奈加美神社
大阪府泉佐野市中庄834番地 ゼンリン


交通

南海本線井原里駅南500m

鳥居


祭神

 譽田別命 配祀 比賣命、息長帶比賣命
 合祀 豐受保神、水久萬利神、美刀志神、蛭子命、天兒屋根命、市杵嶋姫命、菅原道眞、素盞嗚命、八衢彦命、八衢姫命、久那斗神、篇吾大神(土祖神)、子守大神


 摂社 大宮稲荷神社「豊受保神、水久萬利神、美刀志乃神、白玉大明神」



拝殿



由緒

 当社の旧社である大宮神社の勧請年代は不明だが、平安朝の初期あるいは平城時代ではと古文書等から推測がされている。
 大宮神社・大宮は本郷中庄の惣鎮守として本郷はじめ近隣の住民からも崇敬を集めていた。本地旧家の古文書等によると、近郷地氏子中から自からの地の守護神として大宮神社の分霊を勧請する声が起り、人皇八十八代後深草天皇の宝治二年(1249)、佐野領域である近郷の大武家村(現在の大引分町)の地に、大引分神社(おびかき)が、大宮神社の分社として造営されたとある。

 地区の神社をまとめた中庄、上瓦屋、湊、の三地区の名を取って、奈加美神社と名付けた。


本殿 おそらくは覆殿でこの中に府指定文化財の本殿が鎮座。


お姿

 現在の本殿の建立は慶長一五年(1610)で、泉南を代表する桃山方式と言う。
 三間社流造の千鳥・軒唐破風付で、向拝中央には頭貫を入れず、両脇柱間には中国風の垂盤をつけるなどの特長があります。彫刻は蟇股内や軒唐破風の琵琶板面に限られています。木鼻類には彫刻を施されない反面、豊潤な彩色は華麗であり、泉南地域での近世初頭の遺構特色をよくあらわしています。
 本殿の写真でも展示されておれば良いのだが、文章での説明だけでは心許ない。

 社殿は南向きに鎮座し新しい。本殿背後の社叢は広い。楠、樫、など大きい木々が目立つ。 また社前の広場も広い。
 木々が多く、新緑に映えて気持ちがいい。楠、松、樫、桜など。
 東側にも鳥居がある。


拝殿前へのスロープがある!(車椅子、乳母車に良い)


