加賀國:42座 並小


江沼郡[エヌマ(エヌ)]:11座並小

篠原神社[シノハラ]
篠原神社[しのはら]「天兒屋根命」石川県加賀市篠原町ル-1 玄松子の記憶

刀何理神社[トカリ]
貴船神社「高神 配 菊理姫神」石川県加賀市小塩町ケ-137-甲 玄松子の記憶
貴船神社由緒書き碑文
勧進不詳、鳥居天保年代、旧小塩浦貴船社と有り、之故に以前と推す。
明治二十七年現社名に改称、明治四十二年白山神社と合併合祀する。
白山神社とは往古以来小塩浦海岸砥苅崎之処為波涛社地沈没現社に合祀。
大正四年幣帛供進神社に指定され昭和二十一年神社本庁所属となる。
刀何理神社[とかり]「菊理媛神、應神天皇」石川県小松市矢田町レ-50 玄松子の記憶
刀何理神社由緒
創立年月不詳、古くは、江沼八郷の一つで八田郷と呼ばれていた、遠く仁徳天皇の八 田皇后の御名代をして八田連の居た地方であった。
延喜式内社として神名帳に記載され初め白山社(福羅の宮)といったが明治十一年九 月に普久良神社を改める。
明治三十九年十一月(一九〇六年)に八幡神社(借屋の宮)と称していた無格社刀何 理神社を合併し刀何理神社と改称する。
明治四十一年四月八日神饌幣帛供進神社に指定され村社となる。

御木神社[ミキ]
御木神社「大御食津神 合 菅原道眞」石川県加賀市三木町34-98 玄松子の記憶
御木神社由緒
往古は江沼の潟端にありて、三木の郷社といい、延喜五年(西暦905年)に編さんさ れた延喜式神名帳に記載されている古社である。
社伝によれば当時は塩浦海岸に堀切がなく、江沼の潟と稱する大きな湖があり、ここ に大蛇が樓みつき田畑を荒した。
この地の守神として大御食津神を奉祀し、御木神社と稱した。
中古の動乱の際、兵火にあい、社地を宮山から現在の地に移した。

宮村部神社[ミヤムライソヘ]
宮村部神社[みやむらいそべ]「宮村部神」 石川県加賀市宮町ヌ-9-1 玄松子の記憶

服部神社[ハトリ]
服部神社「天羽槌雄神」野桑多く野生の蚕が黄色の繭を産した。石川県加賀市山代温泉18-7-丁 玄松子の記憶 服部と服部神社の由来
服部神社由緒
天羽槌雄命は、天太玉命に隷属せる天日鷲命の御子にして始めて麻を以て文布を織り 給ふて機織の業に特に功を成し給へり。
和銅年間勸請延喜式所載の古社にして、貞観十六年五月従五位下を授けられ、社殿の 構造宏大にして一に山背郷社とも言へり。
花山法皇北国下向の際、ここに参拝あらせられ神宝を寄進して厚く之を崇敬し、大聖 寺藩主世々其祈願所となし給ひ山背郷民挙って、大神を渇仰せり。
天文年間、朝倉義景の兵火に罹り悉く鳥有に歸し、一時廃社とありしを明治八年七月 再興し相殿に座す。
菊理姫命御奉斎の白山神社と合併して、郷社に列し明治十七年三月七日懸社に昇格せらる。
爾来氏子の崇敬の念は益々篤く旺盛である。
平成三年十一月山代日子命を増祀する。

菅生石部神社[スカフイソヘ]
菅生石部神社[すごういそべ]「菅生石部神」社伝では 天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 の三神石川県加賀市大聖寺敷地ル-乙81-乙 玄松子の記憶
社礼特殊信仰など
一、御本殿御扉のこと
御本殿御扉は古來如何なる祭典にも御開扉せざる事一社古傳の秘事である。

一、疫病(オコリ)落しの事
疫病を病む者暁に鳥居の下にて草履をぬぎ參拜祈願の上、うしろを振向くことなく女 坂(東參道)を下りて歸宅すれば疫病落つと傳ふ。

一、鯛を供へざる事
御祭神日子穂々出見命の故事により古來鯛を神饌とせず。

一、御神使の事
蛇、龜は御神使にして祭禮豐玉毘賣命の眷屬なれば之を殺すことなかれ、若し之を食 せば一生諸願滿足なしと旧記に傳ふ。

一、富樫かくれ道の事
昔富樫の先祖が宮地のとほりに來掛りし時、馬すくみて進み得ざりしを富樫は、我領 内に坐す神にして我に咎めあることなし、馬に咎めあるなりとて、馬の首を切り拜殿 に投げ込みしより、富樫一家は末末迄社前の通行かなはず、遂に山の後の小道を通路 とせしかば、後世これを富樫のかくれ道といひ高き御神威を畏みまつれり。

創祀
用明天皇の御宇、越の江沼の土俗、禮節なく、剽掠を好みて農桑を務めざりしかば、 御即位元年九月當地方鎭護の神として宮中より遷祀せしめ給ひ、當國の五穀豐登萬民 富饒を御立願あらせられしを、創祀とする。

御神徳
古來武運守護神と崇め奉り後西天皇皇子御降誕の砌安産御守献上の事古文書に見ゆる 如く安産御守護の神として又疫病解除、五穀豐饒、養蠶守護、漁業守護の大神として 普く高き御神徳を仰ぎ奉れり。

社号と社格
古より菅生石部(すがふいそべ)神社と稱へ、中世以降民間にては敷地天神と申す。
延喜式内社、加賀二宮にして、明治二十九年三月十九日國幣小社に列せらる。

崇敬のあらはれ
陽成天皇の御代正五位下に、朱雀天皇天慶三年正四位下に陞叙せられ、用明天皇御代 諸國に疫病流行せし時疫病解除、五穀豐饒を祈らせ給ひ、天武天皇御願神事を始めさ せられ、往古より正親町天皇の頃まで一年兩度の居入祭には勅使參向御衣神寶を奉ら しめ給ふなど朝廷の御崇敬篤く大正三年攝政宮殿下北陸行啓の御砌には侍従御差遣奉 幣あらせらる。
又、木曾義仲・富樫昌家・足利義持・豐臣秀吉・山口玄蕃等武門武將深く尊崇し、前 田藩に及び氏神として神地寄進社殿造營調度の修造等絶えず、夏祭を藩祭となし藩の 四民を參拜せしむる等崇敬の誠を捧げ奉れり。

