『平成祭礼データ』
当御祭神は軻遇突智神を祀る。一に火之夜芸速男神とも火産霊神とも称え奉る。醍醐天皇延喜の制(醍醐天皇延喜五年西905年)により式内社に列せし古社にして神名帳に「火走神社祭神軻遇突智命」とあり推古天皇(西594)の二年三月圭田二十九束と三畝田を寄進して軻遇突智神の祭礼を執行せられたり是等に依っても如何に古くより御鎮座あらせられしかを知る事が出来る。
当神社は古来火走神社と称し奉りしを永享元年(西1429)八月二十四日以後に至り滝大明神と称し現在せる石燈籠には滝大明神と刻せるもの多く明治以後は専ら火走神社と称す。旧志に従三位上従五位等の神位を記せるものあり。享保十一年(西1726)八月五日宗源の宣旨を以て正一位を授けられる。
明治五年村社に列し同四十年一月神饌幣帛料供進社に指定せられ大正元年(西1912)十二月六日郷社に昇格せり。永正二年(後柏原天皇西1505)九月十四日御造営の記録あり。現在の社殿は元和八年(後水尾天皇西1622)八月十六日の御造営にして一間社春日造屋根は桧皮葺三方に縁をめぐらし前方に一間の向拝を設け木部には極彩式にて牡丹桜雲松波などを描き蟇股には天人獅子を彫刻し桃山美術の精悍を今日迄完全に伝えている。本殿の他に幣殿拝殿社務所等あり、中古仏教の盛なりし頃当社の側に上宝院滝本坊滝音寺と称する神宮寺あり、犬鳴山七宝滝寺中興の志一上人兼住して当社の祭事に奉仕す。
天正十三年(西1585)兵戦に罹り二十ケ坊悉に烏有に帰せしも滝本坊のみ災厄を免れ依然当社の別当たり明治維新に逅い神仏混淆廃止となり滝本坊廃寺処分せられ其の境内地は神社境内地に復し仏像仏具は七宝滝寺に移付し堂宇を取毀ち庫裏の建物は模様替えをなし社務所に充当せられたり。
例祭は九月二十四日なれど、生活改善委員会の節約主旨の申合わせにより昭和二十七年より更に十月十日を泉南郡統一奉祝日として祭典を執行す。
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