火走神社
大阪府泉佐野市大木1534番地 ゼンリン

鳥居と拝殿

交通

泉佐野駅、日根野駅からバス犬鳴山行き 中大木下車



祭神

軻遇突智神、事代主神、天兒屋根命、素戔嗚尊、大年神、稚日女尊
春日神社、幸神社

立派な拝殿



由緒

 一時、瀧大明神と呼ばれた。また社名の火走は祭事に男巫が火上を走るゆえとしている。共に、葛城修験道の根本道場であった犬鳴山の七宝瀧寺に由縁がある。

 明治四十一年に周辺の神社を多く合祀している。また戦後も丹生神社「稚日女尊」等を合祀している。

 この丹生神社について面白い伝説が伝わっている。
 南朝の吉祥御所はこの大木谷に造営され、後村上天皇を迎えた。北朝方の熊本一角の軍が、この皇居に攻め寄せてきた。南朝方は迎え撃ち、丹生明神の社前で激烈な山岳戦となった。この時、丹生明神の神殿の扉が開き、その中から火箭を手にした夥しい神兵がどっと繰り出し、北朝軍の頭の上に火の矢の雨を降らしたので、攻めての軍はたちまち敗退した。後村上天皇は喜ばれて、当社に火走神社と社名を与えたと言う。
 丹生明神の神徳を称えた物語である。  

幣殿

本殿
一間社春日造、元和八年(1622)。
彫刻、絵画、彩色に泉南地方の特色が出ていると云う。

幸殿
一間社春日造、室町時代。


お姿

 樫井川沿いの粉河へ抜ける道路沿いに鎮座、どうも道路の為に境内地が削られているようで、鳥居と拝殿が窮屈に見える。
 神社背後には森があり、村の鎮守の雰囲気だ漂う。

和泉名所図絵から


お祭り

 10月 9日 2日間 例祭

『平成祭礼データ』
当御祭神は軻遇突智神を祀る。一に火之夜芸速男神とも火産霊神とも称え奉る。醍醐天皇延喜の制(醍醐天皇延喜五年西905年)により式内社に列せし古社にして神名帳に「火走神社祭神軻遇突智命」とあり推古天皇(西594)の二年三月圭田二十九束と三畝田を寄進して軻遇突智神の祭礼を執行せられたり是等に依っても如何に古くより御鎮座あらせられしかを知る事が出来る。

 当神社は古来火走神社と称し奉りしを永享元年(西1429)八月二十四日以後に至り滝大明神と称し現在せる石燈籠には滝大明神と刻せるもの多く明治以後は専ら火走神社と称す。旧志に従三位上従五位等の神位を記せるものあり。享保十一年(西1726)八月五日宗源の宣旨を以て正一位を授けられる。 明治五年村社に列し同四十年一月神饌幣帛料供進社に指定せられ大正元年(西1912)十二月六日郷社に昇格せり。永正二年(後柏原天皇西1505)九月十四日御造営の記録あり。現在の社殿は元和八年(後水尾天皇西1622)八月十六日の御造営にして一間社春日造屋根は桧皮葺三方に縁をめぐらし前方に一間の向拝を設け木部には極彩式にて牡丹桜雲松波などを描き蟇股には天人獅子を彫刻し桃山美術の精悍を今日迄完全に伝えている。本殿の他に幣殿拝殿社務所等あり、中古仏教の盛なりし頃当社の側に上宝院滝本坊滝音寺と称する神宮寺あり、犬鳴山七宝滝寺中興の志一上人兼住して当社の祭事に奉仕す。

 天正十三年(西1585)兵戦に罹り二十ケ坊悉に烏有に帰せしも滝本坊のみ災厄を免れ依然当社の別当たり明治維新に逅い神仏混淆廃止となり滝本坊廃寺処分せられ其の境内地は神社境内地に復し仏像仏具は七宝滝寺に移付し堂宇を取毀ち庫裏の建物は模様替えをなし社務所に充当せられたり。

 例祭は九月二十四日なれど、生活改善委員会の節約主旨の申合わせにより昭和二十七年より更に十月十日を泉南郡統一奉祝日として祭典を執行す。
以上

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