特殊神事
一、御願神事 諸國に類例なき勇壯な神事で、毎年二月十日例祭に行はれ、天武天皇 の御代、賓祚長久國家安全を祈り治世尚ほ亂を忘れざらしめんとの御立願により行は せ給へるにより御願神事と稱し、氏子崇敬者より奉納の青竹數千を潔齋せる氏子青年 數十名、短き白衣一枚、白鉢巻姿で一齊に拜殿に上り喊聲を擧げて打ち割る。
其の音耳も聾し、齋庭に焔々と燃ゆる齋火と共に壯絶を極む。
竹を悉く打碎くや、更に青年は大縄を拜殿より持ち出して積雪の境内をエイエイと互 に曳き合ふこと數度、社前の橋上より之を河中に投じて神事を終る。
旧記に大縄を曳き合ふは祭神日向の鵜戸宮にて神軍ありし御學びなりといひ、この縄 は大漁に竹は悪事災難除け、豐蠶に靈験ありと信ぜらる。
神事前十日間は神社に於て一切の鳴物を禁ず。

一、夏祭 夏越祓(七月二十四日)疫神祭(七月二十五日)湯の花神事(七月二十六 日)の三日間の祭典は災厄を拂ひ清めて四民の安穩と、當年の五穀豐登とを祈願し、 敷地祭或は天神講と稱して、年中最も賑々しき祭典である。

神域と社殿
大聖寺川の清流のほとりなる、天神山(一名敷地山)に御鎭座、御社殿四圍の御山よ りは今も土器等の出土多く御創立年代の古さが考察される。
社殿は本殿以下昭和十三年八月、十ケ年の日子と十數萬圓の工費とを以つて新改築工 事完成せるものにして、畏くも御内帑金下賜の恩命に浴し、御木の香も高き御社頭は 千古の神奈備と共に尊嚴愈々加へさせらる。


忌浪神社[イムナミ]
忌波神社[いみなみ]「倉稻魂命」崇神天皇御代大毘古命が祀る。石川県加賀市弓波町イ-1 玄松子の記憶

日置神社[ヒオキ]
日置神社[ひおき]「天押日命」石川県江沼郡山中町レ79-1 阜嵐健

出水神社[イツミ]
出水神社[いずみ]「合 稻倉魂神 主 天津日高彦火火出見命、豐玉姫命、應神天皇」景行天皇御代。石川県加賀市橋立町ホ-1-甲 玄松子の記憶

氣多御子神社[ケタミコ]
氣多御子神社「天照皇大神、大己貴命、菊理媛神」江沼の國氣多の神奈備に鎮座。石川県小松市額見町サ-58 玄松子の記憶

潮津神社[ウシホツ]
潮津神社[うしおず]「合 應神天皇 主 鹽土老翁」石川県加賀市潮津町ユ-32 玄松子の記憶


能美郡[ノミ]:8座並小

狭野神社[サノ]
狭野神社「素盞嗚尊、天照大御神、豊受比命」石川県能美郡寺井町佐野ノ88-2 玄松子の記憶

多太神社[タタ]
多太神社[ただ]「衝桙等乎而留比古命」石川県小松市上本折町72 神社 玄松子の記憶
多太神社由緒
当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。
社縁起によると、六世紀初め、武烈天皇の五年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体 天皇)の勧請によると伝えられ平安時代初期には延喜式内社に列している。
寛弘五年(一〇〇八)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した 。
寿永二年(一一八三)源平合戦のとき、木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖 等を奉納し戦勝を祈願した。
室町時代初めの応永二十一年(一四一四)には時衆第十四世大空上人が実盛の兜を供 養された以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。
大正元年に本殿後方から発掘された八千五百余枚に及ぶ古銭は、室町中期の十五世紀 初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである。
慶長五年(一六〇〇)小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され三男の右京に社家を 守らせ、舟津村領にて五丁八反二四三歩を寄進されたことが記録にある、加賀三代藩 主前田利常は寛永十七年(一六四〇)に社地を寄進し慶安二年(一六四九)の制札に は能美郡全体の総社に制定し能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを 決めている。
元禄二年(一六八九)松尾芭蕉が奥の細道の途次本社に詣で実盛の兜によせて感慨の 句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し神領や数々の社宝 を奉納になった。
明治十五年に県社に指定された。 歴代の宮司はその人を得、よく精励し神社の守りにあたってきた、由緒と歴史を持ち 、広く人々の尊信を受けてきた本社の神威はいよいよ輝きを加えている。

石部神社[イソヘ]
石部神社「櫛日方別命」石川県小松市古府町カ-169 玄松子の記憶

滓上神社[カスカミ]
滓上神社[かすかみ]「五十日足彦命 ほか」大寶二年四月の創建。石川県小松市中海町リ-2 玄松子の記憶
延喜式.式内社滓上神社の由緒
当社の創祀遼遠大寶二年四月の創建で上古よりの旧社にて、旧由緒書によれば垂仁天 皇の皇子五十日帯彦命が高志道越の国の中(現神地所在地)に下向あり、越前を経て 当地に幾星霜駐留あらせられ、大いに教化を布き稼穡を勧め給いしにより、民庶靡然 として王徳の高大に感じ、守護神として古から遠近より祈願する崇敬者多く、之を以 て醍醐天皇の延長五年延喜式の神名帳に登載され能美郡式内社八座の一となり、新年 奉幣の儀あり、国司国守の祈願あり、嘉祥三年正六位を授けられる、元慶元年幣帛に 預り、永保六年正四位に進み、昭和十七年社格郷社に列せられた。
当地では昔より郷神様と申す通稱あるは高志道越の国の中の地域を輕海の郷と稱する 地域で郷の守護神とも伺へる。

