、特に 道真公は学問の神「天神様」として厚く信仰されている。また本殿の左右に鎮座する 阪上社・鴨田社はいずれも式内社で明治末期に平井村・太平寺村から合祀された古社 である。さらに境内末社に住吉社・春日社・大神社・熊野社・白山社・福石神・稲荷 社と和田村・伏尾村から合祀された八幡社、大庭寺村から合祀になった弁天社などの 八百よろずの神々が鎮座され合わせて荒山宮とよばれている。



大鳥井瀬神社[ヰセ]
大鳥神社摂社の大鳥井瀬神社[いせ]「弟橘姫命」大阪府堺市宿院町東2丁1

大鳥濱神社[ハマ](鍬)
大鳥濱神社「兩道入姫命」大阪府高石市羽衣5丁2-6

坂上神社[サカノウヘ]
多治速比売神社左殿坂上社「阿知使主」阪上氏の祖神か、阪上氏は漢霊帝の出とする。明治末期平井村から合祀。大阪府堺市宮山台2-3-1

開口神社[アキクチ]
開口神社[あぐち]「鹽土老翁大神、素盞嗚大神、生國魂大神」大阪府堺市甲斐町東2丁1-29

開口神社
当神社は神功皇后三韓より帰られしとき、この地に塩土老翁神を祀るべしと詔し給ひ てお祀りしたのが当神社の起源と伝えられています。敏達天皇拾年八月、掃守連矢負 を遣わして奉幣し神戸(神社の神田、神領)を定められました。醍醐天皇延喜の制式 内の祀典(式内社)に列せられ従五位上授けられ、承平弐年五月、正五位上に進めら れました。その後、鳥羽天皇天永四年、原村(今の仁徳陵の付近)に座す素盞嗚命・ 木戸村(所在不詳)鎮座の生国魂命を当社に併せ祀り、開口三村大明神と号し堺の氏 神として崇敬されました。

当神社所蔵大寺縁起(重要文化財)記載によりますと、聖武天皇天平十八年、詔勅に より社殿を造営し、翌十九年八月朔日、勅祭あらせられ社領を定めるとあり、朝廷武 家の尊崇篤かりし事は寄進された多くの社宝に明らかです。当神社の主神塩土老翁神 様は住吉の大神様(上筒男、中筒男、下筒男)を一つにしてその御神徳を現わしたと いわれる神様で昔から住吉の奥の院といわれます。また神社の創立が古く市中の要衝 に位置する為維新後は県庁市役所を設けられたり、三国丘、泉陽等の今の高校の前身 がここに設けられたこともあります。明治六年郷社、明治三十五年四月三十日、府社 に列せられました。昭和二十年七月十日戦災、ため社殿建造物焼失しましたが、氏子 崇敬者の熱心なる努力により昭和三十八年、御本殿拝殿の新築なり、昭和四十年、儀 式殿(瑞祥閣)が新築されました。



櫻井神社[サクラヰ]
櫻井神社[さくらい]「譽田別命、足仲彦命、息長帶比賣命」古代当地方に居住の桜井朝臣の一族がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。大阪府堺市片蔵645

桜井神社由緒略記
当社の創立は悠遠の時代で、社記及び諸文献には古代当地方に居住の桜井朝臣の一族 がその祖先武内宿禰命を奉斎した事を伝えている。推古天皇五年(五九七)に八幡宮 を合祀され上神谷八幡宮とも称せられ、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎してい る。古来、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として醍醐天皇延喜の制(九六七)には官幣 社に列せられた。歴代皇室の御崇敬厚く、事に当って度度祈願を仰出され、神領とし て荘田を寄進せられた。中世武家の尊崇深く、建武四年(一三三七)上神城主上神常 儀は社殿を造営し、元亀二年(一五七一)小谷城主小谷甚八郎政種は、三好氏との戦 に分捕した陣鐘を奉納し、鐘撞料として御供田を献納した。また南北朝時代(一三三 六)には、当社及び氏子は南朝に属し、上神・和田・桜井・木寺等の武将は、度度戦 勝の祈願をこめ、御供田を献納して当社の奉護に尽した。中世神宮寺建立以来、神仏 習合の霊場として近郷はもちろん、河内・堺方面より参詣者が続いて隆盛を極めた。 今当社に残る古文書や石燈篭には、これら篤信者の名が記されている。神域広大で社 殿また荘厳を極めたが、天正五年(一五七七)織田信長の紀伊根来寺征伐の兵火にか かり、神宝古記録を焼失し、神領も没収せられ、社頭は一時荒廃した。その後、天正 十六年(一五八八)加藤主計守清正の発願により、先ず阿弥陀堂が再建せられ、(最 近棟札写し発見)次いで元禄十五年(一七0ニ)神門を再建、更に享保十六年(一七 三一)には鐘楼と宝蔵が再建せられ、漸く旧観に復した。慶応四年(一八六八)神仏 分離に際し、仏像仏具経巻等は、片蔵の金福寺へ移管し、阿弥陀堂は、別所の法華寺 へ譲渡した。又鐘楼は、神輿庫に改造し現存している。明治五年郷社に列し、同四十 一年から四十三年には旧上神谷村内の国神社他九社を合併した。大正六年拝殿が特別 保護建造物に指定せられ、昭和三年にはその解体修理が行なわれた。又同六年には中 門と透塀を新築し、更に十六年には社務所の移転改築と境内の整備を完成し、社頭の 面目を一新した。翌十七年には府社に昇格せられ、一層神威の尊厳を加えた。戦後昭 和二十六年文化財保護法の施行に基き、当社拝殿は昭和二十八年十一月十四日大阪の 神社では住吉大社本殿四社とともに国宝建造物に指定をうけ、昭和五十三年屋根葺替 等保存修理が行なわれた。



