蹉陀神社
枚方市南中振1-7-18 google

交通案内
京阪光善寺駅 線路沿いに南へ600m左折200mを登る



祭神
 菅原道眞

線路沿いの鳥居  鎮守の森の鳥居
 




由緒
 創建の年月は不詳。もと西南数丁を隔つる蹉陀山の麓に在りて近郷二十五ヶ村の産土神と崇敬せられしが、一時争論があり、今の所に遷祀せるものなりと伝わる。
 口碑に傳ふ、神体は菅公自作の等身像にして其の筑紫へ謫遷せらるる当り此の地に休息せられしに息女苅屋姫、跡を慕ひて此處に来られしが公の既に発せられし後なりしを以て空しく西方の天を瞻望して悲嘆蹉陀して止まりき。然るに公、姫の心を慰め且紀念と為さんと欲し身づから像を刻して此の地に止めしを、其の薨去の後、祠を建てて之を祀り、且、地を呼びて蹉陀と云うと。
 後、慶長の兵火に社殿を焼きしが神像は恙なきを得、爾来、世人の崇敬頗る厚く現今の社域は僅かに数百歩くに過ぎざれども先に上地せし包圍の官林の払い下げを請ひ広潤なる神苑を造らんと計画せり。既に荘厳なる新営の社殿に加えて四面絶佳の風致を以てせば神聖なる浄域更に崇高を加ふるに至らん。
 社に隣して龍光寺址あり。寺は聖徳太子の草創に係わり古は七堂伽藍具はりて輪煥の美を極めしが今は亡く、寺寶たりし法眼隆賢筆釈迦八相の曼陀羅の大幅は村の浄土院、今之れを管せり。
(大阪府誌)

神門から続く石段  摂社
 




お姿
  社前の説明板には創建は天暦五年(951)とある。
 京阪電鉄の線路沿いの道に大きい鳥居が建っており、ここから登っていく。参道は一般の道になっており、狭い道を自動車も走る。
 神域の森前に鳥居があり、神門をくぐるとまた石段が続く。左手に摂社が並ぶ。 お稲荷さん、春彦神社「市寸島毘売尊」、金比羅さん、皇太神宮
 拝殿前には石燈籠がこれまた並ぶ。昔の勢いを語っている。本殿ともども瓦葺き。

拝殿


お祭り

 10月14日 例祭

本殿


由緒 平成祭礼データから

  延喜元年正月、筑紫へ御左遷の途、此山にて暫時御休息あり。遥かに都の方を望み深く名残を惜しみて西し給へり。後人此山を菅相塚と称ふ。然るに都に残り居給ふ御公達方の中にも御寵愛浅からざりし苅屋姫の君、御別れを惜しませ給ひ御跡を慕ひ此地にならせられしか、遂に及ばずして遥かに西天を望み蹉陀して悲嘆せらる。其旧跡を蹉陀山と名つく。時に御丈三尺二寸の御坐像を配所にて御手ずから作らせ給ひしを当山に社殿を営み近郷二十有五個村の産土神として斎き祀りしか、慶長庚戌の兵乱に社殿は残らず炎焼したれども御神像のみは厳然としてましまし、現在の所に移し奉り中振出口両村の産土神として奉祀し明治五年、郷社に昇格。翌六年二月、堺県より祠司を派遣。爾後奉仕の社職を欠かす。明治四十年八月、府告示を以て神饌幣帛料供進社に指定。翌四十一年十月、府告示を以て会計規程適用を指定し以て今日に至れり。

旧跡
 菅相塚 蹉陀山の東方数町香里遊園地内にあり。延喜元年正月、公の左遷させられて筑紫へ赴き給ふ時、此地に憩ひて遥かに都の方を望み深く名残を惜しみ給ひし地なり。 蹉陀山 香里遊園地内にあり。公の御左遷の折、御息女苅屋姫深く別れを惜しみ給ひ御跡を慕ひ密に都を出て此所までならせられしか遂に及ばずして、悲嘆蹉陀せられて旧跡これより此山を蹉陀山といひこの村を蹉陀村と称ふ。 蹉陀池 蹉陀山の南麓にあり往昔は四個ありしが現今は一個のみとなり他は水枯れたり。其水流れて蹉陀川となり、香里村に入りて前川と称し終に寝屋川に注ぐ歌枕たり諸誌にみゆ。

蹉陀川 源を菅相塚に発し蹉陀の池を経て香里村に入り前川と称ふ。

社殿
 天暦五年、蹉陀山に創建せしより爾来幾多の変遷を経て現在の社殿は明治二十二年三月に改築せられたるものなり。

御旅所
 蹉陀村大字出口にあり即ち十月十五日にはここに渡御あり。

御文庫
 御文庫講と称し大阪市著名書籍店を網羅したる崇敬者七十余氏より時々書籍の寄贈を受け随時何人にも閲覧を許すこととす。

境内の花樹
 四時樹木鬱蒼とし老松殊に多く詣する者自ら森厳を覚ゆ。神苑には梅桜楓等の樹木多く社頭を飾る社務所は名刹竜光寺のありし所にして庭は石川丈山の作といひ巨石を配する間に年を経たる躑躅多く近郷に名をなす。
  以上

河内名所図会


『大阪府神社史料』、『平成祭礼データ』

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