幡生神社[ハタサカ]
幡生神社[はたさや]「幡生神」石川県小松市吉竹町ヘ-253

橋神社[ウサキハシ]
兎橋神社[うはし]「菟橋大神、建御名方命、八坂刀賣命」文武天皇慶雲元年。莵橋(うはし)神社の名称もこの得橋(うはし)郷の名によるものであり、雨水期には洪水氾濫して高地所々に浮き上り恰も浮橋の如くなるにより「うはし」の郷名が生れたと古書に記載されている。川県小松市浜田町イ-233甲 玄松子の記憶
延喜式内社 莵橋神社(お諏訪さん)略記
御鎮座の由来
当神社の創立は遠く古代にさかのぼり社伝によれば人皇第四十二代文武天皇慶雲元年 (六九七年)と伝えられ醍醐天皇延長五年(九二七年)には早くも延喜式神名帳に「 加賀国能美郡八座並小莵橋神社」として登載されている古社である。
和名抄に言う加賀国能美郡得橋(うはし)郷三十ケ村の総社として当時の国王、守護 職を初め上下一般の庶民から篤く崇敬されていた。莵橋(うはし)神社の名称もこの 得橋(うはし)郷の名によるものであり、雨水期には洪水氾濫して高地所々に浮き上 り恰も浮橋の如くなるにより「うはし」の郷名が生れたと古書に記載されている現在 の梯川地域である。
鎮座地については古来から幾多の変遷があったと思われるが神社の社記や古文書或は 前田家所蔵の加賀国神社縁起等によると初めは国府の所在地に近い能美郡得橋郷小野 村に在り国司、守護職等の祈願所として例年国土開拓天下泰平の祈願を行っていた。
中世末に至って得橋郷上小松村に遷り更に徳川時代の初期中納言前田利常卿が小松城 に居を移されるに際し小松城内の兎橋御門内に奉遷して小松、金沢両城の守護神とし て篤く崇敬の誠を捧げられ慶安四年に梯川の下流の中央に位置する浜田の庄の神明宮 の社地を拡張し、ここを永代の神域と定められ新に社殿を造営し遷座したのが現在の 莵橋神社の神域であり本殿は当時の建造物である。

多伎奈弥神社[タキナミ]
滝浪神社「多幾里比命、天照皇大神」石川県小松市大野町イキツキ5-7・6-3 玄松子の記憶
滝浪神社「大國主命、菊理姫命、伊弉諾命、伊弉冉命」石川県能美郡辰口町長滝ワ-4 玄松子の記憶
由緒
始め瀧浪社と称し、明治二十二年瀧浪神社に改称。 創建は明らかではないが、式内多伎奈弥神社と伝えられ「式内等旧社記」に多岐奈弥 神社式内一座山上郷長滝村鎮座今称白山社一有二布滝七段流下故故云二七滝一名宮滝 云々とあり、社殿は明治初年まで山の中腹にあったが、後に今の地に移転した。
古鏡や土器が出土している。
多伎奈彌八幡神社「?」近くに滝の跡、長竹遺跡は縄文晩期。石川県松任市長竹町ハ7 玄松子の記憶

熊田神社[クマタ]
熊田神社[くまだ]「稻倉魂神」石川県能美郡根上町字吉原レ-131 玄松子の記憶
熊田神社の由緒
延喜式内社にあてられる。
始め熊田村に熊田神社、吉原村に八幡宮があった。
寛永年間の大洪水で熊田村の神殿流失する。
明治9年両社を合祀して熊田神社と称す。
明治39年現今の地に遷座。


石川郡[イシカハ]:10座並小

白山比神社[シラヤマヒメ]
白山比神社[しろやまひめ]「白山比大神、伊弉諾神、伊弉冉神 配 三宮媛神」 白山は[真白き神の座]として古来よりの信仰の山であった。山中に発する手取川は広大な加賀平野を穀倉地帯としている。山合いを出る手前に本宮が鎮座、御前峰山頂に奥宮がある。神奈備の白山奥宮 石川県石川郡鶴来町三ノ宮町ニ-105-1 玄松子の記憶
御由緒
当社は、遠く神代(かみよ)の昔、霊峰「白山(はくさん)」を神体山として、生き とし生けるものの、「いのち」の祖神(おやがみ)と仰ぎまつる“白山比me大神(し らやまひめのおおかみ)”を奉斎したことにはじまり、その創立は遠く崇神(すじん )天皇の御代と伝えられます。
延喜式内の名社でありまして、古来「下白山(しもしらやま)と称せられた本社は、 霊峰白山の「まつりのにわ」として設けられた「白山本宮」で、「加賀一の宮」とし て尊崇され、「白山(しらやま)さん」としてあまねく親しまれている北陸鎮護の大 社であります。
養老元年(七一七)僧泰澄(たいちょう)がはじめて白山に登拝してから後は、朝野 の信仰益々篤く、修験道場として隆盛を極め「白山衆徒三千を数う」と称せられまし た。
その後、文明十二年(一四八〇)の大火によって四〇有余の堂塔伽藍が悉く烏有に帰 しましたので、末社三ノ宮の鎮座地である現在地に遷られて今日に至りました。
明治維新の後は「下白山」を本社、「白山天嶺(はくさんてんれい)」を奥宮とし、 “国幣中社”として国家から特別の重い待遇を受けましたが、終戦後の今日では、全 国に奉斎されている三千有余の白山神社の総本宮として“白山信仰”の中心をなして おります。
このようにして当社には白山比・大神の大御稜威(おおみいつ)を欽仰して、神恩奉 賽の誠を捧げ、神楽(かぐら)を奉奏する崇敬者が四季を通じて跡を絶たず、とりわ け正月・五月及び九月は「おまいり月」と称して参拝者が多く、御社頭が賑わいます 。
日ごと月ごと「白山さん」の神前に奏でまつるみやびやかな神楽(かぐら)の音が、 神さびた神苑の老杉古欅にこだまして、御霊験愈々いやちこなるものを拝します。