大歳神社[オホトシ](鍬)
等乃伎神社に合祀 式内等乃伎神社に掲載済み

日部神社[ヒヘ] 
日部神社[くさべ]「神武天皇、彦坐命、道臣命」大阪府堺市草部262

日部神社
式内社で日下部祖彦座命を祀る古社である。由緒不詳であるが、当社が「輪の内」よ り現在地の「寺山」に遷座されたのは明治四十四年十月十三日と明治十二年の神社明 細帳に記されている。当神社は神武天皇御東征の砌上陸された日下の蓼津は此の地な りと古事記伝に記されている。
重要文化財として石燈籠と御本殿があり、石燈籠は正平二十四年卯月八日の銘あり。 楠木正儀氏当地の旧社家大塚氏宅に滞在中、当社に皇室の御安泰を祈願し奉献された ものと伝えられている。美術工芸品として価値がある。また御本殿は創立年月不詳然 し室町時代の様式を残す建築物である。
御山古墳これは「輪の内」の旧社地(現在地の南方約三百米)の近くに道臣命の墳墓 と称する古墳があり、往時は「大塚山」とも言い日下部首の塚とも比定されていた。 遷座後民間に売却された。




和泉郡[イツミ]:廿八座並小

男乃宇刀神社二座[ヲノウト]
男乃宇刀神社[おのうと]「彦五瀬命、神日本磐余彦尊、五十瓊敷入彦命」大阪府和泉市仏並町1740 古代であそぼ

由緒書
本社は延喜式神名帳に記された男乃宇刀神社二座のうち一座で、御祭神彦五瀬命は神 武天皇御東遷に随従して当地に駐輦し給うた縁起により奉祀せられ、五十瓊敷入彦命 もこの地を領せられた縁故によって元慶年間に奉祀された。
明治十二年の神社明細帳に「彦五瀬命、長随彦を征し給う時、官軍を横山彦出迎へ行 宮を造る其時御狩し玉ひし所御狩山と言う、今のカリ山之なり此地に神興渡御所在地 有之」と記され、また和泉名所図会等にも、神武天皇が長随命を征した時、皇兄五瀬 命が流矢に傷つき、軍を反した時、横山彦がこれを奉迎して当地に行宮を営んだと述 べられている。
当社はこのように延喜の制小社に列した由緒ある古社で、明治六年郷社に列せられ、 また明治四十年一月神饌幣帛料供進社に指定された。
男乃宇刀神社二座のことにつき、神社明細帳に、男乃は兄乃にて五瀬命を仏並に祀し 奉り下之宮と称したと述べられている。
また同明細帳に「文禄年間に神跡山脈の中央に道路を開拓せしより字切坂と称する所 に横山鎮護の神として遷し奉り其後に牛頭天王を奉斎して八坂神社と称し奉りしが明 治四十五年五月遷幸し奉りて八坂神社に合祀す。かかる深き縁をもって昭和二十一年 九月三日下之宮座神社(八坂神社下之宮座男乃宇刀神社)を当仏並男乃宇刀神社に合 祀し奉斎せり」とあるように戦後男乃宇刀神社に併合し奉って社殿拝殿は堺市方違神 社に移され跡地は当初横山中学校、のち横山高校の敷地となった。
下宮「神宮寺」の門前一角に「八坂神社旧蹟」の建碑があるのはこれである。また明 治維新まで仏並男乃宇刀神社の境内にも「常願寺」という宮寺があり宇治川合戦先陣 の功賞で横山荘を授けられた佐々木高綱の建立といわれ当寺を菩提所としてのち出家 し住職をしたといわれている。



博多神社[ハカタ]
伯太神社[はくた]「伯太比古命、伯太比命」大阪府和泉市伯太町5-22

夜疑神社[ヤキ]
夜疑神社[やぎ]「布留多摩命」大阪府岸和田市中井町2-7-1

式内夜疑神社略記
由緒
当社の創建は定かでないが、延喜式神明帳に登載されている和泉郡28座の中の古社 で、由緒に関する文書はなく、ただ延喜式神明帳・新撰姓氏録・その他の傍証により 、古くより現在の地に鎮座していたことが判明するのみである。
正応2年(1289)正月、大鳥神社の祢宜 高信によって書写された『和泉国神明 帳』によると「八木社」は「従五位上」と記されている。
明治五年村社に列し、同41年11月25日大字池尻字持の木の村社春日神社、大字 小松里字宮の前の同八幡神社、小松里と大字額原との立合なる字風呂尻の同菅原神社 、大字大町字福知山の同八阪神社、同じく大町字里井の同豊受社、同じく大町字宮の 内の同菅原神社、大字西大路字土井の同厳嶋神社、大字箕土路字犬飼の同犬飼神社、 同じく箕土路字宅地の同菅原神社、大字下池田字24の坪の同菅原神社、大字荒木字 24の坪の八幡神社、明治42年10月19日大字吉井字宮の前の同菅原神社、同年 7月16日大字高月字高畑の同菅原神社、大字北出字前の同産土神社を合祀し、明治 43年3月、神饌幣帛料供進社に指定される。昭和18年7月19日郷社に列す。正 面右にある「式内郷社 夜疑神社」の社名碑は、元岸和田藩主岡部長景氏の揮毫にな る。



