開口神社
大阪府堺市堺区甲斐町東2-1-29 its-mo

鳥居


交通

南海本線堺駅 東1km 阪堺線宿院北東300m



祭神

鹽土老翁大神、素盞嗚大神、生國魂大神


拝殿



由緒

 和泉国大鳥郡の式内小社。堺の中心地に鎮座、総氏神として「大寺さん」の通称で親しまれている。

 『大阪府史蹟名勝天然記念物』によれば、『社伝旧記』を案ずるに、神宮皇后三韓を征して凱旋し給ふに当たり、茅渟石津長峡濱に着船し給ひ、石津北原に鎮座せる素盞嗚尊の神地に天神、地祇をを祭らるるや、土人供御を献じ、老漁夫兄濤赤目の魚を献ぜしに、皇后瑞兆として喜び給ひ、蟹守葦見別の女仲媛をして其の地に鹽土老翁を奉祭せしめ給ふ。これ即ち当社の根源なりと。

 要するに、神功皇后が三韓より帰還の折り、海路無事を守護した「塩土老翁神」を祀ったのが創始と伝えられる。この神は記紀の「開喰神・事勝食勝国長狭神」と異名同神とされる。住吉三神の明神である。神社名は開口であるが開喰の訛りかも知れない。この神が腰をかけたと伝わる影向石が東側にある。

影向石 左隅の石


 素盞嗚大神と生國魂大神とは平安後期に合祀。開口三村大明神と称された。

 北方6kmに鎮座の住吉大社の奥院・外宮とよばれた程深いつながりを持っている。住吉大社の御輿が堺の浜に出御し、お祓いが行われた祭礼の仮宮が当社に隣接する宿院頓宮と称し、当社と同一の扱いであった。住吉の南祭と云う。

 『住吉大社神代記』には、住吉大神の子神(摂末社)として開速口姫神なる神名が記されている。田中卓博士は当社の祭神をこれにあてる。水戸の神である速秋津姫命や祓いの神である速佐須良比賣神を連想する名であり、南祭りの祓いに通じる所から、開速口姫神なる名になったのかも知れない。

 大寺さんと呼ばれたように大念仏寺が併存していた。僧行基が神社境内に一寺を創建、後に弘法大師が参籠して、真言密教の道場、密乗山大念仏寺となり、明治の神仏分離まで寺僧によって社務も行われていた。
 明治維新後、境内に堺県県庁、堺市役所などがおかれ、また高等学校も創立された。

本殿



たたずまい

 鳥居は東西と北側にある。社殿は南向きに鎮座している。しかし、南側には高層マンションが隣接して建っており、都会内の神社らしくビルの谷間になりつつある。

 多くの摂社が敷地を取り囲むように鎮座している。

 豊竹稲荷神社、白髭神社、松風神社、塞神社、竃神社、琴平神社、舳松神社、北辰神社、楠本神社、三宅八幡神社、少彦名神社、恵美須神社、大国魂神社、神明神社、豊受神社、熊野神社、舟玉神社、菅原神社、産靈神社、厳島神社、兜神社、岩室神社、薬師社


お祭り

  9月12日前の日曜日 例大祭

平成祭礼データ

当神社は神功皇后三韓より帰られしとき、この地に塩土老翁神を祀るべしと詔し給ひてお祀りしたのが当神社の起源と伝えられています。敏達天皇拾年八月、掃守連矢負を遣わして奉幣し神戸(神社の神田、神領)を定められました。醍醐天皇延喜の制式内の祀典(式内社)に列せられ従五位上授けられ、承平弐年五月、正五位上に進められました。その後、鳥羽天皇天永四年、原村(今の仁徳陵の付近)に座す素盞嗚命・木戸村(所在不詳)鎮座の生国魂命を当社に併せ祀り、開口三村大明神と号し堺の氏神として崇敬されました。

当神社所蔵大寺縁起(重要文化財)記載によりますと、聖武天皇天平十八年、詔勅により社殿を造営し、翌十九年八月朔日、勅祭あらせられ社領を定めるとあり、朝廷武家の尊崇篤かりし事は寄進された多くの社宝に明らかです。当神社の主神塩土老翁神様は住吉の大神様(上筒男、中筒男、下筒男)を一つにしてその御神徳を現わしたといわれる神様で昔から住吉の奥の院といわれます。また神社の創立が古く市中の要衝に位置する為維新後は県庁市役所を設けられたり、三国丘、泉陽等の今の高校の前身がここに設けられたこともあります。明治六年郷社、明治三十五年四月三十日、府社に列せられました。昭和二十年七月十日戦災、ため社殿建造物焼失しましたが、氏子崇敬者の熱心なる努力により昭和三十八年、御本殿拝殿の新築なり、昭和四十年、儀式殿(瑞祥閣)が新築されました。
以上

     

公式開口神社
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