大津神社
大阪府泉大津市若宮町4-12 ゼンリン


交通

南海本線泉大津駅北西300m

鳥居


祭神

 息長帶姫命、品陀別命
 合祀 素盞嗚尊、天照大神、船玉命、菅原道眞


 摂社 事代主神社、広良神社「彦五瀬命」、粟宮「天太玉命」、神明神社、稲荷神社


式内社の粟神社は大津神社に合祀されている。摂社の粟宮とは粟神社の旧社地のことかも知れない。

粟神社の旧社地 ゼンリン式内町11

ヨシミツ毛織と神社址


鳥居と石標


石標と祠

 式内町とはいかにも式内社の粟神社の鎮座地らしい町名である。式内町の南等隅付近のミツヨシ毛織の北側の路地を少し西へ行った所にある。
 『式内社調査報告五巻』で、故松原右樹氏は「宝亀七年(776)の創建と伝えられるが、不詳である。天保年間、僧下覚の手になる『西国巡礼手控』には、路の傍らに葉表もなく、屋根も破れんとするささやかなる祠は人は粟堂ともうしける。式内粟神社こそ此堂にておはすか。」とあり、当時の状況が偲ばれる。」と記されている。

大津神社の拝殿


由緒
 元は若宮神社と言い、応神天皇を祀っていた。創建の年代は不詳。
 式内社の粟神社を合祀している。粟堂と言われていた。

本殿の屋根


お姿
 社標に鴉之杜とある。
 社殿は西向きに鎮座、楠や樫の木々が多く、古社らしく大きい。

戎社  稲荷社
 


お祭り


   10月  9日、10日  例大祭 [通称]本宮 [神事名]地車宮入り


由緒 平成祭礼データから

 大津神社  由緒書
 当社は元若宮八幡神社と称されていたが、明治四十一年一月十五日旧大津村宇多(現泉大津市上之町)鎮座の宇多神社と同村下条(同市神明町)に鎮座の神明神社の二社及び、菅原神社を合祀し更に同年同月同日同村字堀廻(同市戎町)に鎮座の事代主神社を境内社として合併した。
 また同年四月二十九日、同村宇多粟戸(同市式内町)に鎮座の式内粟神社を境内に移転し同年八月二十四日大津神社と改称し現在に至っている。
 若宮八幡神社は、阿部朝臣広庭八世の孫三郎忠清が天喜年間(約900年前)源頼義に従い奥州安部頼時貞任等を追討した功により京都に還り和泉下條郷をたまわり和泉三郎と称するに及び源頼義が鎌倉に鶴ケ岡八幡宮を創建した例に倣い康平七年(1064年)此の地に八幡神社を鎮祭した。 粟神社は、宝亀七年(776年)粟直氏当地に在住、粟氏の祖神天太玉命を祀ったのが即ち粟神社である。延喜式、式内社、和泉国、和泉郡二十八社の一である。昭和四十三年、明治百年記念事業の一として粟宮御社(極彩色)の破損を防ぐため鞘堂におさめられた。
 広良神社は、昔よりの若宮八幡神社の境内社である。神武天皇、皇兄五瀬命御東征の砌り日下において負傷され、ひとまず退却の己むなきに至り南下大阪湾より御乗船の際お手を洗われた。これよりこの海を血沼の海とよぶようになったが御乗船の地点が若宮八幡神社境内地付近の小津の泊りといわれており、ここに彦五瀬命をお祭り申し上げたといわれている。
 事代主神社は、天正年間(約400年前)南北朝当時の和泉三十六士の中、当地の勤王家、眞鍋、斉藤、藤林の三家が摂津西之宮の戎神社を勧請したものである。昭和三十五年、氏子崇敬者の熱意がみのり本殿東側に戎神社が再建され、本殿に合祀されていた御神像が新殿に遷座された。爾後十日戎の祭礼には商工業繁栄の守護神として氏子の崇敬を集めている。
 以上


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