泉穴師神社二座[アナシ]
泉穴師神社[いずあなし]「天忍穗耳尊、梯幡千千姫命」明治の祭神改訂以前は「天富貴神、佐古麻槌大神」で、穴師神主の祖神であったとの説がある。実際は近くに兵主神社があることから大和の穴師坐兵主神社との関係が想像される。兵主神であろう。大阪府泉大津市豊中町700 古代であそぼ

由緒書
当神社は、式内社で和泉五社の一、泉州二の宮であります。穴師の里、千古の神境に
神殿奥深く鎮まります。主祭神は、
農業の神であらせる 天忍穂耳尊
紡織の神であらせる 栲幡千々姫命
の御夫婦二柱の神であり、天忍穂耳尊は天照大神の御子神で皇室の御祖神の系列にあ らせられ、栲幡千々姫命は御名の通り、栲は古い衣服の原料となる麻・絹・綿等一切 の繊維類の総称であり、幡は「繪」「服」の字に相当し、布帛の総称で、はたものは 、織機の意味で衣服の紡織に種々工夫改良を加えられた姫神様であらせられ、泉州の 地が今日農耕並に紡織を以って繁栄して居りますのも洵に御神徳のいたすところであ ります。
衣食の安定は政治の中心でありますので、往古より歴代の天皇の当社に対する御崇敬 は、文献に数々残されて居りまして枚挙にいとまありません。
又、古来より、幼児虫封じに霊験あらたかと云われ、参拝者多数ございます。



兵主神社[ヒヨウス]
兵主神社[ひょうず]「八千鉾大神」大阪府岸和田市西之内町蛇淵1

御由緒
一、延喜式内社 当社は、天正年間に兵火に遭い縁起(えんぎ)帳や多くの古記録が焼失しましたので 、創建の年代を詳(つまび)らかにできませんが、『延喜式』(平安朝初期延長5年
−西暦927年−官撰)という古い文献に「和泉国和泉郡廿八座」の中に「兵主神社 」と明記され、また、これら延喜式内社を注解した『神社覈(かく)録』という本に は「兵主神社、兵主は音読也、祭神明也、南郡掃守郷西之内村に在す」とあることか ら、当社が千有余年前、すでに存立されていたことが実証されるのであります。この 外『延喜式神名帳』はもちろん『神祇志料』『大日本史』『大日本風土記』『伊呂波 字類抄』『和泉志』などの諸文献にも当社が古来から建立されていたとの記録があり ます。



粟神社[アハ]
大津神社摂社粟宮「天太玉命」大阪府泉大津市若宮町4-12

粟神社は、宝亀七年(776年)粟直氏当地に在住、粟氏の祖神天太玉命を祀ったの が即ち粟神社である。延喜式、式内社、和泉国、和泉郡二十八社の一である。昭和四 十三年、明治百年記念事業の一として粟宮御社(極彩色)の破損を防ぐため鞘堂にお さめられた。



曾祢神社[ソネ]
曽彌神社[そね]「饒速日命、伊香我色雄命」大阪府泉大津市曽根町1-4-12

泉井上神社[ヰノヘ] 
泉井上神社[いずいのうえ]「神功皇后、仲哀天皇、應神天皇」大阪府和泉市府中町6丁目2-28

由緒書
上古より鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神、高産巣日神、神産 巣日神ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されました。

神武天皇はご東征をお祈りになり、神功皇后は仲哀天皇の御即位二年(200年)四 月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜 ばれ、この水を霊泉といい、宮としておまつりなさいました。これより「和泉」の国 名がつけられました。元正天皇の霊亀二年(716年)ここに和泉監を置き、この土 地が国府となり、地方政治の中心地となりました。その傍に総社を建立し、大鳥、穴 師、聖、積川、日根野の神をおまつりし、御諸別命とも合わせおまつりされています 。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体の氏神として崇敬され、一般の人々の信仰も 厚くしばしば神異があり、その都度、勅使の奉幣がありました。

ご社領は霊亀元年和泉諸上勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田( 土地)、神戸(人民)を領有し、左大巨橘諸兄の子諸貞より代々祭主職国司在庁をつ いで国司、勅使代、公文所、寺社を総管し、近郷を領有しました。中世には武職をか ね国府城主となり、祭りと政治を行っています。正平、明徳、天正の時代には一万石 の待遇をうけました。その子孫は現在もお宮の宮司をつとめています。又楠朝の忠臣 和泉の国侍は国府城に屋敷をかまえ、妻子をおき、勤王の義兵の土地でもありました 。ところが天正十三年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治六年には境内ひろ過ぎる として一部を残し上地されています。



阿理莫神社[アリマ]
阿理莫神社[ありまか]「饒速日命、阿理莫公」大阪府貝塚市久保165

延喜式内阿理莫神社由緒畧記
創立の由来
饒速日命の子孫である物部氏の後裔に安幕(アマカ)氏あり累世阿間河荘の豪族であ った、第二十六代継體天皇元年(西暦507年)安幕氏は此の地に大祖饒速日命を祭 る神社を創立し永く氏神として崇敬した之が當社の起源である。 延喜撰格の當時式内神社に編入せられ神階従五位上を奉らる明治6年郷社に列し明治 41年にかけて一村一社の原則が定められた時麻生郷村各地に鎮座した神社はすべて 當社に合祀せられた結果麻生郷全域の氏神となり現在に至る。



