白木神社跡・多々良宮跡
南河内郡河南町白木 ゼンリン白木 ゼンリン多々良

白木神社遙拝所 ゼンリン




交通案内
富田林駅南東2.7km



祭神
白木神社 素盞嗚尊
多々良宮 琳聖太子 百済の武寧王の孫 大内氏の祖 周防国多々良浜に上陸 聖徳太子から多々良姓をもらう。ただし架空の人物かも知れない。


白木神社跡 中央の男性の足下に井戸




白木神社・多々良宮社の由緒
  『河南町誌』は、当社は古来白木三郷(白木・長坂・今堂)の鎮守であり、江戸時代には「牛頭天王社」と呼ばれていたが、明治に白木神社と改名したとしている。白木は新羅である。
 『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」に、白木坂の地名があり、古代からの地名であることがわかる。
 ここより西の佐備や錦織は百済郡があった場所であり、当地は新羅からの渡来人が多く住んでいたと思われる。

 近くに多々良地名や多々良宮があり、多々良千軒と云われたほど繁栄していたようだ。楠木家に仕えたが、北朝の畠山氏が楠木氏を滅ぼしたので多々良村もすっかり荒廃してしまった。

 『後太平記』に云う、多々良氏野上修理亮は楠木家に仕えて誉あり。然れども次第に衰え、終には正勝十津川の方へ漂白し、和田等も悉く何処ともなく蓄電せし故、多々良の某も我館をたちのかんとせしが、まず琳聖太子の宮に詣で、お暇を乞せしと書けり。。。。この多々良の某は長坂白木の間に住しと見えたり。多々良の谷と云う所にあり。琳聖太子は多々良氏の祖神也。仍て我館の辺に琳聖太子 を請して宮を建、氏神とせしと聞こえたり。(可正旧記)


白木神社跡 向こうが代官所跡の邸宅 一万石の代官

多々良宮跡

多々良千軒跡 谷の手前




お姿
  白木神社の遙拝所は建水分神社を向いている。不思議なことには遙拝所には「白木」の文字は一切記載されていない。

 白木神社跡は単なる草むらである。奧に井戸が残っているのが神社跡を物語っていると云う。神社の向かいには旧代官所があり、現在も旧庄屋さんの住む家のように見える。一万石の代官であり、白木藩とも呼ばれた。

 千軒の西の台地の上に鎮座していた多々良宮跡も草むらとして残されている。白木神社と同じく手入れがなされている。両社とも木々が鬱蒼とした神社であったと云う。

 建水分神社には、楠木氏が敬った多々羅神社が合祀されている。


お祭り

 


『大阪府神社史料』 『河南町誌』

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