本村井神社[・・ムラヰ]
本村井神社[もとむらい]「合 應神天皇 主 少彦名命、春日四柱神、菅原道眞」大宝二年。石川県松任市村井町1-4 玄松子の記憶
本村井神社由緒
創設は千三百年前 本村井神社は、およそ千三百年前、奈良朝時代はじめ大宝二年文 武天皇の時代に創設されました。
当時は旧本殿の跡より8号線バイパス、樋爪地区にかけて大きな池があったそうです 。
子供達が遊んでいて、たびたび池に落ちて命を失ったので、村人達は埋めてしまいま した。
やがて付近の村人達に悪い病気がはやり、農作物も毎年不作となり、大変困りはてて しまいました。
時に村内の豪士『後に村井備中神九郎と名乗り、代々神職をつとめました』が、この 惨状をなんとかしなければと天の神、地の神に日夜祈り続けたといい伝えられていま す。
祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと) ある夜、豪士の枕もとに神があらわれ「 村人がこのような災難にあうのは前にあった池を埋めてしまったたたりである。いま すぐにも池のあったところに神社を建て、国土建設に功績のあった神々をまつれば、 ただちに災難から免れて、幸福な日々をおくることができる。私の名前は少彦名命で ある。」とお告げがありました。
翌日、豪士は村人達を集めて、この神のお告げを話しました。
早速、神社を建てて少彦名命をたてまつりました。
村人達は誠意をもってその神徳に感謝をし、参拝を続けました。
やがて悪い病気もなくなり、元のとおり豊作が続いたといわれています。
広大な社地と村井の地名 村井備中神九郎は戦国時代の終わり頃から代々神職をつと めました。
現在の中村地区の〔シンクロダ〕と呼ばれているところに住居がありました。
また、武衛地区の西方に郷田(ゴウデン)と呼ばれるところがありますが、村井備中 神九郎の弟がこの付近に住み、豪士として神社につとめていたともいわれています。
このことから社地がかなり広かったことが想像されます。
そのころ広大な社地には老杉がおい茂り、周囲には再び大きな池ができていました。
この池は川から流れ込んだものか、雨水がたまったものかはあきらかではありません が、村人達はこの水で作物を作り、飲料水として使っていました。
まさに村人達の命の綱、村人達の井戸でした。
これが村井の地名の由来です。
二度の大火をうけて 寛文五年(665年)江戸時代、原因不明の出火があり神社が全 焼しました。
かけつけた村人達は御神体を金沢市野町の神明宮に移しました。
そして一五〇年を経た文政十年(827年)に再建されました。
朝廷より「本村井神社」の社号を賜わりました。
しかし御神体は神明宮におかれていましたので、二年毎に神明宮より移すことを例と しました。
明治五年四月、村人達が協議して、御神体を元の本村井神社に迎えようと、神明宮の 神主に申したて、厳重な儀式の後、元のところへもどることになりました。
実に火災にあってから二百年も経てからでした。
しかし、明治十六年十二月九日(883年)再び火災にあい、みこし、祭具一切を消失 しました。
明治二〇年に再建 村人達は嘆き悲しみました。
前よりも大きく立派な社殿を造営することで、敬神の誠意をあらわすことにしました 。
明治二〇年に再建され、明治四〇年には境内社旧八幡社祭神応神天皇、菅原道真を本 社へ合祀、境外社旧市杵島姫社祭神市杵姫命を合祀、境外社や稲荷社祭神宇賀御魂を それぞれ本社の相殿として祀りました。
そして昭和一〇年には本殿が改築されて現在に至っています。
近年、氏子各位、篤志家の好意により境内や付属物の大改善、新設がなされました。
しかし、社殿はすでに百年を経過しており老朽化が進んでいます。
特に昭和の三大台風による老木の倒壊が本殿屋根部分を破壊変形し、そのままとなっ ています。
また社殿基礎部分も沈下部分が最近めだつようになってきました。
氏子総代により毎年修復維持管理につとめてきましたが、近い将来には平成の大改築 が必要となっています。

額東神社[ヌカヒムカシ]
額東神社[ぬかひがし]「伊邪那岐命、國底立命」神護景雲二年創設。字額山に鎮座。石川県金沢市額谷町ロ-129 玄松子の記憶

額西神社[ヌカニシ]
額西神社[ぬかにし]「伊邪那美命」石川県金沢市額乙丸町イ-31-1 玄松子の記憶

御馬神社[ミムマ]
御馬神社[みうま]「大若子神、保食大神」 石川県金沢市久安町1丁目178 石川県と福井県の神社
延喜式内 御馬神社由緒・沿革
御馬神社(みまじんじゃ)は、三馬郷(旧石川郡三馬村一帯)の総社で、仁寿(にん じゅ)元年(八五一年)に正六位上の神階(しんかい)を授けられ、歴代朝廷の尊崇 も篤く社地広大で社殿も広荘で隆盛をきわめておりました。
平安最盛期の延喜五年(九〇五年)に、醍醐天皇の命により編纂した律令政治の基本 法「延喜式(えんぎしき)」が制定され、この延喜式五十巻のうち第九巻と第十巻の 「神名帳(しんみょうちょう)」に所載されている全国三千三十二座(社)の由緒あ る神社を「延喜式内社」と呼び、官国幣社として国家より班幣(祭祀料)を賜ってお りました。
加賀国石川郡では御馬神社を含めわずか十座(社)しか延喜式に所載されておらず、 郡内では鶴来の白山さんや松任の笠間神社、金石の大野湊神社などと並び称されるお 宮でした。
後一条天皇の頃に加賀国の守護富樫家が野々市に館を建ててからは、代々御馬神社を 崇敬し、たくさんの寄進や社殿の修復に尽くされましたが、寿永(じゅえい)二年の 源平の合戦の折、木曾義仲の軍勢によって兵火に罹り、神宝や社記もすべて焼失して しまいました。
その後富樫氏の力で再建されましたけれども、長享(ちょうきょう)・延徳(えんと く)年中の富樫氏の内争があってからは次第に荒廃し、昔の面影を失ったことはまこ とに残念なことです。
御馬神社は、御馬皇子(みまおうじ)が神を祀ったことを社名の由来としますが、そ の御馬皇子とは加賀国式内等旧社記(かがのくにしきないとうきゅうしゃき)に、「 御馬明神(みまみょうじん)・祭神・大若子命(おおわこごのみこと)」とあり、大 若子命はその昔朝廷より越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ、大い に旗(幡(はた))を挙げて戦いに勝ったので、大幡主命(おおはたぬしのみこと) の尊称を与えられました。
その大若子命の子孫(一説に御馬織連(みまおりのむらじ))がこの地にとどまり御 馬皇子と呼ばれ、祖先神を祀ったものだと考えられます。
また、大若子命は前述のとおり大幡主命とも呼ばれ、機織りの神として全国の幡生神 社系のお宮に祀られており、特に能登を中心に北陸には大幡神社や幡生神社の社号が 多くあり、大若子命が北陸遠征の際に機織りの技術を伝え、感謝した里人が神として 祀ったものではないかと、大正十四年に内務省が発刊した「特選神名帳」の加賀国石 川郡御馬神社の項に書かれております。
市内の間明町にも御馬神社があり、どちらが延喜式内の正社かとの論争もありました が、今から千百五十年ほど前に書かれた日本霊異記(にほんりょういき)に「御馬河 の里(中略)今石川郡久安村是なり」とあり、本社が御馬堂とも呼ばれ、のちに二万 堂と転語したこと、また神様にお供えする神饌を調理したり御洗水(みたらし)に使 う清き流れの川を(ニマ)とも云ったことからも、御馬川のほとりに鎮座する本社が まさに正社といえます。
加賀古跡考(かがこせきこう)という書物に、「富樫泰高(とがしやすたか)久安に 下屋敷を構え当社に稲荷明神を勧請し(中略)天道院のちに金沢に移す」と記してあ りますが、昔日北華録(しゃくじつほっかろく)に富樫氏が邸内鎮守の神として稲荷 を勧請崇拝したことが見え、社僧天道院(しゃそうてんどういん)はその富樫氏邸内 鎮守の稲荷を遷したわけで、現在御馬神社に祀られている稲荷神と市内並木町鎮座の 浅野川稲荷神社とはまったく関係がないことが、大正十三年発刊の石川県石川郡神社 誌に書かれております。
なお、富樫氏邸内の稲荷社があった地に、義経笈懸(よしつねおいづるがけ)の松が あったそうですが、延宝年中(一六七〇年頃)に枯れてしまったと伝えられています 。
明治六年村社となり、同三十九年久安小字サラスイの無格社田中社(中久安)と、久 安小字サントサに鎮座の無格社八幡社(下久安)を御馬神社(上久安)に合祀して、 同年十二月二十九日に神饌幣帛料供進神社指定されました。 戦時中は御馬神社の名にあやかり、軍馬のお守りを求めて軍人さんや出征兵士の家族 らが多数お参りに来られました。
お祭りの余興には、「喜楽座」と呼ばれる芝居興行が行なわれ、久安の芝居として近 郷近在に有名で、たくさんの人が境内をうめました。
昭和二十四年八月十日、拝殿改築を祝う竣工慶賀祭が齋行されましたが、歳月ととも に社殿の傷みも甚だしく、平成の御代となり氏子の戸数も二千戸に達しようとする時 、先祖のお蔭によって残された尊い財産を久安地区発展のために有効利用しようと英 断し、押し進めて来た土地区画整理の大事業も完工し、神様のお蔭そして先祖のお蔭 、氏子の皆様のお蔭により先づ社務所が完成し、御馬神社改築奉賛会を結成して行な われた御造営事業も、平成四年三月二十九日竣工慶賀祭が執り行われ、境内整備も含 めて往年の延喜式にみる御馬神社に復興され、加賀の名社としての面目を一新いたし ました。