山直神社[ヤマナヲ]
山直神社[やまだい]「天照皇大神、天穗日命、速須佐之男命、彦曾乃世呂命」大阪府岸和田市内畑町3619 古代であそぼ

由緒
当社は延喜式内社で昔時天穂日命の創立と伝えられる。文武天皇の時、小角五間に七 間の神殿を造営。その後聖武天皇の時、行基上人奏上して堂塔社殿を造営。応仁年中 兵火に罹り焼失。その後文録3年二間四面の神殿を再造営する。慶長6年屋根葺替修 繕をしたが建造物は従前のまま現存する。
牛頭天皇を奉祀した延喜式内社波多神社を合祀。
朝日山長光寺は当社の宮寺であったが明治維新後の神仏分離により分かれた。明治5 年村社に列し同40年神饌幣帛料供進社に指定せらる。同44年奥の坊八百万神社と 字辻垣内市杵島神社を合祀し現在に至る。



矢代寸神社二座[ヤシロノ]
矢代寸神社[やしろぎ]「武内宿禰、波多八代宿禰」継体天皇元年の創立。大阪府岸和田市八田町358

一ノ宮矢代寸神社略誌
当矢代寸神社は継体天皇元年の創立と傳えられ明治6年郷社に列せられる。延喜式内 神社にて延喜式に矢代寸神社二座とあり一座は即ち本社にて一ノ宮と称し八田町にあ り一座は諏訪宮と称し又矢代寸下神社と云う。明治四十年十二月、本社に合祀せらる 。
主祭神は武内宿祢及波多八代宿祢にて当地は波多氏の居住地にしてとの祖神を祀って いたようである。又、当社は岸和田藩の一ノ宮にて藩主交代の際は藩下各社に参拝あ りしも中古より略して当社のみ参拝あり現在町民皆当社を一の宮と呼称す。
國内神名帳には従五位屋代村社と載せ又当地は屋代村(矢代寸)と称したるが如し。



穂椋神社[ホクラ]
春日神社に合祀「武甕槌命、天兒屋根命、經都主命、比賣大神 合 比賣命、白山比賣命、大山命、伊弉那美命、素盞嗚命、佐太彦神、品陀別命、若年神、菅原道眞」大正四年七月和田小倉山の式内社穂椋神社、万町意賀美神社を合祀。ホクラとは秀座であり、磐座の意である。大阪府和泉市三林町591

和泉神社[イツミ]
泉井上神社摂社和泉国総社[いずみのくにそうしゃ]「天御中主尊、天照大神、天忍穗耳尊、天瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、草葺不合尊、御諸別命」大阪府和泉市府中町6丁目2-28

楠本神社[クスモト]
楠本神社[くすもと]「菅原道眞、船玉大神」大阪府岸和田市包近町1448

淡路神社[アハチ]
淡路神社[あわじ]「菅原道眞」大阪府岸和田市摩湯町576

意賀美神社[オカミ]
意賀美神社[おがみ]「闇淤加美神」大阪府岸和田市土生滝町17

由緒
当社は古来和泉国掃守郷土生滝村同郡阿間河谷庄滝村両所の境に鎮座し闇於加美神を 奉祀する。其の創立の年代不詳であるが年次は遙かに天平年間より以前の事に属し現 存する石漱盤の鐫刻「天平四年壬申年八月吉日座中」によっても知る事が出来る、社 号は正しく意賀美神社と称し奉るがGAMI 太神宮とも称し又神霊を尊んで雨降大明神 とも称している、神明帳に南郡従五位上意賀美神社とあり常に風雨順当五穀豊穰を祈 願し旱天で米穀枯死の害をさけるときは遠く四方より参拝して雨乞の祈願をするのは 今も昔も変わる事がない。聖武天皇天平4年の夏大旱魃の時祈雨の御勅願がありその 霊験により御綸旨を以て社領を寄進され、ついで陽成天皇元慶8年6月菅原道真公祈 雨の奉弊があり霊験著しく比の頃より雨降りの明神と称え奉るという戦国の世も氏子 村民の崇敬は変わらず造営修理能く其の頽廃を防いで今日に至っている。

寛永年中大旱魃の当時近郷百八ヶ所の村々当社前に集い祈願し若し神徳を賜れば河向 いより御社頭迄金属製の橋を架け以て神恩に報い奉ろうと祈願成就を祈っている時は るかに豪雨沛然として降り来て村民一同深く神恩の宏大さに感泣したとか、然る風雨 後架橋成難くそれ以来毎年土用の入りの当日近在より神酒奉幣し永くその神恩に報賽 する事の例を開き今日に至るまで祭祀を怠る事がない。 天保18年寅8月坊城前大納言菅原俊明卿の奉納による御神号額一面がありその崇敬 厚いことがわかる。
(注)文中のOGAMI は、「雨」冠に「龍」です。



波多神社[ハタ]
波多神社[はた]「波多八代宿禰」大阪府岸和田市畑町428

波多神社
本地(大字畑)は古来南郡に属し、もと阿間河荘の内にして畑村と称す。畑は波多な り、波多氏に因あり。
波多氏は古事記孝元天皇の段に「建内宿禰之子波多八代宿禰者波多臣之祖也」と見ゆ る波多氏是なり。
波多神社は西方字ユントにあり、波多八代宿禰を祀れり。波多氏の其の祖を祭りしも のならん。延喜式内の舊社なれども由緒は詳ならず。明治5年村社に列せらる。 境内は20坪を有し、本殿、拝殿を在す。里俗は雷除の神として崇敬せり。氏地は本 地一円にして旧祭日は10月1日なり。



積川神社五座[ツミガハ](鍬)
積川神社[つがわ]「生井神、榮井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神」大阪府岸和田市積川町350

