鴨高田神社
大阪府東大阪市高井田一二八○番地 ゼンリン


鳥居とお相撲の幡


交通案内
近鉄奈良線河内永和駅北200m




祭神

速須佐之男命(素盞嗚尊)
大鴨積命(大賀茂都美命)
『新撰姓氏録』大和国神別に賀茂朝臣 大神朝新同祖。大国主神之後也。大田田禰古命孫大賀茂都美 一名大賀茂足尼。奉斎賀茂神社也
神功皇后(息長足姫尊)
應神天皇(品陀別命)

当社由緒略記

 当社はその創建が遠く白鳳二年(673年)と伝えられる延喜式内社であり【延喜神明帳】によれば渋川郡六座の筆頭に位置する官幣小社であった。中世に至り【岩清水文書】保元三年(1158年)の官宣旨には石清水八幡宮領として河内の国高井田の庄の名が見え後【河内誌】には当社について「在高井田村今若江郡也 山州八幡神祭料 因稱八幡宮」とあり当社が岩清水八幡宮領となりこれが八幡宮と稱される由縁である。
 この付近が戦場となった大阪夏の陣元和元年(1615年)には当社も兵火にかかり社殿ことごとく烏有に帰したが後数年を経て再建され【河内名所図絵】には当社北隣長栄寺の鎮守となり今八幡と稱されるとある。
 明治元年(10868年)神佛分離後明治五年郷社に列せられ同年三月西高井田八幡社、五月に新喜多山科神社を合祀し明治十四年(1881年)社殿及び拝殿を新築し明治四十年(1907年)一月神饌幣帛料共進社に指定され更に同年四月高井田北ノ町八幡社を合祀し現在に至っている。

本殿



御祭神
 当社の祭神については【神名帳考証】は大鴨積命とし、又【大阪府全誌】【大阪府史蹟名勝天然記念物】は速須佐之男命としているが、現在は速須佐之男命、大鴨積命、神功皇后、應神天皇の四御柱を祭神とする。その由来は、【神祇全書】【旧事記】によれば古代氏族鳴氏の祭神が大鴨積命であるとしている。その鴨氏について【古事記】には、崇神天皇の御世(四世紀初期)速須佐之男命の後裔太田田禰古命が天皇の勅命を受け荒び猛び給う大三輪神を斎き祀り静めし事によりその孫大鴨積命が鴨(賀茂)君の姓を賜うとの条が見える如く元来、大和葛城を本拠に主に祭祀(祭典)を掌った氏族である。往古その鴨氏の一族がこの地に居移し鴨氏の開祖大鴨積命及び、祖先神速須佐之男命を祀ったのが当杜の始まりであり社名もそれに由来する。又、應神天皇は八幡宮の主神であるが前述の如く石清水八幡宮との関係によりその母体である神功皇后と共に当社の祭神に加えられたものである。

社記
 後醍醐天皇、延喜十八年(918年)当地方大洪水にて五穀稔らず諸民当社に祈願をこめて霊験有り百姓大いに喜べりとある。宝歴、安永年間(18世紀)の悪疫流行の折、神職久左衛門が一月九目より十日間断食して悪疫祓除の祈願を行い全村その厄を免れたと伝えられる。なお拝殿西側にある樟は樹齢約一千年といわれ今は幹が少し残る程度であるが通稱お駒樟と呼ばれ昔お駒狐が棲息していたとも、お駒なる女性がこの木に呪呪詛の釘を打ち込み願いが叶えられたとも伝えられる。

境内は約千四百坪有り、本殿、拝殿、神饌所、宝庫、手洗所、社務所を有し、末社には水神社、鴨稲荷社、鴨戎社がある。
 昭和三十八年七月十八日未明、花火による失火の為本殿檜皮葺屋根を半焼したが直ちに銅板にて葺き替え修理された。
                以上

お姿
  平地の真ん中に鎮座している。本殿背後の北側に長栄寺がある。 南側の鳥居の下で柏手をうってお詣りした。 東、西にも鳥居があるが、南側の鳥居が正門のようだ。

 木々が鬱蒼とは言えないが、広い境内で、西の稲荷社の隣では相撲部屋が大阪場所のために小屋掛けをしており、相撲取りが歩いていた。

拝殿


お祭り


夏祭  七月十七目
秋祭  十月十七目


『大阪府神社史資料』、『当社由緒記』

神奈備神社一覧大阪

神奈備にようこそ