佐奇神社[サキ]
佐奇神社「息長帶比賣命」石川県金沢市佐奇森町ホ-113 阜嵐健
佐奇神社の由緒
金沢市佐奇森町に鎮座し、祭神は息長帯比売(おきながたらしひめ)命・菅原大神・ 表筒男命・中筒男命・底筒男命、旧社格は郷社。
「延喜式」に加賀国石川郡十座中の佐奇神社とあるのが当社で、社記によれば、神功 皇后が越前国気比の浦より船出して筑柴に赴く途中船を寄せた旧跡の地に 732年(天 平4)創建という。
三州地理志稿に「在鷺森村、今称鷺森社、天平四年始焉、祀神功皇后」とある。 佐奇森の地名は中古防人(さきもり)が置かれたところから名付けられたもので、三 州志に「石川郡鷺森村は防人戍辺の地の遺名成べし」とある。
また犀川の河名も一説には当社名に由来するという。
加賀国式内等旧社記に「佐奇神社、式内一座、大野庄鷺森村鎮座祭神息長帯姫神、佐 奇川之河端也、河名或為犀川」とある。
明治9年社殿を改築、拝殿は天徳院にあった第4代藩主光高の御靈舎(棟札によると 作事奉行小寺武兵衛ら3名で1789年(寛政元)7月7日御上棟)を移築したもの。
明治14年11月郷社に列せられ、同40年9月赤土の菅原神社と住吉社を合祀した。

楢本神社[ナラモト]
楢本神社「伊邪那美命」天武天皇四年の創立。石川県松任市宮丸町1 玄松子の記憶
旧県社楢本神社略記
由来
当社は、天武天皇四年の創立と傅えられ、始め大宮宝社と称して、楢本一村(宮丸荘 宮丸村の古名)の産土神である。
後に延喜年間、楢本神社と改称されたが、旧社地境内に幹周り二丈余る楢の木があっ たため、楢本神社と改称されたと旧記にある。
延喜式の式内神名帳に、加賀国石川郡楢本神社一座が載せられているが、当社である と社記にあり、当時は許多の社領を有して本国中でも著名な神社といえる。
天暦年間、比楽川(現在の手取川)が大氾濫し、社殿流失の災厄に遭遇したため、御 神体を仮に同村館社跡(現宮東地内の館薮という所はその遺跡)に仮鎮座し奉る。
旧社地(現宮丸新田地内)は、その後田畑となり、跡地にその遺跡を示す石碑がある 。
長久四年頃に至り、村民相謀って同村小字宮田(現社地)に新たに社殿を造営して遷 祀する。
この頃より、天台宗の宝誓寺吉本坊が当社の別当となって厳重に神勤したが、嘉祥二 年越前国に移りしばらく同坊無住となる。
慶長手間に入り、同じく天台宗聖護院宮末派持宝院住僧(現宮司高畠正光先祖)が別 当となって神勤した。
 また養老二年には、村内にあった舘社、住吉社、春日社、金戸社、天神社の五社が 当社に合祀された。
さらに、明治に入り神社制度が確立されると、当社は村社に格付されたが、明治二九 年三月には郷社、同三四年一〇月には県社にまで昇格し(昭和二一年二月一日同制度 廃止され宗教法人へ移行)祭例など厳粛に執行された。
明治四〇年三月には、小字免田の宮丸菅原神社、小字刈谷の苅舎神社、小字大割の住 吉神社、小字道村の古本八幡神社の四社が当社に合祀され、現在当社は集めて十社が 鎮座されている。
楢本神社「伊邪那岐命、伊邪那美命」石川県松任市下粕野町寅52 玄松子の記憶
楢本神社「日本武尊」石川県松任市上粕野町イ89 玄松子の記憶