積川神社
当神社は第十代祟神天皇の御代にこの地に創立され、地名は前に牛滝川、後に深山川 と高低相会する地に位するので積川の称があります。
延喜式内社で和泉五社に列し歴代天皇の勅願社として又武将の崇敬も厚く、天正の頃 まで社領六百石を有していましたので格式のあった神社であることが想像されます。 社域は府道牛滝街道に接して一段の高所を占め、二千五百坪の広さの境内を有し、古 木森然とした中に本殿(三間社流造、屋根桧皮葺)があります。建築年代は詳らかで はありませんが慶長七年、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として大修理を加えられ現 在にその様式を伝える桃山建築の優雅広大なこと、特に高欄の彫物の色彩の鮮かなこ とは美の極地とされて、建築の大家をうならせています。
この本殿は大正三年四月に特別保護建造物(国宝)に指定されました。
社宝として神像(木像)は重文指定、淀君奉納の神輿(国宝申請中)楠正儀寄進の石 灯篭、古鏡の他、寛治四年、白河上皇が熊野へ行幸の途、熊野街道から神社を遥拝さ れ、芝草を積んで舞台をしつらえ、舞楽を奏されたとき、鳥居に掲げられた扁額の筆 磧が拙いのをご覧になり、親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八字を大書さ れ、これに代えられたと伝えられる有名な扁額があります。



丸笠神社[マロカサ]
伯太神社飛地摂社丸笠神社「御諸別命」大阪府和泉市伯太町616

舊府神社[フルフ](鍬)
舊府神社[ふるふ]「素盞嗚命」大阪府和泉市尾井町198

由緒書
延喜式内の古社であるが創建年月は不詳である。
三代実録に「貞観元年(西暦八五九年平安時代)五月七日壬戌。和泉国舊府神列於官 社。同八月十三日丙申。和泉国無位舊府神授正五位下」とあり昭和四十五年(西暦一 九七〇年日本万国博覧会開催の年)が奇しくもそれより千百十一年に当たる。 大阪府全志に、社名と舊府は神功皇后の御し給ひし小竹宮のありし所なるより起り社 は復た其の地に鎮座せるより社名に負はせんたるならん」と記されているが論者の言 によればこの地ほもと和泉国府の所在地であったところその後現在の府中町に遷され た為社名に舊府と名づけたと伝える説もある。
明治五年村社に列せられ、大正四年六月二十三日葛之葉町の信太森葛之葉稲荷神社に 合祠された。
翌年に至り故あって元の社殿に奉祀した。
古来疫病の神長寿繁栄の霊験あらたかな神として広く一般の信仰をあつめている。



聖神社[ヒシリ](鍬)
聖神社[ひじり]「聖神」創建は白鳳三年。信太首が斎き祀った。大阪府和泉市王子町字明神553

由緒書
当社の創建は白鳳三年秋八月十五日で、永く国家鎮護の神として、信太首が斎き祀っ たものであり、信太聖神、又は信太明神とも云う。
霊亀二年河内国を分けて、和泉の国を置かれた時、和泉五社大明神の内第三位に列っ せられた。
天平四年の大旱に際し、当国五社を始め、井の八幡宮に奉幣があって、降雨を祈願さ れた時に、当社に領地若干を寄せられた。
貞観元年五月七日官社に列し、八月丙申従四位下を授けられた。
昌泰元年宇多上皇の御幸があり、御衣を納められた時、菅原道真公が供奉されたと伝 えられている。
延喜の制、祈年祭に鍬一口を加え奉られ、後年後白河法皇御宸筆の額一面を奉納され た。
慶長九年右大臣豊臣秀頼公が、片桐旦元を普請奉行として、本殿を造営され、壮大な 権現造りで、構造精徴を極めた。大正十三年四月特別保護建造物(国宝)に指定され た。昭和九年九月の第一次室戸台風に大被害を受け、昭和十二年二月より約十一ケ月 を以って大修理を完了して、現在に至っている。(現在は重要文化財)
境内は往古七十七万七千六百坪で、旧信太山台地を有した。
又明治維新前まで、萬松院大蔵寺等の宮寺があり、五重塔、鐘堂等があったが、神仏 分離の際に、寺は廃寺となった。
文明十五年二月二十八日の銘のある、重要美術品に指定された神輿がある。




日根郡[ヒネ]:十座並小

男神社二座[ヲカミノ]
男神社[おの]「神日本磐余彦命、彦五瀬命」老樹欝蒼として幽すい絶塵の神域をなしている。その北一キロ余の処に摂社浜宮がある。本社の元宮で、松樹茂って海風に鳴っている聖蹟雄水門は即ち此地である。大阪府泉南市男里1065 古代であそぼ

男神社略記
元府社男神社は大阪府泉南郡泉南町男里即ち古への呼の郷の地ある。 延喜式内神社で、本殿には、彦五瀬命・神日本磐余彦命、を祀り、相殿には天児屋根 命・熊野速玉神を祀る。
境内壱万五千平方メートル(五千坪余)。老樹欝蒼として幽すい絶塵の神域をなして いる。その北一キロ余の処に摂社浜宮がある。本社の元宮で、境内九千平方メートル (三、〇〇〇坪)松樹茂って海風に鳴っている聖蹟雄水門は即ち此地である。

