百舌鳥神社
堺市北区百舌鳥赤畑町5-706

交通

南海中百舌鳥駅、地下鉄御堂筋線中百舌鳥駅 西800mits-mo



鳥居



祭神

應神天皇
配祀 神功皇后、仲哀天皇、住吉大神、春日大神

摂社 稲荷神社「倉稻魂命」



鳥居と拝殿

由緒

 社前の説明では、神功皇后が外征の帰途、この地において幾万代まで天下泰平を祈願されたことにより、当地を万代(もず)と称し、ここに斎きまつったと伝えられる。
 中世の保元年間には石清水八幡宮の別宮となり、当地は石清水の荘園となった記録がある。

 百舌鳥の名は『仁徳紀』四三年九月庚子朔に次の記載がある。
 依網屯倉阿弭古捕異鳥。獻於天皇曰。臣毎張網捕鳥。未曾得是鳥之類。故奇而獻之。天皇召酒君示鳥曰。是何鳥矣。酒君對言。此鳥之類多在百濟。得馴而能從人。亦捷飛之掠諸鳥。百濟俗號此鳥曰倶知。〈是今時鷹也。〉乃授酒君令養馴。未幾時而得馴。酒君則以韋緡著其足。以小鈴著其尾。居腕上獻于天皇。▼是日幸百舌鳥野而遊獵。時雌雉多起。乃放鷹令捕。忽獲數十雉。◎是月。甫定鷹甘部。故時人號其養鷹之處。曰鷹甘邑也。
 百舌鳥野とは、毛受(モズと言う鳥)が多く繁殖していた野であったようだ。

 『仁徳紀』六十七年十月丁酉
 丁酉始築陵。是日。有鹿忽起野中。走之入 民之中而仆死。時異其忽死。以探其痍。即百舌鳥自耳出之飛去。因視耳中悉咋割剥。故號其處。曰百舌鳥耳原者。其是之縁也。
 百舌鳥の耳原の語源譚である。大仙古墳(伝仁徳陵)は百舌鳥野陵と呼ばれた。

 『大阪府誌』によれば、欽明天皇の八幡大神の託宣に依りて創建し給ひしものという。祭神は応神天皇にて、住吉、春日の二神を合祀し、今郷社たり。



社殿 享保十一年(1726)の建立、昭和四十六年修理

お姿

 広い境内である。石柱で囲まれている訳ではないので開放的というか、ちょっとしまりがない神社に見える。しかし風格というか自信を感じる堂々たる神社のように思う。



楠の木

胸高径 1.8m 幹周 5.2m  樹高 25m  樹齢 700〜800年
くすの木は暖かい地方に多い常緑樹で、独特の芳香を生じ、しばしば大木に育つこともあって、市内の社寺や旧家の庭には、多くのくすの大木があります。なかでもこのくすは、枝張り、葉付きともすばらしく、屈指の樹勢を誇っています。空を覆うばかりに四方に伸びた幹枝やそれを大地でしっかり支える根は生命力にあふれ、歴史の移り変わりを年輪に刻みながら育つその姿は、人々の信仰をあるめています。平成三年三月 教育委員会





稲荷神社  水天宮
 

平成祭礼データから

 百舌鳥神社略記

 所伝によれば、神功皇后が三韓征討の事終えて難波に御帰りになったとき、この百舌鳥の地に御心を留められ幾万年の後までもこの処に静まりまして、天下泰平民万人を守ろうという御誓願を立てられ、八幡大神の宣託をうけて欽明天皇の時代に、この地を(万代)と称し、ここに神社を創建してお祀りされたと伝えられます。その後社運次第に隆昌に赴き、朝野の崇敬愈々厚く、王朝時代には社僧四十八ケ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町を擁していました。古い記録としては、現在滋賀県長浜町に応安六年在銘の古い梵鐘がありますが之はもと本社の什物であったもので、その銘文中に「近衛天皇の仁平年間に本社の梵鐘が鋳造された」旨記されています。又山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇の保元三年には、当社が石清水八幡宮の別宮となっていたことが見え、また後宇多天皇の建治年間には、尚三百石の年貢米を、本宮たる石清水八幡宮に納めていたことが記されています。又新葉和歌集には「和泉国万代別宮に参籠し侍りける時よめる」として「民安く国治まれと祈るかな、人の世よりもわが君の為」という二品深勝親王の御歌が載せられています。親王は亀山天皇の皇子恒明親王の王子であらせられ、南北両朝戦乱の世を憂い給うの余り、当社に参籠されたのでありまして、当時皇室の御帰信の深かったことが知られます。前記応安六年在銘の梵鐘を奉納したのは当時和泉国の領主であった九州の豪族大内氏であり、このように武家の崇敬も厚かったのでありますが、大内氏の和泉に於ける兵乱や、降っては元和元年大阪夏の陣の兵火等、度重なる災禍を蒙った為、次第に昔日の壮観を失い、什宝、古文書等も多く散逸しました。併しその後も尚当社は地方信仰の中心として重んぜられ、徳川時代に於ても、青蓮院宮・町尻家・随心院門跡・土屋公その他より奉納寄進などのことあり、近くは明治八年大久保利通卿が参拝され、拝殿の額面を揮毫されました。尚大阪城代が交替するときは、必ず当社に参拝するのが例とされ、又毎年の例祭には堺町奉行が参向する定めとなっていました。公武の帰信既にかくの如くでありますから、庶民の崇敬の厚かったことも当然であります。氏子の信仰は申すまでもなく、古来大阪市、堺市及び近郊の人々の参詣多く、江戸時代に大阪堂島より二三百人の大団体が献納物を奉じて賑々しく参拝したことが記録に見える他、堺市の如きは準氏子地の如き関係を有し、現在でも厄除開運として市民の信仰が深いものがあります。
   以上
 


お祭り

 旧暦8月14日、15日 月見祭



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