笠間神社[カサマ]
笠間神社[かさま]「大宮賣神」石川県松任市笠間町ル208 玄松子の記憶
笠間神社の由緒
本社は延喜式内の笠間神社にして、遠く崇神天皇の御代より鎮座ましまし、大宮比・ 神を祀る、和銅三年すでに奉幣のことあり、即ち笠間神社圭田四十七束二字田所祭住 吉大神也、和銅三年庚戍四月奉圭田加礼有神家巫戸等とあり、古は社家社僧多数住し 、舘屋敷、三郎屋敷、源右衛門屋敷、坊子薮、大門大御堂経塚と称する遺名の存する 如く、社地広大にして、氏子又数百戸あり、正三位笠間明神と称え、笠間郷(笠間村 、北島村、宮保村、黒瀬村、石立村、松本村、小川村)一村の総社にして、大社とし て信仰者多く、近郷稀にみる名社なり。
一時宮保八幡と称せしは、其の社地現宮保八幡神社と接続せし故なり、即ち、中古笠 間神社神主東保、西保の二保に分れ後民家も東西に分離してより、現笠間村は旧西の 保、現宮保村は旧東の保にして、宮保に八幡田と云う字あり、是に依りて宮保の保の 云うべきを略して宮保村と云う。
その八幡と称するは義仲の故事により当社を源氏の氏神なりと称せるより起りしもの ならん。
斯くて現宮保八幡神社は明治七年八月笠間神社へ附属し、同年八月笠間神社の摂社と なる。
其昔寿永二年木曽義仲加賀合戦に、平軍を追撃し此地に来る。
時恰かも手取川洪水のため、渡るを得ず、当社に減水と戦勝を祈願せらるるに、その 願空しからず、俄に減水して渡る事を得たり。
依つて兜及び喜悦書を奉ると云う。
当時義仲附近住民より寄せたる煎粉に依り空腹を満たせりと伝え、又其時用いし水の 井戸を義仲弓堀の井と称へ社頭に伝う。
依って氏子一同今に至るまで十一月十五日をきし煎粉祭、別に義仲祭とも称し、神前 に煎粉を供え奉りて、氏子も共に食して御神徳を称え奉る特殊の祭典執行せらる。 明治五年の土申十一月加賀国第一区郷社に列せられ、明治三十年九月十六日県社に加 列、同三十九年十二月二十九日神饌幣帛供進神社に指定せらる。

味知神社[ミソチ] 所在不明


神田神社[カムタ]
神田神社[かんだ]「饒速日命」石川県松任市吉田町110 玄松子の記憶
神田神社祀記
当社は、第十二代景行天皇の御代武内宿禰(たけしうちすくね)が北陸及び東方諸国 の風土監察の爲下向のおり、北陸守護の爲吉ケ中と称する地に饒速日命を勧請し、其 の際地名を神田村と命名しました。
延喜式( 905〜927 褊慕)に加賀國石川郡神田神社とあるのは、当神社であり、延喜 式内社、神田神社の正社であります。
長文元年大和国より岡本壮之進が神主として赴任、近郷八十三ケ村の神社に奉仕して おりました。
この岡本家の書によれば、仁明天皇の承和七年(八四一)勅使下向、文徳天皇の天安 元年(八五七)勅使下向、醍醐天皇の延喜五年(九〇五)藤原忠平下向し神田神社と 命名、延長五年(九二七)本殿建立、後朱雀天皇の長暦三年(一〇三九)勅使下向、 後小松天皇の嘉慶三年(一三八九)藤原元隆勅使として参向し、圭田六十二束之宅田 を奉納し、加賀の国の守護職交代の都度先例により、石川郡の総社となることを仰せ 渡されたとあります。
明治三十一年郷社に列せられる。
明治三十九年神饌幣帛料供進社に指定される。
境内地は常緑の密林が神域をおおっており特に南隅には欅の巨幹があり、一つは目廻 一丈九尺、一つは目廻り二丈四勺、幹は空洞をなして優に六、七人中に入って座るこ とが出来るほどです。
この木は武内宿禰の手植といい伝へがあり、鳥居木とよばれ樹令千数百年と言われて います。
神田神社「饒速日命、菊理姫命」石川県金沢市神田115-20 天璽瑞宝


加賀郡:13座並小

小濱神社[オハマ]
小濱神社[おばま]「大己貴神、事代主神、少彦名神」加賀国二之宮。石川県河北郡内灘町大根布ロ-104 阜嵐健
小濱神社由緒(新石碑)
当神社は、延喜式内社にして加賀国二之宮加賀郷総鎮守といわれ、国家鎮護の神なり 、勧請年月不詳なりといえども、元正天皇の養老二年朝廷より小濱磯崎より三十町余 南小濱の松林中(黒津船地内)に転遷、神戸魚取部、数十人置かる。
朝廷よりの崇敬厚く、度々勅使参向され、官幣、神料田地、神宝等を賜う、永徳二年 神階正三位に昇格、又、天正年間に豊臣秀吉が柴田勝家を攻める時、当社に戦勝祈願 に立寄り、兵を宿泊させたと記録されている。
又、藩主前田利家を始め、前田家累代の崇敬厚く、廃藩に到るまで、社殿造営、神具 調進等すべて前田家よりなされ、毎年春秋両度、修覆するを慣例とされる。
故に社紋は、左三つ巴なるも、前田家の家紋剣梅鉢がつけられている。
天保三年、黒津船より石川郡五郎島へ、移転、明治六年八月、石川県より氏子神社三 十八社を小濱神社附属社に取りきめらる。
明治十三年、県社に列せられ、明治三十九年、神饌幣帛供進神社に指定される。
明治二十二年、五郎島より現在地大根布へ移転再建し、それより数えて、今年平成二 年は御遷座百周年に当るを以って、三十八社の氏子等始め、崇敬者の奉賛により、百 周年記念事業として、御本殿の修復、幣殿、拝殿の改築、直会殿の新築等を行い、御 遷座百周年大祭を賑々しく斎行された。