神武天皇御東遷のみぎり、皇軍孔舎かの坂で長髄彦と御激戦した。此時、皇兄彦五瀬 命が賊の流矢に中って御肱脛にきずを負はせられ「吾は日神の御子として、日に向ひ て戦ふこと良はず、故れやっこが痛手をなも負ひつる。今よりはも行き廻りて日を背 負ひてこそ撃ちてめ。」と仰せられた。よって皇軍は血沼の海即ち今の大阪湾を南進 し紀伊に向わせられよとして紀元前三年五月八日(太陽暦六月二十日)此地に御着き 給うたが、彦五瀬の御傷いよいよ重らせられた。命は御悩みの中にも剣の柄を堅く握 られ「慨哉、大丈夫にして被傷於虜手、報いずして死なむや。」と雄詰び給うたよっ て此地を雄水門といふ。

命はやがて竃山に神去り給うたが、その「日を背負ひてこそ」と仰せられたことは、 皇軍の作戦上重大な御意義を有つもので、また、「慨哉」と雄詰び給うたことは、皇 軍の士気を鼓舞せられたことであろう。かねてより神武天皇の点業かい弘を輔翼し奉 り、また皇軍の進撃中不滅の御勲功を立てさせているのである。即ち彦五瀬命雄詰の 御遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀奉ったのが、当社で社伝 によれば貞観元年三月今の地に御遷座し奉ったといふ。毎年十月十一日の例祭には本 社より聖蹟雄水門の地神輿渡御の儀が行われる昭和七年十一月 畏き辺より幣帛料を 下賜せられ給うた。まことに畏き極みである。



神前神社[カムサキ]
脇浜戎大社・高神社に合祀[たかおかみ]大阪府貝塚市脇浜333

火走神社[ヒハシリ]
火走神社[ひばしり]「軻遇突智神、事代主神、天兒屋根命、素戔嗚尊、大年神、稚日女尊」大阪府泉佐野市大木1534

由緒書
当御祭神は軻遇突智神を祀る。一に火之夜芸速男神とも火産霊神とも称え奉る。醍醐 天皇延喜の制(醍醐天皇延喜五年西905年)により式内社に列せし古社にして神名 帳に「火走神社祭神軻遇突智命」とあり推古天皇(西594)の二年三月圭田二十九 束と三畝田を寄進して軻遇突智神の祭礼を執行せられたり是等に依っても如何に古く より御鎮座あらせられしかを知る事が出来る。
当神社は古来火走神社と称し奉りしを永享元年(西1429)八月二十四日以後に至 り滝大明神と称し現在せる石燈籠には滝大明神と刻せるもの多く明治以後は専ら火走 神社と称す。旧志に従三位上従五位等の神位を記せるものあり。享保十一年(西17 26)八月五日宗源の宣旨を以て正一位を授けられる。
明治五年村社に列し同四十年一月神饌幣帛料供進社に指定せられ大正元年(西191 2)十二月六日郷社に昇格せり。永正二年(後柏原天皇西1505)九月十四日御造 営の記録あり。現在の社殿は元和八年(後水尾天皇西1622)八月十六日の御造営 にして一間社春日造屋根は桧皮葺三方に縁をめぐらし前方に一間の向拝を設け木部に は極彩式にて牡丹桜雲松波などを描き蟇股には天人獅子を彫刻し桃山美術の精悍を今 日迄完全に伝えている。本殿の他に幣殿拝殿社務所等あり、中古仏教の盛なりし頃当 社の側に上宝院滝本坊滝音寺と称する神宮寺あり、犬鳴山七宝滝寺中興の志一上人兼 住して当社の祭事に奉仕す。
天正十三年(西1585)兵戦に罹り二十ケ坊悉に烏有に帰せしも滝本坊のみ災厄を 免れ依然当社の別当たり明治維新に逅い神仏混淆廃止となり滝本坊廃寺処分せられ其 の境内地は神社境内地に復し仏像仏具は七宝滝寺に移付し堂宇を取毀ち庫裏の建物は 模様替えをなし社務所に充当せられたり。
例祭は九月二十四日なれど、生活改善委員会の節約主旨の申合わせにより昭和二十七 年より更に十月十日を泉南郡統一奉祝日として祭典を執行す。



日根神社[ヒネ](鍬靫)
日根神社[ひね]「鵜葺草葺不合尊、玉依比賣命」創建の伝承の一つに、樫井川流域を開発した日根造は、新羅からの渡米人の子孫で「神祇志料」にはこの日根造が日根神社の主神として先祖の億斯富使主を祭ったとされています。大阪府泉佐野市日根町631-1 古代であそぼ

