佐太神社
守口市佐太中町7-16-25 mapfan
鳥居
交通案内
地下鉄大日駅 北東2km
祭神
菅原道眞
由緒
創建の年代詳かならざれども此の地は道真の領地なりしかば左遷のとき都の噂此の地方まで喧しかりし故この所を沙汰と名づけ、且つ、諸民其の徳を慕いて別れを惜しみしを以て身づから其の像を彫刻して残しゝを齋き祭れるなりといふ。(大阪府志)
参道の摂社 愛宕社 稲荷社
お姿
京街道より入れば一大華表の厳として堤上に立てるを見るべし。是当社第一の華表にして華表を入れば長松一路直ちに中門に達す、この間壹百有餘間、之を馬場先とす。(大阪府志)
大きい鳥居をくぐって参道に先ずお旅所がある。
境内には一輪二輪の梅の花がほころんだ木々が各所に生えている。
明治天皇が大坂に行幸の途中に当社に御参拝、下賜せられた玉座の御畳は宝物として神庫に保管していると云う。
拝殿
お祭り
10月19日 例大祭
本殿
由緒 平成祭礼データから
文教の祖神として、世の崇敬厚き佐太天神宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公を御奉祀する神社である。
昌泰四年(九O一)菅公筑紫に左遷せられる途次、当地は公の御領地であったので暫時ここに滞在され、去るに臨んで自作の木像と自画像を残された。又この時垢のついた楊枝を土に挿し、「我が身の無実の罪たることの証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓われたところ、程なくこれから発芽して、見事な松の木に成長したので、其の名を「アカ松」(明しの松)と称え、今も跡地に「アカ松」の名を留めている。
延喜三年(九O三)二月二十五日公が配所に薨じ給うてより約五十年後天暦年中、里人その徳を慕って公の残し置かれた御自作の木像を御神体としてお祀りしたのが佐太天神宮の創建である。それより河内国茨田郡大庭荘の惣社となり、天正八年(一五八O)小出播磨守秀政が社殿を再興し、慶長十八年(一六一三)には二代目吉政、十花千句の連歌を奉納した。三代目吉英は、元和元年(一六一五)大阪陣の後、社殿を再興し、年々米十一石五斗を寄進した。
現在の社殿は淀城主永井信濃守尚政、当地方の領主となり、当宮の社宝たる文安三年(一四四六)の天神縁起と勧化帳を見て大いに崇敬し、寛永十七年(一六四O)本殿を再興し、慶安元年(一六四八)には拝殿、神門、鳥居等を造営した当時のもので、特に本殿は江戸初期の建築様式を伝えるものとして建築史上貴重な建造物である。
正保三年(一六四六)に記された儒家、林法印道春の「河内国佐太菅廟記」に「夫神之為徳也無所不至矣、干宰府干北野干佐太干天地之際無所不在焉、人皆可敬而信也」とあり又、明暦二年(一六五六)大徳寺の天祐の手記によれば「京より西し、或は西国より上洛する者、老若男女貴賤を問わず其の数幾千万人たるを知らず、皆此の宮に詣でて、その輪奐の美に感ぜざる者無し」と述べている。当時参詣人の多かった事は全国有数で天下三天神の一と称せられたのもあながち誇張ではなかったのである。
爾来、春風秋雨茲に三百有余年、其の間五十年毎に大祭を執行し、毎年正、五、九月の三回に連歌を奉納して近年に至った。明治元年三月二十二日、明治天皇大阪行幸の御途次、当宮にあらせられた。
当宮神殿の額、佐太天満大自在天神は曼珠院良恕親王御筆、一の鳥居額、佐太天神宮は二品竹内御門主良尚親王御筆である。
以上 |
河内名所図会
『大阪府神社史料』、『平成祭礼データ』
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