野間神社[ノマ]
野間神社「豐宇賀能賣命」石川県金沢市玉鉾町3−132 石川県と福井県の神社
野間神社「草野比賣神」石川県金沢市小坂町東1 阜嵐健
由緒
本神社は、草野比売大神を主神と仰ぎ、後に春日四座の神々を合祀した延喜式内の名 社であります。
その創始は遼遠の太古に遡り、今その初めをつまびらかにするを得ませんが、総国加 賀風土記に、「加賀郡(後の河北郡)野間神社、斉明天皇二年丙辰九月始奉圭田加神 礼有神家巫戸」との記載がありますので、当時よりすでに規模宏壮な大社であったこ とが窺われるのであります。
又、享保十八年に「鎮座千年祭」を斉行した旨の加賀藩庁の記録があり、更に本神社 にも、天保四年八月に十日間にも亘る長期間の「御鎮座千百歳慶賀大祭執行」と墨書 された桧材の大掲示板が現存していること等よりすれば、野間神社が小坂の地にご鎮 座になったのは、凡そ元正天皇の御代と云われております。
往古の河北潟は広大にして小坂の地辺まで湖沼や大湿地帯であったので、国土生成の 祖神である草野比売大神の神霊を鎮斉して、この土地の守護神と仰いで今日に至った のであります。
近年に至るまで小坂地内に一の津、二の津、三の津、前波などの地名の存したことや 、沖、磯部等の町が現存することなどその証左と云えましょう。 又、河北潟の周辺には、神谷内町の野蚊神社など、草野比売神を鎮斉した神社が点在 しております。

三輪神社[ミワ]
石浦神社[いしうら]「大物主神、大山神」石川県金沢市本多町3-1-30 神社公式
石浦神社と慈光院
金沢市内で最も広大な地域の氏子を持つ石浦神社は大山咋命(日吉山王大神)市姫神 、白山比・大神、天照皇大神、応神天皇、大巳貴命(大国主命)春日神を祀り、古く から石浦郷内七カ村の産土神として石浦山王または地主権現と称せられ、村民から深 く尊信されていた。
石浦郷七カ村は石浦村、笠舞村保島村、朱免野村、木新保村、今市村、山崎村で、そ れらがみな氏子であったから、今の武蔵ケ辻近くから犀川の左岸に至るまでの広大な 地域が含まれていた。
当時の社地は今の長町一丁目で江戸時代には加賀藩士、浅香、由比両氏ら邸地となり 、社の移転後永らく雑木が生い茂っていた。
室町時代にはここに大きな神殿があり、参拝者が多かったが、天正八年(一五八〇) 佐久間玄藩盛政が一向一揆の一大拠点である金沢御坊を攻めた時、このあたりが激戦 地となり、住民の家屋も神社も共に兵火にかかって烏有に帰し古記録は全部焼失した 。
このため神社の由来、縁起等の資料はなくなってしまった。 誠に惜しいことである。
しかしご神体は氏子らが奉体して山中に避難していたが、戦がおさまって平和になる と金沢に奉遷したが、なお神祠仏堂の再興することができず、石浦村の民家に安置し ていた。
その頃は神仏習合で御神体と仏像とを合せ祀っていたが仏像は本地仏と称えられ、有 名な十一面観音であった。
天正十年(一五八二)真言僧不動坊の請求によってこの観音像を彼僧にあずけて守護 させたが、その後、木新保村、小立野、卯辰山等に次々と移転した。
一方、石浦山王の氏子らは前田利家が金沢へ入城してから既に十数年たち、世が平和 になったので社を再建しようと思ったが、旧社地は藩士の邸地になっていたので慶長 七年(一五〇二)三月、上石浦村の地内にあった石浦砦の旧跡に社殿を再興した。
それは今の本多町三丁目にある本多氏の下邸内であった。
この石浦砦は石浦城ともよび、戦国の頃、一向一揆の首領の一人石浦主人がここに拠 ったが、米泉にいた須崎兵庫に攻められて亡ぼされた。
この地は背後は崖で、前には広い霞が池があって、要害の場所であったから、これを 修理して天正の初頃、一向一揆の首領の一人山本若狭守家芸が城主となっていた。
その女が前田利家の側室となり、利孝の母となったのである。
氏子らは慶長十一年春、石浦山王の社地に観音堂を造営し、その年九月、卯辰山より 観音を奉遷した。
この寺を石浦山長谷寺と称した。
これから後、この寺の僧が永らく石浦の神を奉斎したのである。
寛永十八年(一六四一)本多政重が祠殿を造営したので神殿は豪壮なものになった。
また奉仕している石浦山長谷寺は長谷山慈光院と改めた。
これは天平の昔鎮祭の折、天空に慈雲放光のめでたい光景が現出されたと伝えられる 由緒によったもので、これから明治初年まで金沢市民は慈光院とよんでいたのである 。
子供らはこれをなまって「ジクインサン」とよび祭の日に雨が降り続くと「ジクジク 祭り」といって淋しい顔をしていたものである。
この建物は神仏一体の社として深く人々に信仰され、参拝者も非常に多かった。 宝暦九年(一七五九)四月、金沢は大火になり、大部分が焼失するという災害にあい 、この社も全焼したので、文政元年(一八三〇)再造した。
ところが嘉永元年(一八四八)九月暴風雨のため、崖くずれ社殿が崩壊したので、明 治元年四月再建した。
明治になってから神仏分離が実現され、社僧慈光院盛雅が復飾して長谷氏と称し、神 官としてこの神社に奉仕することになった。
また慈光院の本尊である十一面観音は小立野宝幢寺へ移されたが、後寺が百姓町(現 幸町)に転地して今もそこに安置してある。
また前立の観音は大乗寺坂下の長谷院に移された。
これまでの山王地主権現の称を廃して石浦神社というようになったが、金沢市民は永 く親しんできた慈光院の名を呼ぶものが多い。
明治十三年、今の地に移ったが、建物は昔の面影を残して拝殿は寺院の様式であり、 右方の車寄も唐破風造りの優美な構造になっている。
終戦後、この社の近くにあった軍政隊の米兵が、賑やかな祭礼に驚いていたが、その 後、年々この社の参拝者がふえていて、信仰の厚いことを物語っている。
三輪神社「大物主神、菊理媛神、經津主命、武甕槌神、天兒屋根命、比賣神、倉稻魂命 配 大山命」石川県河北郡津幡町北中条サ2乙

賀茂神社[カモ]
賀茂神社「賀茂別雷神」石川県河北郡宇ノ気町横山リ-119-1 かほく物語

神田神社[カンタ]
少名彦神社「少名彦神」石川県金沢市田上本町タ-23
神田神社「饒速日命、菊理姫命」石川県金沢市神田1-15-20 天璽瑞宝

下野間神社[シモノマ]
下野間神社「天照大神、春日明神、建御雷神、天兒屋根命」石川県金沢市乙丸町甲-229 阜嵐健

郡家神社[クムケ]
郡家神社[ぐんけの]「大名持命」石川県金沢市吉原町チ83 阜嵐健
日吉神社「大山神、大己貴神」石川県金沢市三池町33 阜嵐健
郡家神社[ぐんけ]「菊理姫命」石川県金沢市鈴見町二145甲 阜嵐健

