石津神社
大阪府堺市堺区石津町1-15-21 its-mo
鳥居
交通
南海本線石津駅から石津川沿いに上流へ700m
祭神
八重事代主神、大己貴神、天穗日神
合祀 譽田別神、伊邪那美神、白山比賣神、水分神、高野神、高オカ神
摂社
宿祢神社「野見宿禰」、天満宮「菅原道眞」
拝殿
本殿
由緒
大島郡の式内社石津太神社一座とあり、当社と石津太神社とが論社として、定まっていない。『泉州志』は在下石津村とし、当社を記載していない。
『大日本地名辞書』では逆に当社を式内として、下石津を記していない。
石津村が上下に分離した際、一方に本社、もう一方にお旅所などがあったのを、それぞれ氏神とした事によるのかも知れない。
両社とも最古の笑姿神の降臨の地との石碑が立っている。笑姿、エミス。
当社は八重事代主神を戎神としている。五色の宝石を携えて降臨したので石津と名付けたと言う。孝昭天皇七年、勅願にて当社を創祀とする。天穂日命の十四世孫野見宿禰を神主としたとの由緒。
お姿
西向きの朱色の鳥居の扁額に「石津大神社」とあるように見える。
大抵の神社は遠目には緑の塊のように見えるが、いざ境内に足を踏み入れると意外に木々が少ないように思うことがある。当社も手前の跨橋の上からはなかなかの社叢のように思った。
本殿は近年再建されているようだ。レイアウトは江戸時代の図絵と変わっていない。
和泉名所図絵 上石津神社
摂社 宿祢神社、天満宮
お祭り
10月 4,5日 2日間 秋季例大祭
『平成祭礼データ』
当宮の起源は古く、人皇五代孝昭天皇(西暦前四七五年)の御宇七年八月十日、勅願により創建されたと伝えている。当宮は延喜式神名帳にも見られる日本最古の戎神の宮として広大無辺の御神徳を垂れ給い、石津の地はもとより付近各地の人々の心の拠り処として篤い崇敬を集めております。
社伝を抜粋しますと、往古、事代主神、此地に降臨のとき五色の神石を携え来りて此に置き給う、故に石津と名づく。人皇十一代垂仁天皇の御宇、天穂日命十四世孫、野見宿祢を当宮の神主と定め給う。仁徳天皇、石津に行幸あり、祈年穀の祭には毎年官幣使を立て給う。孝徳天皇、白雉三年(西暦六五二)に当宮に行幸ましましてこの時、御手洗川に御鏡を落とし給う。是れに依りて御手洗川を益鏡の小川という。(石津川)孝謙天皇、天平勝宝元年(西暦七四九)に行幸し給い同五年春正月、神主紀伊守を内裏に召して禄を給う。同天平宝字元年夏五月、紀伊守に藤原朝臣の姓を給いて従三位大納言を授けられ、河内の狭山・野田の二村を神領とせられる。当時は社頭も広く、新堂の岸を西にして、それより八町四方に及ぶ。大社と云えることは、柱は太く板は厚く造り、社頭は巍々とし殿宇は厳然として広大結構類いなく、出雲大社に次ぐ御社なればなるべし。その後平火の為に社殿悉く烏有に帰し、広大なる神領も失われ、後、漸次建営せり。後醍醐天皇行幸し給いて奉幣し給い、その上、神官に冠、及び沓を賜る。元禄十年(西暦一六九七)征夷大将軍、徳川綱吉公より神田八石九斗余の貢米を免ぜられ朱印地を賜り、河内四郡及び堺の付近は悉くその氏子なりき。桜町天皇の寛保三年(西暦一七四三)飛騨守石津連、陸野茂基を従六位下に叙せらる。以上のように朝廷武家の尊崇が篤く、これは偏に御神威の重きによるものであります。
以上 |
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