大宮稲荷神社
 



お祭り


   10月  9日  秋季例祭


由緒 平成祭礼データから

 奈加美神社 由緒書
 当奈加美神社の旧社である、大宮神社の勧請については、その年代等は詳らかにされていませんが、平安朝の初期、あるいは平城時代にかゝるものではなかろうかと、古文書等から、年代推測がなされているものの、それを知るに確たる資料は残されていません。
 しかしながら、その沿革は極めて古いとされており、普通には、大宮神社、また略して単に大宮と称され、本郷中庄の惣鎮守として、本郷はもとより、近郷の住民からも、崇敬を一手に鐘めていたと徴されています。本地の平松家、佐野の藤田家所蔵の古文書等によると、其の后、近郷地氏子中から、自からの地の守護神として、大宮神社の分霊を勧請する声が起り、人皇八十八代後深草天皇の宝治二年(一二四九)、佐野領域である近郷の大武家村(現在の大引分町)の地に、大引分神社(市内大引九一一)が、大宮神社の分社として、造営建設されたとあります。ここに今を去ること実に七二〇余年前に、すでに分社をなし、末社を持っていたことからしても、本大宮神社の創建の年次が極めて古いものであったことを物語るものであり、平城時代ないし、平安朝の期に、その創建を求めても、あながち無理な推測でないと考えられます。
 その后にあっても、大宮神社の御神霊の分祀は、次々と近郷地から求められ、北朝の貞治三年(一三四六)に、近郷田出村(明治の初め佐野村から中庄村に編入)に中宮神社が、応安二年(一三六九)に市場村に、射手弦神社が、同じく文正元年(一四六六)に、西村に西村神社(市内車町四九二一)が、いずれも大宮神社の直接の分社として、各々の近郷地にその分霊が分祀されています。、また、大宮神社の直接の分社ではないが、分社からの分社、すなわち孫分社として元亀三年(一五七二)に、大引分神社から新引分神社(市内東千振一一六四)が、西村神社から今村神社が年を同じくして分祀鎮祭が行われたことが記されており、大宮神社は、その本郷地も併せ七ケ村にわたる惣鎮守社であったことが窺知せられます。尚、藤田家所蔵の古文書には大宮神社の直接の分社(初末社)として若宮神社が室町期文明二年(一四七〇)に分祀創建されたことが触れられているが、本地の平松家の古文書には、その記載がなく、当時の七座七社という表現は、大宮神社と、その分社の大引分神社、中宮神社、射手弦神社、今村神社の四社と、それに孫分社の新引分神社、今村神社、二社を併せた七社を指していると思われます。その后、明治四十一年一月九日に、これら六分社は、現在佐野春日神社に合社されてしまい、大宮神社のみが現在の奈加美神社の前身として存続している訳であります。これら一連の分社からも本大宮神社が近郷地にも稀な宏壮な、文字どうりの大宮であったことを推知するに難くはないのです。「今大宮様七膳づつする也」と御神前へ七座の神饌を供へる神事が、明治四十一年の合祀まで厳かに執り行われていたことも、七座七社の縁由によったものでしょう。
 また古くは、当大宮神社は、大宮大明神とも称され崇められていましたが、神仏混淆に則って、真言宗の社僧が神社の祭祀にあたり、その往時には神社を庵と呼称され、大宮神社のことを大宮庵と称されていた時期もあり古記にも、佐野大引分寺、遊観寺、遍照寺等の僧職が、神社祭祀を預った由とあります。もっとも神職による神明奉仕についての証についても多く残されていますが、すべて江戸期以降のもので、それ以前のものについては何ら資すものが残されておりません。本地湊町の教蓮寺古文書の徴するところに依りますと、大宮大明神は、紀州根来寺の触下で、社領三千石を有していましたが、天正四年(一五七六)四月から始まった織田信長の石山本願寺の攻略策に対しこれに抗すべく、本願寺光佐(顕如)は全国の一向宗門徒に檄を発したのですが、これに応えていち早く紀伊雑賀(和歌山市)の一向宗徒達が立ち上り、これに呼応して根来寺も信長の社寺焼討等の非道非理な社寺に対する政策を忌み、本願寺側にくみすることとなった訳ですが、この戦いについては「後太平記」にも詳しく見られるように、織田勢の一方的勝利に終始して、翌天正五年(一五七七)三月、根来寺は破却されるとともに、寺領八十万石が奪い取られましたが、その折り、信長は、京都にたち帰る途中、本大宮大明神を焼払ったとのことであります。この信長との戦いには、本願寺側にくみした雑賀一揆、根来寺衆のみでなく、多くの地元の一揆も参加したとのことであり、このため多くの民家が焼討され、逃げ遅れたもの二〜三百人もが討取られたとあり、本地もこの石山合戦のあおりにより忌々しい災厄を蒙ったことは事実のようです。そして大宮神社の建造物が悉く鳥有に帰したことは誠に惜むに余るものがあります。只、往時偲ぶ遺物としては、現在境内地に保存されている高さ六尺五寸(約二米)永徳三年(一三八二)十二月十八日の日付銘記のある石燈蘢(春日式円形柱六角火袋)一基があるのみです。もっとも、その他の遺物として原形は止めてはいませんが、境内地より出土の赤焼の屋根瓦片があります。これら瓦片は、行基瓦とのことで、その当時としては、この行基瓦を使用した建造物は極く限られた有力な神社、仏閣、豪族達らであり、府下に於いても稀にみられるものとのことであり、これら瓦片からも本神社が有数の建造物であったと推察され、その規模に至っても宏壮なものと、戦禍前のすなわち、中世戦国時代前の俤がここにも偲ばれます。天正年間の戦災后、慶長十五年(一六〇一)八月社殿造営の議が氏子衆から出、時の中庄村長新川宮内大輔盛喜、沙門松室坊頼真法印等がこれに尽力し大工長滝住人藤原貴兵衛にこれを請わせ社殿造営をみた訳ですが、戦火荒廃后のことであり、わずか二十五年して復興されたことは当時の関係者の並々ならぬ苦労があったことと感銘深いものがあります。