由緒書
日根神社は大井関大明神と称して、延喜式や国内神名帳にも名がでている古い神社で す。神社の創建にはいくつかの伝承があります。
(一)神日本磐余彦(神武天皇)が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭 り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまりとします。
(二)神功皇后が朝鮮との戦いの帰途、岡本の船岡山に上陸し、皇后に助力し共に帰っ てきた神を祭ったのが溝口大明神(比売神社のこと。現在は日根神社摂社)で、この 神社が日根神社のはじまりといわれます。
(三)樫井川流域を開発した日根造は、新羅からの渡米人の子孫で「神祇志料」にはこ の日根造が日根神社の主神として先祖の億斯富使主を祭ったとされています。慶長七 年の日根神社縁起由来には「当社大明神ハ古三韓新羅国修明正覚王一天四海之御太子 ニテ」とあり、この説をとっています。
(四)天武天皇の時代に大鳥神社より分霊を勧請し神殿を造ったのがはじまりといわれ ます。 伝えられる由緒から推測すると、最初に樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一部 を開発した人たちが溝口大明神(比売神社)を祭り、後に新しい井堰・水路をつくり 大規模に樫井川流域の開発をすすめた豪族(日根造)が樫井川の水を押さえる重要な 場所に大井関大明神(日根神社)を祭り、やがて溝口大明神を吸収したのでしょう。 そして大鳥神社などと共に和泉国を代表する神社になっていきます。
(一)奈良時代七一六年(霊亀二年)、河内国より和泉国が分かれた時、大鳥、穴師、 聖、積川、日根神社を和泉五社とし、井上大明神を五社合祭の総社とし、七二〇年( 養老四年)に五社の神輿を総社に集め盛大な祭りをおこないました。 七三二年(天平四年)に大旱魃がおこり和泉五社に降雨祈願が命じられ、その効果が あって、神領六八〇〇石が与えられ、その内五〇〇石が日根神社に分けられたとされ ています。
九〇五年(延喜五年)に延喜式が施行され、その神名帳に記載された神社を式内社と いいますが、泉佐野では比売、日根神社とともに加支多、火走、意賀美神社が式内社 となります。
(二)鎌倉時代に日根野は九条家の荘園となり、溜め池や水路がつくられ開発が進み、 日根神社は大井関大明神の名で呼ばれるようになります。一三一六年の日根野村絵図 には溜め池、耕地、集落のほかに大井関大明神、溝口大明神、丹生大明神、蟻通大明
(三)南北朝の動乱の時代になると、この地方の武士である日根氏も守護方に加わり戦 いに参加し、すぐ近くの土丸城は南朝、北朝の争奪の城となり、何回も合戦がおこな われます。一三五三年(正平八年)には兵火により社殿がことごとく焼かれました。 しかし二年後に再興されます。
(四)戦国時代の一五〇〇年ごろ、大井関大明神で盛大な祭礼がおこなわれていること が、日根荘の領主九条政基の日記「旅引付」に書かれています。戦国時代末になり、 日根神社は朱印地(五〇〇石)を受けますが、織田信長、豊臣秀吉は統一のために根 来寺や一向宗徒を攻撃します。日根氏は秀吉に従います、そのため一五七六年(天正 四年)に兵火により炎上します。一五八五年(天正十三年)には秀吉により神領地が 没収されました。この年より和泉五社の神輿会合は中止されます。しかし、その遺風 は各神社で受け継がれ、日根神社では岡本村の船岡山への神輿渡御が始まったとされ ています。
(五)一六〇〇年(慶長五年)豊臣秀頼は吉田半左衛門を奉行として社殿を再興します 。これが現在の本殿です。一六八七年(貞享四年)岸和田藩主岡部美濃守は水田一町 余を寄進します。春の祭礼で幟の行列が船岡山まで華やかに渡御します。
(六)現在は日根野、上之郷、長滝地区の総社となっています。これらの地区の人たち は、それぞれの地区の神社(野々宮、意賀美、蟻通神社など)の氏子でありながら、 日根神社の氏子であるという二重氏子となっています。



加支多神社[カキタ](鍬靫)
加支多神社[かした]「譽田別命、市杵嶋姫命、天兒屋根命」もと市杵島神社と称し、市梓島姫命を祀れり。明治五年、貝田の村社加支多神社(品陀別命)を合祀して今の社名に改めた。 大阪府泉佐野市鶴原1834-2

由緒書
加支多神社は東南後藤堂にあり、もと市杵島神社と称し、市梓島姫命を祀れり。 勝間家の傳ふる所によれば、徃時楠氏の臣勝間某なるもの、敗軍の際祭神を負ふて、 此の地に来たり、豪家新川氏の宅を訪ふて奉祀せんことを乞ひければ、新川氏其の手 続をなし、国司に出願して奉祀せしものなりと。勝間氏の子孫は今も本地に居住せり 。
明治五年、村社に列し、同四十二年七月十二日、貝田の村社加支多神社(品陀別命) を合祀して今の社名に改め、同時に同字の村社熊城八幡神社(品陀別命)・無挌社熊 城八幡神社(品陀別命)・字鶴原の村社大宮八幡神社(誉田別命)・字新家の同八幡 神社(品陀別命)字浜田の同浜之神社(事代主命)・字布の無挌社八幡神社(誉田別 命)・字古屋敷の同曽我神社を合祀し、大正四年四月神饌幣帛料供進社に指定せらる 。境内は五百五坪を有し、本殿、拝殿、社務所を存す。
氏子は本村全部にして例祭は十月九日なり。
氏子地域、鶴原・鶴原東(布)・貝田・新家。



波太神社[ハタ]
波太神社[はた]「角凝命、應神天皇」鳥取氏の祖角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀る。垂仁天皇御代、天湯河板挙一族の居住地たる大字桑畑の奥の宮に祖神角凝命を奉祀す。これ波太神社の起源なり。大阪府阪南市石田167

