住吉神社
河内長野市小山田町453番地 mapfan


南側の石段を登った所の鳥居

交通

河内長野駅 西2km 岡の上



祭神

底筒男命、中筒男命、表筒男命 合祀 氣長足姫命、武内宿禰、國津神、高オカ神

 五社大明神と云われ、薬師、阿弥陀、大日、観音、地蔵を祀るとされた。


拝殿


由緒

 神功皇后三韓征伐のとき、深く三神に後祈願ありて、凱旋の後摂政十一年四月上の卯の日を以て、摂津住吉に祀り、同五十二年四月中の卯の日を以て此の地に祀り給ひ、爾後豊浦神社と称し来りしが、明治の初年今の名称に改められたり。
 神社地の付近には神功皇后征韓に関する古伝が多いようだ。
 1.清崎神社(当社)の祭事として競馬を催す。これ皇后凱旋時の御時裸馬の競争催されし故事に因るとか。
 2.鉾立 泉北郡神谷村に通じる河泉両国境にあり、神功皇后征韓凱旋陣の時、鋒を勢揃いをなし給ひし所なりと言う。
 3.旗の坂 同じ傍らにありて、皇后が凱旋の際旗を立てて、休息され給ひし所と伝ふ。
 4.壷ひき坂 軍用の壷をひき登った阪なりといふ。
 5.高天原 清崎神社内にある一小丘にして、皇后凱旋の御時着御の御所なりといふ。
 6.小山田人足 住吉神社祭典の時御輿渡御に際し「小山田人足揃ったか」と口々に唱える慣習は古来地方より十六名の神輿舁が送られ居しに因るものにて、矢張り皇后の征韓以来の由緒あることなり。
 7.弓を射ること 清崎神社にては毎歳必ず一月中の卯の日に弓を射るの式あり。これも皇后凱旋の故事に因ると伝う。


本殿 流造



お姿 

 『日本書紀』(仲哀九年)の記事。「仲哀天皇が筑紫香椎宮で亡くなられた。(中略)斎宮を小山田邑に造らせられた。」の記事があり、符合するように、当社の高台の南端に、仲哀天皇陵と伝わる古墳があり、当社は注目される存在。

 『日本書記』(神功皇后摂政二年)の記事。「二年冬十一月、仲哀天皇を河内国長野陵に葬った。」とあり、 それこそ当社高台の南端かも。


馬駆神事の場所と杜



お祭り 

 10月 12日 秋季御例祭(馬駆神事)

平成祭礼データ

 当神社は小山田の東南尾上山の丘陵に鎮座し神功皇后三韓征伐の時、深く三神に祈願ありて凱旋の後、天下を巡行せられし時、和泉の国逆瀬川の上に謄陀船と云う処に御着き遊ばされ、それより河内の国に行幸せらし時、弓を射てこの矢の落ちたる処を着御の地と御定めになり、其の時その国境いに名主興三五郎と云う者御迎えに出で御先導申し上げ当神社の南方高天原に御着き遊ばされ給えり。 それより攝政五十二年此の地に斎宮を建立せられ給う、最も多くの歴史をもつ尊い宮なり。文化十酉歳十二月吉祥日に本殿建替す。
  以上

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