意賀美神社
大阪府岸和田市土生滝町17 mapfan



鳥居

交通

JR阪和線東岸和田駅よりバス



祭神

闇淤加美神



由緒

 武塔天神、雨降明神などと称された。 創建は古く天平年間以前で、古石漱盤に「天平四壬申年・・」と刻まれている。古社でもこのような物があるのは珍しい。 御神体は雨降りの滝そのものであろうと思われ、その以前からの祭祀が行われていたとしても不思議ではない。

 当社の西に土生神社があり、菅原道真を祭神とする天満宮であるが、その地域では当社を産土神としていたのだが遠方であり、そこで白河上皇が熊野の神々を勧請して不便を解消されようとなされていたようだが、堀河天皇の朝廷は天満天神を祀るべしとの御意を示している。何故だろうと思っていたのだが、旱魃の際、朝廷が菅原道真を差し向けて祈雨の奉弊をしていることが由縁ではなかろうか。
 また意賀美神社の手前に波多氏の氏神であった矢代寸神社が鎮座していたのだが、産土神をそれに切り替えるようなことはしなかったのが面白い。

 当地は明治以降に有眞香となっている。 有眞香と言えば物部守屋大連に使えて最後まで奮戦した捕鳥部万が思い出される。
 用明天皇二年、蘇我馬子・聖徳太子らが物部守屋を攻めたとき、捕鳥部万は守屋の難波宅を守っていたが、守屋が戦死したので逃れ、茅渟県真香邑の山中にかくれた。押し寄せてきた数百の兵を相手に奮戦、遂には自刃した。
 屍は八つ裂きにされたが、万の飼い犬が万の死を嘆き、その首をくわえて古い墓に収め、さらに枕側に伏して飢え死んだ。朝廷はこれを知るにおよび、墓を作って葬ることを許したと言う。墓は有真香邑に作り、万と犬とを葬った。有真香は万の妻の里であった。

 貝塚市久保に鎮座する阿理莫神社付近かと思っていたが、意賀美神社付近の方が似合いそうな場所と思う。



雨降り滝または土生の滝



お姿

 バスからは神社の上の道から下っていくことになり、神社の雰囲気がわかりにくい。 一度下へ下りてみると滝からの流れが深い渓谷をなしている様子がよくわかる。 闇淤加美神を祭神とするのにふさわしいたたずまいをなしている。

 社叢の植物は豊富である。シイカシ、シイ、タブ、アラカシ、ツブラジイ、スダジイなど。



役行者のようだがひょっとしたら捕鳥部万


拝殿


お祭り

 10月 9日 1日間 例祭

由緒 平成祭礼データから

 当社は古来和泉国掃守郷土生滝村同郡阿間河谷庄滝村両所の境に鎮座し闇於加美神を奉祀する。其の創立の年代不詳であるが年次は遙かに天平年間より以前の事に属し現存する石漱盤の鐫刻「天平四年壬申年八月吉日座中」によっても知る事が出来る、社号は正しく意賀美神社と称し奉るがOGAMI 太神宮とも称し又神霊を尊んで雨降大明神とも称している、神明帳に南郡従五位上意賀美神社とあり常に風雨順当五穀豊穰を祈願し旱天で米穀枯死の害をさけるときは遠く四方より参拝して雨乞の祈願をするのは今も昔も変わる事がない。聖武天皇天平4年の夏大旱魃の時祈雨の御勅願がありその霊験により御綸旨を以て社領を寄進され、ついで陽成天皇元慶8年6月菅原道真公祈雨の奉弊があり霊験著しく比の頃より雨降りの明神と称え奉るという戦国の世も氏子村民の崇敬は変わらず造営修理能く其の頽廃を防いで今日に至っている。
 寛永年中大旱魃の当時近郷百八ヶ所の村々当社前に集い祈願し若し神徳を賜れば河向いより御社頭迄金属製の橋を架け以て神恩に報い奉ろうと祈願成就を祈っている時はるかに豪雨沛然として降り来て村民一同深く神恩の宏大さに感泣したとか、然る風雨後架橋成難くそれ以来毎年土用の入りの当日近在より神酒奉幣し永くその神恩に報賽する事の例を開き今日に至るまで祭祀を怠る事がない。
 天保18年寅8月坊城前大納言菅原俊明卿の奉納による御神号額一面がありその崇敬厚いことがわかる。
 以上
 (注)文中のOGAMI は、「雨」冠に「龍」です。


参考 『式内社調査報告』、『平成祭礼データ』

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