波太神社御由緒略記
当神社は、古来鳥取大宮と称し又は波太八幡宮の社等の称号あり、波太神社は鳥取氏 の祖角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀り、延喜式内の旧社にして国内神名帳に 神階正四位下波太社とあり、鳥取大宮の称は鳥取郷の総社たるを以てなり、御鎮座年 代詳かならさるも社伝(妙法院二品尭延親王の撰したるもの)に曰く、和泉國日根郡 鳥取郷者天之湯河板挙居地也、湯河板挙為垂仁天皇子誉津別命捕くぐい献之始皇子乃 長無言於是発言天皇大悦、即賜姓曰鳥取造事日本書紀湯河板挙社建於波太むら祭祖神 角凝命延喜式神明町所謂波太神社是也、古、紀、其他の史書に曰、垂仁天皇の時角凝 命三世の孫天湯河板挙、皇子誉津別の為にくぐいを出雲(或は云但馬)に捕えてこれ を献ぜしかば天皇其の功を賞して鳥取連の姓を賜ふ云々。時に天湯河板挙一族の居住 地たる大字桑畑の奥の宮に祖神角凝命を奉祀す。これ波太神社の起源なり。波太は畑 の義にて鎮座地を社名としたるなり。八幡宮は昔神功皇后新羅を征し凱旋のとき偶忍 態王反し住吉に屯するとき式内宿禰に命じ皇子を懐きて南海に起かしむ、宿禰御船を 鳥取の玉津に繁ぎ皇子を懐にし海辺を逍遥せられし縁により後に其の地に社殿を設け 応仁天皇を祀れり。今の下荘村大字貝掛指出森神社是也。

其の年間詳かならねど桑畑むらの波太神社兵火に罹りしを以て郷の耆宿力をあわせ私 財をなげうち今の地に社殿を造営し桑畑むらより波太神社を是処に移し指出森神社よ り応仁天皇の神霊を迎へ相殿に合祀せり、当時神領数箇所ありしも歳月の移り行くま まに社運漸く傾き元亀年間に至り最も甚だしく殿堂いたく朽廃せしかば、公方の保護 の下に再興し仁和寺宮一品仁助法親王を導師として遷宮式を行えり。天正年間織田信 長紀州征伐の時当社をよぎり内陣に入らんとしけるに社殿大に震動し其の目的を達し 得ざりきと云う、後豊臣秀吉の根来征伐に際し其の余おうにかかり殿堂社寳一時に灰 燼に帰し、昔平重盛熊野詣の時当社に奉納したる大刀を始め其の他の重寳悉く失せた りと云う、其れより慶長年間豊臣秀頼片桐且元を奉行として営繕せしめたるは現在の 社殿なり。
されど社領の多くは収公せられ僅かに御供田を社域の一部に遺し以て維新に至る。



國玉神社[クタマ]
国玉神社[くにたま]「大國主大神」大阪府泉南郡岬町深日921

由緒
国玉神社は第六十代醍醐天皇の御代に成った延喜式内社であり、創立年月は旧記にな く詳でありません。国内神名帳に正五位下国玉神社としてあります。境内三、〇四五 坪を有し千歳川岸の丘麓にあり昔は樹木欝蒼として深日港を望む遠くは淡路島及摂淡 連峯を望み明治六年、郷社に列記され明治四十一年、神饌幣帛料供進社に指定せられ 明治四十五年五月、若宮の浜山に祭祀されてありました村社賀茂神社の御祭神を相殿 とし、末社でありました、八幡社、若宮八幡、戎社の三社を元国玉神社の本殿に相殿 として祭祀してあります。現在の本殿は元賀茂神社の本殿を遷座してあり梁行四間桁 行三間の銅葺流造にして氏子地は深日孝子一円にわたっております。拝殿上の「大国 玉神」の木の額は旧深日村の古事に依れば門厳の書であります。深日庄は第七十三代 堀河天皇寛治四年より第一〇四代後柏原天皇大永年間まで京都賀茂神社の領知で元賀 茂神社の隆昌繁栄に反して国玉神社は次第に衰徴し徳川時代に至っても隆昌をする事 無く明治維新まで明中十五軒にて山林等を資にして祭祀・保存しておりましたもので す。当下たん地にあります。現旧蹟跡の碑は第四十八代称徳天皇の紀州行幸の際行宮 として定め給ひし処であり、続日本紀に
「天平神護元年九月(閏)十月二十六日庚戌遺行宮於大和河内和泉等国以欲幸紀伊甲 申致和泉国日根郡深日(フケ谷朱)行宮干時西方暗瞑異常風雨紀伊国守小野朝臣小贄 従此而還詔賜アシギヌ卅疋綿弐百屯」と記されてあり、「第六十五代花山天皇の行幸 の際須臾寓宮として定め給ひし」と記されてあります。
又末社は元は小祠でありましたが、永年の 風雨の為破損甚だしく神々の御神慮を恐れ、昭和四十年七月十日、境内東南側に銅葺 流造の社殿に遷座祭祀せしもので、当神社は称徳天皇行宮より現在まで一千二百余年 の年月を経ております。



意賀美神社[オカミ]
意賀美神社[おがみ]「高神」大阪府泉佐野市上之郷45

由緒書
延喜式の古社ながら、創建の年月は未詳である。社傳によると、古は社司十軒あり、 年長者を推して祭主としたとある。社地はかって上之郷村字布都の山中にあったが、 天正年間に焼失したといふ。末社には、奥神社・大国神社・堂ケ谷神社がある。その 中堂ケ谷神社は、字堂ケ谷(現在の龍ノ池近く)にあって、もと「奥ノ院」と称した が、のち当社に移転せられたのである。意賀美神社は、雨を掌る神として崇敬され、 明治五年村社となり、同四十年神饌幣帛供進社に列し、同四十一年六月四日字池尻の 村社若宮神社・字正法寺の村社弥栄神社を合祀した。さらに大正十四年七月一日郷社 に昇格した。
本殿、昭和二十五年八月二十九日重要文化財に指定される。



比賣神社[ヒメ](鍬)
日根神社摂社の比売神社[ひめ]「大日靈貴尊、素盞嗚命」大阪府泉佐野市日根町631-1



平二八年十月十二日 完了

延喜式神名帳目次
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