瓜破天神社
大阪市平野区瓜破5-4-19 mapfan

鳥居

交通案内
地下鉄谷町線喜連瓜破 南へ1200m


祭神
素盞嗚尊、菅原道眞、平維盛

摂社 稲荷社、小松神社、成本天神社、西瓜破天神社

由緒
 創建は古く、孝徳天皇の時期、船氏道昭の勧請による。白雉年中、三密の教法観念の折、前方に光明の赫々たるを感得し、翌朝に到り之を見れば、真木の洞中に天神の霊像出現ありしかば奇異のことと思いをなし、先ず瓜を破って神前に供え、社殿を営んで奉祀した。神社創建譚と地名説話である。
 往時は方八町の宮と称されるほど広大な社域であったが、幾多の戦乱に巻き込まれて荒廃し、あげくには社地はほとんど開墾されていたと言う。
 当社の北に牛頭天王社があったが、これを併せて一社とした。後に天満宮、小松神社などを合祀した。

拝殿

お姿
 参拝時は丁度小学校の下校時であった。ランドセルの後に「ブザー付き」のマークを付けている学童が多い。ぶっそうな世の中になったものだ。
 学校の横の道にはいると神社が近道で、よいたまり場になっているようだ。
 社殿の南側は広く空いており、ゲートボールなどをやっているのかと思う。
 本殿は流造、東面している。

本殿



お祭り
 10月 17日 秋季例祭

平成祭礼データ

瓜破天神社
 瓜破の歴史を記憶し唯一現存する船戸録(元文元年一七三六記)によれば孝徳天皇の大化年中(六四五−六四九)当地に居住された高僧船氏道昭が五月晦日、三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。道昭歯、朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜ひ、この霊像を祭祀して当所に氏神と崇め奉り西の宮又は方八丁の宮と称したのが当社の起源であると記されている。当社の北部に牛頭天王を祀る(祭神素盞嗚尊、起源鎮座年月不詳)があって北の宮と言われていた。慶長年代(一五九六−一六一八)に至り公命によって北の宮を西の宮へ合祀した。寛永年間(一六二四−一六四三))に耕作の都合で集団移住し西川村(旧西瓜破)を形成し、そこに氏神として祀った天満宮(祭神、菅原道真、創立鎮座年月不詳)、さらに東北部に東の宮と称した小松大明神(祭神、平維盛)があった。この社は、壽永年間(一一八二−三)平重盛に大恩をうけた源氏の武将湯浅七朗兵衛宗光が京都守護職としていく際当地にて嫡子維盛が熊野浦にて入水の由を聞き及び追悼慰霊を営み神領五〇歩を寄進して宮居を建てたのが起源となる。
  以上


『大阪府史蹟名勝天然記念物』、社前掲示板

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