須岐神社[スキ]
須岐神社「天兒屋根命、譽田別天皇、息長帶姫命、比大神、武甕槌命、經津主命、比大神」石川県金沢市束蚊爪町ホ100-1 阜嵐健

野蛟神社[ノツチ]
野蚊神社[のか]「高皇産靈神、神皇産靈神、猿田彦神、事代主命、野椎神」石川県金沢市神谷内町ヘ1

神社縁起略記
今を去る約一千二百五十年前(天平三年四月三日)に創立と言われる古社の一社です。 当時神谷内を中心とした付近一帯に疫病が流行し、毎日のように住民が病に倒れ、亡 くなる人もでたそうです。
そうした時白髪の老人が現れ、『自分の言う通りに従えば、衆人一切を救ってしんぜ よう。』と言うので、住民は老人の教える通りに行った処、不思議にも病気が治って しまった。
この老人は『ヌヅチの神である、永く祭祀(イツキマツルこと)せよ。』と言い残し “龍(アマレリ)”に乗って天上雲間に消えた。
そこで住民は、その地に神社を創立して祀ったのが起りであると伝えられている。

波自加弥神社[ハシカミ]
波自加弥神社[はじかみ]「波自加彌神、護國八幡大神」石川県金沢市八幡町ハ165 玄松子の記憶
波自加彌神社の由緒
金沢市二日市町・花園八幡町入会地に鎮座し、波自加彌神(はじかみのかみ)、一国 一社護国正八幡神を主神とし、相殿に神明、春日、諏訪、薬師の神々を配祀する。 旧社格は郷社で、延喜式内の古社である。
創建は 718(養老2年)で、始め四坊高坂の黄金清水(こがねしょうず)に鎮座して いたが、寿永年間の源平合戦の砌、兵火のため社殿亡失し、現在地の田鹿(たぢか) 八幡宮に遷座され、復合の神社となったが、正四位上の神階をもつ波自加彌神が八幡 神より上位と考えて、社名が今のものに変更された。
田鹿八幡宮にとっては、庇を貸して母屋を取られたことになる。
波自加彌神は、調味医薬・五穀豊穣の神として全国に類例のない食産神(しょくさん しん)で、歯でかんで辛(から)いもの即ち、生姜(しょうが)・山椒(さんしょう )・山葵(わさび)などの古語で『薑(はじかみ)』を語源とする。
境内には、神功皇后の三韓征伐の折、朝鮮半島より医薬としての生姜を我が国に初め て伝えた、朝臣武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を祀る摂社ZIN 屏堂(せ っしゃじんべいどう)が鎮座し、生姜の古名を名乗る本社との関係が伺える。
古くはこの地方一帯が生姜の栽培地であったので、守護神として波自加彌神を祀った ことが起源とされるが、田近郷(たぢかごう)の総社として、その地名が田近、田鹿 、波自加彌と転語したとの説もある。
社前を流れる河原市用水は、1686(貞享3年)に完成したが、建設した中橋久左衛門 は、本社の神託によって現れた白狐の足跡をヒントに用水路とした。 以来用水の守護神としても仰がれてきた。
平成13年(2001年)、21世紀に向けて一千三百年の式年大祭を迎える。
以上
(注)文中のZIN は、「言」偏に「甚」です。

大野湊神社[・・ミナト]
大野湊神社「護國八幡大神、天照坐皇大御神、猿田彦大神」当社の起源は、聖武天皇神亀四年(七二七)猿田彦大神を、既に鎮座されていた神明社(祭神・天照大神)の傍に勧請したのが始まりといわれている。佐那武大宮大明神の社号を得た。 奥州の住人[佐那]と言う者が海中より御神体を引き上げ真砂山に奉鎮した。[佐那]は[さなぎ]で製鉄に関わる地名である。奥州の金売によって製鉄技術が伝えられたと推測されている。石川県金沢市寺中町ハ-163 神社公式
大野湊神社の由緒
当社の起源は、聖武天皇神亀四年(七二七)猿田彦大神を、既に鎮座されていた神明 社(祭神・天照大神)の傍に勧請したのが始まりといわれている。
この神明社の創設は不詳であるが、あらたに猿田彦大神を天照大神と合祀されてより 、この社を大野郷(旧宮腰・現金石町)の湊の守護神として、大野湊神社と称される ようになった。
後深草天皇建長四年(一二五二)社殿炎上により、東八丁をへだてた離宮八幡宮(現 在地)に奉遷され今日に至る。
歴代朝廷、武将の尊崇篤く、特に加賀藩主前田利家公は任国の際、本陣となった当社 の荒廃を憂い、宮腰をはじめ十五ケ村にその総社として祭資を供進させて社殿を再興 。
二代前田利長公は毎年の神事能興行の例をつくり、また三代前田利常公は、寛永十六 年(一六三九)社殿を造営し、氏子村を増加させるなど、歴代藩主の崇敬きわめて篤 く加賀藩五社の筆頭の位置にあった。
明治十八年県社に、昭和四十一年神社本庁別表神社に指定された。
寺中の森として有名な社叢は、昭和五十二年金沢市文化財に、寛永十六年に造営され た本殿三棟は、昭和五十七年石川県文化財に指定されている。
毎年八月一日より三日間執り行われる大祭は、五百二十五年間大野郷に鎮座されてい た当時を偲び、海岸の仮殿に神輿を奉遷して行なわれるもので、金石の夏祭りとして 有名である。
なお、慶長九年に創始された神事能は、現在も金沢能楽会関係者により五月十五日に 奉納されている。


野蚊神社[ノカ]
金山彦神社「金山彦命、野蛟神」石川県金沢市蚊爪町 阜嵐健
笠野神社「笠忍姫命」石川県河北郡津幡町字刈安ヨ22
野蚊神社 石川県金沢市琴町 阜嵐健
野蚊神社 石川県金沢市滝下町 石川県と福井県の神社

笠野神社[カサノ]
笠野神社「手力雄命」石川県河北郡津幡町笠池ヶ原ト137 阜嵐健
清水八幡神社「合 吾田鹿葦津姫命、市姫神 主 應神天皇、大己貴命、建御名方神」石川県河北郡津幡町清水リ115 神社公式


H24.1.25
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