由緒 平成祭礼データから
延喜元年正月、筑紫へ御左遷の途、此山にて暫時御休息あり。遥かに都の方を望み深く名残を惜しみて西し給へり。後人此山を菅相塚と称ふ。然るに都に残り居給ふ御公達方の中にも御寵愛浅からざりし苅屋姫の君、御別れを惜しませ給ひ御跡を慕ひ此地にならせられしか、遂に及ばずして遥かに西天を望み蹉陀して悲嘆せらる。其旧跡を蹉陀山と名つく。時に御丈三尺二寸の御坐像を配所にて御手ずから作らせ給ひしを当山に社殿を営み近郷二十有五個村の産土神として斎き祀りしか、慶長庚戌の兵乱に社殿は残らず炎焼したれども御神像のみは厳然としてましまし、現在の所に移し奉り中振出口両村の産土神として奉祀し明治五年、郷社に昇格。翌六年二月、堺県より祠司を派遣。爾後奉仕の社職を欠かす。明治四十年八月、府告示を以て神饌幣帛料供進社に指定。翌四十一年十月、府告示を以て会計規程適用を指定し以て今日に至れり。
旧跡
菅相塚 蹉陀山の東方数町香里遊園地内にあり。延喜元年正月、公の左遷させられて筑紫へ赴き給ふ時、此地に憩ひて遥かに都の方を望み深く名残を惜しみ給ひし地なり。
蹉陀山 香里遊園地内にあり。公の御左遷の折、御息女苅屋姫深く別れを惜しみ給ひ御跡を慕ひ密に都を出て此所までならせられしか遂に及ばずして、悲嘆蹉陀せられて旧跡これより此山を蹉陀山といひこの村を蹉陀村と称ふ。
蹉陀池 蹉陀山の南麓にあり往昔は四個ありしが現今は一個のみとなり他は水枯れたり。其水流れて蹉陀川となり、香里村に入りて前川と称し終に寝屋川に注ぐ歌枕たり諸誌にみゆ。
蹉陀川 源を菅相塚に発し蹉陀の池を経て香里村に入り前川と称ふ。
社殿
天暦五年、蹉陀山に創建せしより爾来幾多の変遷を経て現在の社殿は明治二十二年三月に改築せられたるものなり。
御旅所
蹉陀村大字出口にあり即ち十月十五日にはここに渡御あり。
御文庫
御文庫講と称し大阪市著名書籍店を網羅したる崇敬者七十余氏より時々書籍の寄贈を受け随時何人にも閲覧を許すこととす。
境内の花樹
四時樹木鬱蒼とし老松殊に多く詣する者自ら森厳を覚ゆ。神苑には梅桜楓等の樹木多く社頭を飾る社務所は名刹竜光寺のありし所にして庭は石川丈山の作といひ巨石を配する間に年を経たる躑躅多く近郷に名をなす。
以上 |