 その后、二十年毎をもって、大宮式年造営をなすことを神社の則と定め、第一回を中御門天皇の享保元年(一七一六)に始めとし、桜町天皇の元文元年(一七三六)、桃園天皇の宝暦六年(一七五一)、後桃園天皇の安永七年(一七七八)、光格天皇の寛政十年(一七九七)、仁孝天皇の文正元年(一八一八)、同皇の天保十一年(一八四〇)、孝明天皇の万延元年(一八六〇)、明治天皇の明治十三年(一八八〇)、同皇の明治三十三年(一九〇〇)、大正天皇の大正九年(一九二〇)とそれぞれ十一回にも及ぶ式年造営が行われています。もっともその間、時々多少の事由により多少の年次の早遅があると云われるものの、永々として式年造営が執り行われて参りましたが、昭和の戦時体制がしかれるに及び、歴史と伝統をもつこの式年造営も中止の止むなきに至った訳であります。そして戦后の造営としては昭和三十九年(一九六四)に社殿の修覆、彩色が実施されており、この時同時に社務所改築が併せ行われていますが大正九年の式年造営から過ぐること実に四十四年の星霜歳月を経てのことであります。又、これら一連の式年造営とは別に、社殿を始めとした建造物の築造、修覆、改善等も幾度かなされており、記録に残されているものとしては貞享五年(一六八八)、舞台、明和元年(一七六四)には神殿修覆があり、その棟札が残されています。更に明治、大正、今上天皇の即位等に際し大典にして厳粛な儀式とも併せ神苑の整備がなされ、その石碑が境内のあちこちに建立されています、舞台については大正六年(一九一七)に破損甚じるしき事由で撤去が行われています。一方こうした大宮神社動向とは別に、明治三十九年八月、当時の大阪府からの神社併合整理の指令が出され、これにもとずき明治四十一年(一九〇八)四月十四日中庄在のもっとも湊町(明治の初め頃まで湊村として中庄村とは別れていた)も含めての中庄在の神社の合祀が行われる運びとなり村社、若宮神社をはじめ、無格社戎神社、村社八坂神社(祇園社)、村社市杵島神社、村社菅原神社、村社藤原神社の六社が大宮神社に合祀され、更に続いて、村社中庄牛神社、無格社篇吾神社、無格社子守神社の三社の併合も認められるところとなり、同年十月十二日動座祭が行われ神社名称も大宮神社から「中庄神社」に改められています。これら神社社格は合祀時のもので大宮神社が明治五年に村社となった以外他の神社については、その社格付与された年次は詳らかなものがありません。また、これら被合社九社の中で、その創建が明らかとされているのは湊の戎神社一社のみで元和七年(一六二一)氏子、半太夫、小右衛門、重右衛門の三名が西宮戎神社より勧請したとありますが他の八社については全くその創建は不明となっています。他方、上瓦屋に於いても、府の神社併合整理の指令にもとづき、村内神社間の合祀が進められており、上瓦屋全村の惣氏神である佐野川稲荷神社(村社)本宮として、山出の村社稲荷神社、村社牛神社(二社)村社奥宮神社、村社塞(財)神社の五社の合社が、中庄の六社合社と全く時を同じくする。明治四十一年(一九〇八)四月二十日に動座祭を行っています。社号は本宮の稲荷神社名をとり改めて、「稲荷神社」として発足しています。本宮稲荷神社をも含め、各神社の創建の年次は詳らかにされていないのは中庄神社同様残念です。只、佐野川の稲荷神社を単に稲荷神社と呼ぶのに対して、山出の稲荷神社を小稲荷神社と呼ぶことは、山出の稲荷神社が山出のみの、氏子数も少ない氏神であり、また同時に、山出稲荷神社の氏子が佐野川稲荷神社の氏子でもあったことから、恐らく山出の稲荷神社は佐野川稲荷神社から勧請されたその末社であろうかと思われます。このようにして中庄には「中庄神社」、上瓦屋には「稲荷神社」と一村一社に神社の併合整理がなされたが、翌明治四十二年(一九〇九)二月二十日再び「中庄神社」と「稲荷神社」が合社する声が両氏子中から起り、これを機に、中庄、上瓦屋、湊、の三地区の氏子より新社号への改称の議が出されて、これによりは三町がともに和合協力の精神をもってこの合併神社の護持発展を図ろうとする意味合から、各三町の字地名の頭仮名文字を一字づつ採り合せ「奈加美神社」と社号を変更しました。尚、緑の林の中に朱色もあでやかな大宮稲荷神社の新社殿造営は、一篤志の多大の浄財の寄付を得、加えて多くの氏子崇敬者の積極的な寄進により、奥の森林の中の、とかくすれば見失なわれがちに石祠のまゝ祭祀されていた。白玉稲荷大明神と奈加美神社の配神、豊受保神、水久萬利神、美刀志乃神(いずれも旧上瓦屋稲荷神社の御祭神)を合せ四柱の神々を迎え、さらに神々の御神威を高きものとするため、境内余地を利用し大宮の字名を冠しその名も大宮稲荷神社と称して昭和四十六年二月二日に遷座祭を執り行い奈加美神社境内神社として現在地に奉鎮したものであります。従いまして大宮稲荷神社の御祭神は豊受保神、水久萬利神、美刀志乃神、及び白玉大明神の四柱を奉祀してあります。
 以上


神奈備にようこそ