三之宮神社
大阪府枚方市穂谷2-7-1 its-mo

二の鳥居と拝殿

交通案内
JR学園都市線 長尾駅または津田駅からバス穂谷行き 神社前下車


祭神
素盞雄大神、御食津大神、大國主大神、天津神、住吉大神、仁徳天皇
摂社 稲荷社「熊鷹大明神」




由緒

 仁徳天皇二九年の創建と伝わる。
 本殿裏には二個の屋根形の巨石がある屋根石と呼ばれ、御神体である。
 「俚俗、此大石を欽明天皇ご即位の地なりと伝えるが、如何にや。」と『大阪府史蹟名勝天然記念物』に紹介されている。
 神社名も通称屋形大明神よ呼ばれる。

 神社前バス停の付近は穂谷縄文時代遺跡として知られた場所で押型文土器など縄文早期から前記の遺物が出土している。

本殿

二箇相並び手内に船形の凹部を作る。



お姿
 山背街道や大和平野北西部に出る交通の要所に鎮座、また穂谷川沿いに鎮座、水神祭祀の神社であったようだ。 道路から鳥居、本殿、磐座と純に下っていく作りになっている。創建当初からそいうであったのか、創建時には穂谷川沿いに古道があったのかも知れない。
 落葉の季節のまっただ中の参詣だったが、境内には落ち葉一つないほど行き届いた箒目がついており、神職さん方の心が伝わってくる。
 『大阪府全志』には「古松老杉鬱蒼として社頭を覆い、渓泉近く響き禽鳥鳴囀し、閑雅幽静にして自ら一境を為せり」と記されているが、このようにあろうとするべく勤められているように感じる。

 屋根形石は本殿背後に並ぶ。古墳入り口の両側の石なのか、石棺の蓋なのか、人の手で加工されている。



お祭り
 10月15日 秋季例大祭

平成祭礼データCD 由緒


三宮神社略記
当社は社記によれば神功皇后九年秋、新羅国征討の時当地を御行幸されましたが、山深く谷険しく路難ため天神地祇に御祈願されました。その時神現あり、
「難路故各所ニ物ヲ置キ導キ奉ラント告ゲ給ウ」
果たして行軍の先々に白幣を筒竹に挟み所々に置き道案内をした、なを「皇后に軍謀秘策ヲ告ゲ給ウ」皇后無事平定され御凱旋後喜ばれて幣白を寄進された。その後仁徳天皇二十九年春、額田大中彦皇子に社殿建営を命じ創立した。孝謙天皇天平勝寶二年、勅して息筒大明神の神号を授け給い、文徳天皇仁壽二年、惟喬親王を遣はして正三位勲六等の宣下あり。後冷泉天皇治暦元年正月二十九日、山火に係て灰燼に帰したが、八年後の延久四年、再建さる。後堀河天皇貞応元年九月、賊徒の為に社殿等消失しければ、嘉禄二年三月、中原宗兼外當郷住の三十餘人に依りて再興せられ、爾来数回改造修復を加えられしが、慶長年間に大阪城の鬼門除けとして、豊臣秀頼により再興され交野三の宮と称した。今の社殿は寛永十一年の再建である。創建当時は息筒大明神と称したが、屋形大明神、住吉大明神と呼ばれたが、鬼門厄除けの交野三の宮と称した後三宮屋形大明神、三宮住吉大明神等呼ばれていた。
祭式は最も厳粛に行はれ、往時は古軒と言われる氏子百三十九軒の古軒者は裃帯刀で拝殿に着座して祭祀を行っていた。古軒百三十九軒は交野三十九士の裔にして永禄年間では五ケ郷(津田村、藤坂村、杉村、尊延寺村、穂谷村)の侍であった。三之宮神社は津田郷の総社で氏子は津田村、藤坂村、杉村、尊延寺村、穂谷村、長尾村、野村で有ったが現在の氏地は津田(大峰を含む)、杉、尊延寺、穂谷となっている。祭礼に際して、嘉吉年間以来、住吉踊りを神前に催したが、応仁の乱に中絶、寛文二年再興したが安永六年、再絶している。その後雨乞の祈願祭の時にはときどき行っていたが現在は絶無となっている。
以上

参考 『大阪府の歴史散歩』山川出版社

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